第336話 稲穂の髪
何だって、と反射的に訊き直しそうになったけれど確かに念話の声は届いた。ポシェットを掴んだまま、リリアーナの動きが停止する。
領民や身内ではないからという理由で放置しようとしたのに、種族名を聞いただけで態度を変えるような偏りは持ち合わせていない。……そう、自身では思うのに。胸の鼓動が激しくなり、どうするべきかと逡巡してしまう。
「どうして小鬼族の子がこんな所に……いや、
<今は路地の陰で体を休めているようです。この町の事情はいまだ不明点も多いですから、カミロ殿が戻られるまでしばしお待ちになってみては?>
「そうだな、伯母上にも良い子で待っているようにと言われたばかりだし。だが、怪我をした子どもを見て見ぬ振りなんてしたら、それは良い子とは言えないのでは?」
<そ、それもそうですが……。何というか、あれです、厄介事の匂いがプンプンしますぞ?>
確かに、治安が良いと言われる町でありながら、こんな昼日中に怪我を負った子どもが身を潜めているなんて、厄介事以外の何物でもないだろう。
今は身分を隠して聖堂に匿われている状況だ、留守番中に勝手なことをすれば、カミロにもマグナレアにもどんな迷惑が及ぶかわからない。
とはいえ、聖堂は元々、安寧を求める者たちへ平等に門戸を開く場所。休息のために礼拝堂へ招き入れるくらい問題ないのでは?
たまたま居合わせた者として治療をするくらい普通なのでは?
そう、誰にも見られないうちにササッと治して、そのままお帰り願えば良いのでは?
そんな都合の良い思考に傾きつつ、リリアーナはポシェットを抱えたままソファの周りをうろうろと歩き回る。
「アルト、少年の怪我の具合をもう少し詳しく教えてくれ」
<はい。外傷で一番目立つのは額から腹にかけての大きな裂傷ですが、こちらはすでに塞がりかけています。その傷により右目が潰れておりますが、頭蓋に細かなひびが残るのみで骨折等はありません。その他、全身に軽度の打撲と擦り傷、あ、それと左肩が脱臼しているようですね>
「お、大怪我ではないかっ?」
全然、まったく、放置しても大丈夫どころではない。
これが頑丈な鉄鬼族ならまだしも、相手は小柄でか細い小鬼族の少年だ、些細な傷が元で命を落とす可能性だって十分に有り得る。
悩む余地が一気に消えた。常に優先順位を考えて行動する自分だが、これは最優先に持ってきても問題はないはず。むしろ、ここで手を差し伸べなければきっと後悔することになる。
アルトに念話での誘導を命じ、辺りを探って水差しやタオルを用意したリリアーナは掛けてあった外套を着込むと、急いで階段を駆け下りた。
開け放たれている扉から外をのぞくと、低い外門に寄り掛かるようにしてみすぼらしい身なりの人物が立っていた。頭から布を被っているため、アルトの報告を先に聞いていなければそれが小鬼族の少年だということすらわからない。
右足を引きずっているのは怪我のためだろうか。カミロたちとの約束があるため建物から外に出るわけにもいかず、手を貸せないことをもどかしく思いながら声をかけて来訪を促す。
「こっちだ、薬や水を用意してある」
「……」
「お前を招いていることが人目にふれると、こちらとしても都合が悪い。怪我で辛いかもしれんが、早く入ってくれ」
急かすようにそう言うと、ボロ布をまとった少年は躊躇を見せながらも大人しくついてきた。
礼拝堂の中程まで進み、適当な長椅子に座らせる。
「わたしは聖堂とは無関係なのだが、ここの官吏たちはしばし出払っていてな、その間の留守を預かっている。施設をどこまで解放して良いものか判断がつかぬから、ひとまず傷の治療だけさせてくれ」
「てめぇが、治療? 子ども、じゃないのか?」
口を開いた少年は皺枯れたような声音をしていた。布の奥から訝し気にこちらへ目を向ける。
猜疑心と警戒が光る右目には未だ活力があり、こちらが少しでもおかしなことをすれば掴みかかって来かねない気迫が滲む。
怪我の具合を聞いて衰弱ぶりを心配していたが、こうして見る限りまだまだ余力はありそうで安心した。
「わたしの見目は気にするな、魔法で治すからそう時間はかからん。出かけている者が帰ってきたら、風呂を使わせてもらえるか聞いてやろう、全身が乾いた血と泥だらけではないか」
用意したタオルで顔を拭うとすぐに赤黒く汚れてしまう。抵抗がないのを見て被っているボロ布を引き剥がせば、傷に障ったのか少年が小さく呻く。
アルトから聞いていた大きな裂傷には包帯らしき布が乱雑に巻かれ、治療の痕跡があった。頭部から顎、そして胴までを覆っているため他の傷も見えないが、包帯の隙間に細かな裂傷が見て取れる。
肌が浅黒く、打撲痕はよく目をこらさないと判別が難しい。
これだけの大怪我が治りかけということは、傷を負ってからすでに数十日は経過している。潰れているという右の眼球は、たとえ修復の魔法を用いても元に戻すことはできないだろう。
被っている布を剥がしつつ、構成を回して体表にある擦り傷をあらかた治していく。
「まずは汚れを洗い流してから全身の精査をしたいところだが、順番が逆だからな。……よし、細かい傷は癒えたか。次は脱臼を嵌めておこう、少し痛むが我慢してくれ」
「え、」
ぽかんとする相手の肩を押さえながら掌底の要領で打ち込み、外れている関節を一撃で押し込んだ。
少年は短い悲鳴を上げたものの、文句ひとつこぼさず耐えている。この分なら痛み止めの措置も必要ないだろう。筋肉周りの炎症だけ治療を施しておく。
「うむ、肩はこれで良いか。打撲痕は治すのに少しコツが必要でな、洗わないと見えにくいから後回しにするぞ。先に顔を見せてみろ」
一言断ってから頭に巻いている布へ手をかけると、少年はそこで初めて抵抗を見せた。しどろもどろに何か言いながら邪魔をしようとする両手をやんわり掴み、膝の上に下ろさせる。
「お前の事情は知らんが、小鬼族だということは初めからわかっている。心配するな、治療をするだけで他は何もしない。常であればなぜこんな怪我をしたのか問うている所だがな、この町ではわたしは部外者だ。ヒトに見られるとまずいのなら、官吏たちが戻る前にここを去っても一向に構わん」
「やっぱてめぇもヒトじゃないのか、何なんだ、その耳と尻尾は
「……まぁ、うん」
同郷の相手だと誤解したのだろうか、ずっと強張っていた少年の肩から力が抜ける。
異種族の警戒心を薄れさせるのに一役買ってくれたのは助かるけれど、まさか父の作ってくれたこの外套が防寒以外で度々役に立つとは思いもしなかった。
実際はヒトの娘だということは濁しながら、ひどく汚れた布を頭から剥がしていく。長い間巻いたままだったのか、乾いた音とともに泥や血や枯れ葉がばらばらと下に落ちた。
水で濡らしたタオルを使って髪と顔についた汚れを拭うと、土色かと思っていた髪がもっと明るく鮮やかな色彩を持っていることに気づく。
黄色みの濃い金髪。毛質が荒れてぼさぼさとしているが、よく洗って乾かせばきっと乾季の夕日に照らされた稲穂のような輝きを放つことだろう。金色の髪をした小鬼族は珍しい。
自分の目線より少し下、まばらな前髪の隙間からは、見覚えのある短い角が二本生えていた。
芝生じみた手触りの髪を撫でながら、何だか胸の内に妙な懐かしさが去来する。
「……何だよ?」
「ん? あぁ、すまない。昔、よく似た髪の子どもがいてな、少し懐かしくなった。お前も小鬼族なら、もしかして稲穂という名の同胞を知っているだろうか?」
「ハ?」
左目を丸くしてこちらの顔を見返す少年。そういう表情をしていると、目つきの悪さが緩和されてずっと幼く見える。
「なんで知ってんだよ……、稲穂は、俺の母親だ」
「え?」
今度はリリアーナが口を丸く開けて唖然とする番だった。
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