第356話 猛獣の尻尾①


 記憶にある姿とはあまりに違いすぎる変化に混乱するが、今はそんなことを考えている場合ではないとリリアーナは思考を切り替える。

 いま自分の正体を明かしたところで状況を良い方向へ持って行ける自信はなく、いかにもそれは悪手だという予感もする。イバニェス家の娘だということも、デスタリオラの記憶を持つことも黙っていたほうが良さそうだ。

 金歌は決して心根の曲がった女ではなかったが、ひとまず今は敵対者として対峙することを受け入れよう。

 衛兵に八朔を渡す気はなく、自分だって連行されるつもりなどないのだから。


「こんな騒ぎとなっては、目撃者だって周囲にどれだけいるかわからない。権力を笠に着た強行はお薦めしかねるな」


「それを判断するのはお嬢ちゃんじゃ、……っと、話の途中だよ、マナーってものがなってないね!」


 素早く踏切りの一歩を切った八朔だったが、間合いが上手くなかった。振りかぶった正拳の初手はたやすく受け流され、するりと横を抜けられる。

 それを予測したわけではないだろうが、動体視力かはたまた勘か、無理な体勢ながらも金歌の動きを捉えたとばかりに肘打ちを見舞う。

 回避できる距離ではない、と傍目にも見えたのに、金歌はわずかに首を逸らすだけで攻撃をかわしきる。

 そのまま、逆に不必要なまでについた勢いを利用され、八朔は足を引っかけられただけで転倒してしまう。さらにかけた足を引くことで受け身の体勢をも妨害し、ごろごろと転がった少年の体を横から蹴りつける。


「姿勢も重心も丸でなっちゃいない、鍛錬をさぼるからこうなるんだよ」


「うっせ、クソババア!」


 八朔は罵倒を吐くなり、仰向けの状態から両足を空中に蹴りだし、その勢いで器用に立ち上がった。

 だが、余分な動作が多すぎた。両足が地面につくやいなやすぐに足払いをかけられて、浮いた体を思い切り横方向の掌底が襲う。

 鈍い、肉を打つ音。

 腹に一撃を受けた少年の体は、まるで体重がないように易々と吹っ飛んだ。


 息つく間もない攻防に、見ているだけでもじっとりと汗が浮かぶ。

 こうして観察による客観的な判断はついても、今の自分ではあんな体術に対応することは不可能だ。

 元々血統として優れた体躯と身体能力を有する鉄鬼族だが、それに恵まれなかった者たち――先天的に体が小さかったり、混血によって力の落ちたかつて集落から迫害された者たちは、自ら鍛錬を重ねることでその不足をカバーしてきた。この、目の前の金歌のように。


 動きの端々に黒鐘仕込みの技と癖がうかがえる。

 そこに一抹の懐かしさなんて感じている場合ではない。八朔が倒れてしまえば今の自分を守ってくれるものは何もなく、ひとりでは逃亡だって不可能。

 テオドゥロを行かせたのは失敗だったか、と思うが負傷しているマグナレアは放っておけない。

 カミロもまだ二階なのだろう、小さくなって入り込んだ飛竜ワイバーンモドキとアダルベルトのことも気掛かりだ。

 そういえばアイゼンはどこへ行ったのか、と周囲をうかがっても姿は見当たらなかった。

 そうして探す視界の端に、はためく布が映る。


 庭石に手をつき立ち上がろうとする八朔へ、金歌の拳が迫る。

 振りかぶる動作もなかったそれを、誰かが横から軽くはたいた。

 軌道のそれた拳をくぐるようにして屈む少年の腕を掴み、そのまま半回転する勢いを活かしふたりで立ち上がる。

 動くたびにはたりと舞う布は、長いスカートだった。


「事情はよく存じませんが、私刑紛いの暴力は如何なものかと」


「何だいあんたは、どっから出てきた?」


「どこからという問いならば、門から入って参りました」


 答える半ばで胸倉を掴もうとしてくる腕を、エプロンドレスの女は半歩の移動でするりとかわす。

 場違いなほど優雅な動作には、まだまだ余裕がある。こつり、と敷石を踏むたびに靴の踵が上品な音を鳴らした。

 その足元は見慣れた制服の靴ではなく、光沢のある編み上げのブーツだ。

 先ほど布のはためきを目にした方、聖堂の門扉へ視線を戻すと、黒い服によってひしめく衛兵たちに隙間が空き、そこを並木通りでも往くようにゆったりとした足取りで歩いてくる姿があった。


 この町にいるとも、来るとも思っていなかった。

 声をあげるのも忘れて呆然と突っ立っているしかできない。

 こちらの驚きはわかっているとばかりに、黒い制服に囲まれた背の低い人物は悠々と歩み寄ってくるなり、そっと肩に柔らかな手を置く。

 普段はわかりやすい優しさなど表に出さないくせに、その手からは素直に向けられる労いを感じ取った。

 間近で向けられる紺色の瞳と、八朔を支えたままこちらを気づかわしげに見ているトマサに、なんだか屋敷へ帰りついたような安堵が生まれる。

 思わず兄の名前を呼びそうになったのを、唇に当てられた指が遮る。それだけで相手の意図はつたわり、言いかけた名前を飲み込んだ。


「状況の説明してくれる、手短に」


「ええと……探し物・・・は二階だ。先ほど飛竜ワイバーンの襲撃を受けたけれど、今は小さくなったしカミロがいるから大丈夫。中でマグナレア様が負傷しているからテオドゥロに行かせた。そこの少年は例の武器強盗の犯人だが反抗の意思はなく、この衛兵らにわたし共々連行されそうになっている」


「……二十個くらい突っ込みたいとこあるんだけど、後回しにしておくよ」


 手短にと言うからできる限り余分な情報を省いて説明したのに、なぜかげんなりした目が返される。不本意だ。

 それでもひとまず理解はできたのだろう、頭痛をこらえる様子でこめかみの辺りを揉んでから、旅装のレオカディオは居並ぶ巨躯を振り返り胡乱な視線を向けた。

 自分を庇うように隣に立つ兄を見上げ、実際、庇われているのだと実感する。


「にしても、むさ苦しいね。何でこんなに衛兵がみっちりしているのさ。あんまり状況わかってなさそうな門外の奴らはともかく、そこにいるのはサルメンハーラご自慢の混成隊と、その隊長殿とお見受けするけど?」


「ああその通り、私はサルメンハーラ防衛隊を預かる金歌ってもんさ。ついさっき、飛竜ワイバーンが聖堂を襲ってると聞いて駆けつけた次第だよ。町の安全を守るのが私らの仕事だからね」


 その報せを聞いて駆けつけたのは、門の外で弓や槍を持つヒトの衛兵たちだ。

 二階に当たりかねない角度で矢を射ったことには物申したが、彼らが飛竜ワイバーンを何とかしようと攻撃をしかけたことは理解している。

 それに比べ、この混成隊とやらは飛竜ワイバーンに対して何も手出しせず、中でマグナレアが負傷していると声を上げたのにまるで反応はなかった。

 それでよく町の安全を守るのが仕事だなんて言えたものだ。連れ去る対象以外はどうでも良いということなのだろう。


「こやつらは、わたしを連行したいそうだ」


「へぇ? なんか悪いことでもしたの?」


 この町に来てから色々としでかしたのは事実だが、一言では説明しづらい。

 どう言ったものか逡巡すると、安心しろとばかりにレオカディオが軽く背中を叩いてくる。


「いきなりこんな連中を差し向けるくらいだ、どう考えたってまともな理由じゃない。それでも僕の大事な子を連れてこうってなら、それなりの正当性を示してもらおうか」


 その声に呼応するように、周囲を黒い制服の自警団員が取り囲んだ。いずれも見覚えのない顔ばかりだが、頭ふたつ分も大きな衛兵たちを前に寸分もひるむ様子はない。

 これで引き下がってくれれば良いのだが、まるで自警団員など目に入っていない素振りで金歌は「大人の事情さね」と口元を歪めてせせら笑う。


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