第346話 お兄ちゃんは苦労性①
少し皺の寄ってしまった服を整えたリリアーナは、アルトの入ったポシェットを肩にさげて部屋を出た。アダルベルトが使っている客室は物置のような小部屋を挟んだすぐ隣にある。
控えめなノックをしてからそっと扉を開くと、壁際のベッドに横たわる兄はまだ静かな寝息をたてていた。
洗って服を着替えさせたお陰でもう酒臭さはない。渡した石の効果で体内の酒精は分解されているはずだから、洗い流してしまえば血中にも残ってはいないだろう。
「兄上、少しやつれたな……」
近寄ってみた兄の顔は、自分がサーレンバー領へ向かう前よりも頬がこけているように見えた。かさついた肌と唇、目元の隈は一日や二日の睡眠不足によるものとは思えず、纏う疲労の色が濃い。
血色の悪い頬に指先を伸ばすも、寝ている相手にふれるのは躊躇われて手を引っ込める。
何かしてやれることがあれば良いのだが、疲労や精神的な不調に効果のある魔法なんて心当たりもなく、自身で食事や睡眠をしっかりとってもらうことしか解決法は浮かばなかった。
「アルト、兄上はあの酒場で意識を失ったのか?」
<はい。リリアーナ様が駆け出されてすぐに、テーブルへ伏せたまま力が抜けて椅子から転がりそうになったところを、カミロ殿が支えまして。負傷や体の異常などは特になく、疲労による昏倒である旨を私からお伝えすると、彼はそのまま背負って店を出たのです>
「お前、突然そんな診断結果を話しかけたのか? いくらカミロでも驚いたんじゃないか?」
あの酒場を出る時、道案内役としてアルトを渡した以上、カミロに念話で話しかけることは承知の上だった。それでも、前置きとか自己紹介とか、もうちょっと先に何かあっても良いのでは。
そんなことを思ってポシェットのふたを開き中をのぞくと、巾着に包まれた宝玉が小刻みに揺れる。
<それが、特に驚いた様子もなく……そのまますぐにリリアーナ様の向かった方向を案内したのですが、ずっと相槌のみでこちらへの問いかけや会話などもありませんでした。ええと、話しかけてよろしかったのでしょうか?>
「ああ、その点は構わない。それにしても、カミロはすごいな」
アルトが報告で嘘を言うはずもない。となるとカミロは突然ポシェットの中から声が聴こえても動じることなく、頭の中に響く道案内を信じてあの路地へと辿り着いたことになる。
追いついてきたカミロがいつもと少し違う様子だったのはアダルベルトのことを気に病んだせいだろうし、聖堂へ向かう間もポシェットの中身が喋ったことについて何も訊かれなかった。このまま、自分から話さなければカミロからは何も訊ねてこないつもりなのだろうか。
「……頃合いだろうとは思っていた。キンケードにも言われたからな、カミロには話しておいたほうが良いと。でも、あの様子では、わたしから打ち明けるのを待つつもりなのかもしれん」
できれば訊いてくれたほうが切っ掛けとして話しやすくはあるのだが、それこそ身勝手というものだろう。
次にカミロとふたりだけで話す機会があったら、可能な範囲で打ち明けてみよう。まだ全てを話す勇気は持てないけれど、キンケードにそうしたように手の内を晒すくらいは――
「ぅ……」
「兄上!」
小さな呻き声にはっとする。
苦しそうに眉が寄り、うっすらと目蓋が開かれる。朦朧と天井をさまよう視線がこちらを捉えた。
「……リ、ァ……?」
掠れた声は続かず、すぐに咳が出る。そばのチェストに用意されていた水差しをアダルベルトの口元に添え、少しずつ水を飲ませてやると「もう十分だ」と言うように手のひらを向けられた。
「兄上、体は大丈夫か? わたしが分かるか?」
「リリアーナ……、ええと、すまない、どうも前後の記憶が怪しい。おはようと言う時間でもなさそうだし、この部屋は、うちではないようだが?」
「ああ、ここはサルメンハーラの聖堂だ。伯母上のマグナレア様が駐在していて、昨晩からわたしとカミロが世話になっている」
「え、サルメンハーラって、あの? どうしてそんな場所に……一体何があった?」
目を見開いて驚きを見せる兄の顔には、純粋な驚愕だけがあった。領事館を抜け出してからしばらく時間はあったはずだが、この町がサルメンハーラだとは気づいていなかったようだ。
ベッドの上に体を起こそうとする兄を手伝い、ついでに体温と心拍数に異常がないことを確かめる。まだ顔色は悪いけれど、ひとまずは大丈夫なようで安心した。
「カミロと一緒に兄上を追いかけてきたんだ。屋敷から誘拐されたのは覚えているか?」
「は? 誘拐? ん……いや、気づいたらいきなり空だった。眼下に屋敷の屋根が見えて、それで、ええと……」
あやふやな記憶を引っ張り出そうとするように、アダルベルトは瞑目して自身の眉間を指で揉む。
「あぁそうだ、目を覚ましたらどこかの邸宅のベッドに寝かされていて。扉を開けて人を呼ぼうとしたら、廊下から声が……身元がどうとか、身なりが良いからどこかの商家の、とか聴こえて。とっさに窓から逃げ出してしまったんだ。悪いことをした、せっかく介抱してくれたのに礼も言わずに」
「それから、あの酒場に?」
「酒場? ああ、酒の匂いもしたが、とにかく腹が空いていて。身に着けていたタイやベルトを道端の露店で換金したあと、どこか落ち着いて食事のできるところで食べたいと……入った店で客に絡まれて、ええと、なぜか飲み物をおごってもらったような?」
あの酒場の店主は飲み比べがどうとか言っていた気がする。だが兄の方はそれに応じたつもりも、絡んできた酔客を全員のした自覚もないようだ。
まぁ、アダルベルトに怪我もなかったし、その辺のことはどうでも良いだろう。
着衣が汚れたシャツだけになっていたのは売り払ったのと乱闘のせいで、朦朧としていたのは酒の過度な摂取と疲労によるもの。
こうして落ち着いて話す姿は自分の知る普段通りのアダルベルトそのままで、やっと兄を取り戻せたのだという実感に胸のつかえが取れたような思いがした。
毛布の上に置かれた手には、以前渡したタイリングが指輪のように嵌められている。寒い中に服やタイを売ってしまっても、これだけは手元に残してくれた。
結果的にそれが酒精や風邪からアダルベルト自身を守ったにせよ、なくさないよう指に嵌めてまで持っていてくれることが素直に嬉しい。
親指に嵌った銀の環へ自身の手を重ねると、アダルベルトは体温の低い手で握り返してくれた。
「攫われた兄上を、ここの領事館が保護していたんだ。逃げ出したと聞いた時は驚いたけれど、身元が知られると厄介な場所ではあるし、留まるのはまずいと判断した兄上は正解だったな。それからカミロと一緒に町を探して、あの酒場で兄上を見つけたんだ」
「あぁ……ああ、そうか、思い出した。あの食事処、いや酒場か。あそこで会ったリリアーナも幻覚じゃなかったんだな。心配して探しに来てくれたのに、妙なことを言った気がする、すまない」
「いいんだ。兄上にかかる重責については、頭では理解しているつもりだ。わたしの力では兄上を手伝ったり支えたりすることができないから、せめて愚痴くらい、いくらでも零してくれ」
励ましや心配の言葉は不要だ。ならばせめてと伝えたのは、嘘偽りのない本心だった。
もし今の自分が大人だったとしても、カミロにできなかったことをできるとはとても思えない。だからきっと気質の似ている自分では、兄の支えにはなれないのだ。
握られた手にわずかばかり力が込められる。苦渋を現すように、ファラムンド譲りの意志の強そうな眉がきつく寄せられた。
「妹に心配ばかりかけて、だめな兄だな、俺は」
「そんなことは、」
「リリアーナには、情けないところを見せたくなかったんだ。しょうもない意地と見得を張って、立派なお兄ちゃんであろうとしたんだけど。やっぱり、俺では……」
「わたしは、兄上が立派なことを知っている、レオ兄だってそうだ。アダルベルト兄上は勤勉で気配りができて優しくて、敬意に値する人物だといつも思っている、今さらどんな姿を見たって失望したりはしない!」
自虐を重ねる兄を見ていられず、腕を捕まえながら言い募る。
つい熱が入ってしまい寝起きの兄に掴みかかるような勢いになってしまったけれど、アダルベルトは圧されるまま倒れ込むようなこともなく、腹筋の力だけでこちらの体重を支えている。
掴んだ腕も年齢のわりにしっかりと筋肉がついているし、常から鍛えていると聞く体は自分が思っているよりも頑強なようだ。何となくその胸や腹のあたりを押してみると、成長途上ながらも立派に筋肉が張っている。
「な、何だ?」
「兄上は鍛えているんだな……」
「まぁ、そうだな、鍛錬は日課だから」
混じりけない羨望と、どうせ自分は同じ鍛錬をしたところでこんな筋肉はつかないのだろうなという諦めと。それとレオカディオは自分寄りで薄い体躯をしているからまぁいいか~という微妙な折衷がない交ぜになりながら、リリアーナは圧しかかっていた兄の体から手を放した。
過労と悩みに苛まれ、何もかも放り出してしまいたいと心の内で思いながらも、『日課』は欠かさず続けている。兄のそういう根の真面目なところが好ましいと思うのだ。
「兄上。いまだ幼く頼りないわたしでは仕事の助けになれないが、レオ兄ならきっと役に立てるだろう。得意分野も着眼点も違うから、思いもしない案が飛び出てくるのではないかと思うんだ。それにレオ兄はアダルベルト兄上のことが好きだから、頼ればきっと喜ぶ」
少しだけ悔しいけれど、レオカディオの持つ力だって自分は認めている。彼ならば悩み多き長兄の力にもなれるはず。
そう考えて精一杯言葉を選びながら伝えてみたのだが、アダルベルトはどう思うだろう。年下の弟の力を借りるのも、やはり心労の嵩を増すことになってしまうだろうか。
不安は表に出さないよう兄の言葉を待っていると、幾度か瞬きをしたアダルベルトははにかむような表情でリリアーナの髪を撫でた。
「俺は、これまで一度たりとも、リリアーナを頼りないなんて思ったことはないよ」
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