第210話 静謐が積もる


 まず始めに向かったのは二番目の書斎、扉に鍵はかかっていなかった。

 アントニオが押し開けて入室するのに続くと、中は思っていたより広々としている。手前側には木製のテーブルと椅子が並んでいる他、窓際には悠々くつろいで読書を楽しめるようなカウチソファも置いてあった。

 イバニェスの書斎は書架がいっぱいに並んだ『本を収蔵する部屋』という趣きだったが、こちらの書斎はそれとは異なり、『本を読むための部屋』として誂えられている印象だ。

 広さに対して本棚の置かれたスペースが狭い分、五部屋あっても全体の蔵書量はイバニェスの屋敷の二、三倍程度かもしれない。……いや、それでも十分に膨大な量と言える。今回の滞在期間では到底読みきれない。


 護衛のふたりは廊下に残り、カステルヘルミとエーヴィが一緒に中へ入ってきた。自分などはすっかり小心者の少年という認識で気を緩めきっているのに、気配の薄い侍女だけが、未だ警戒の目を丸い後頭部へと向けている。


「アントニオ、お前も普段はここで本を読んでいるのか?」


「ううん、僕は借りるほうが多いかな、読んでいると時間を忘れちゃうし。十歳記のお祝いに、お父様がブエナおじい様へお願いして、ここの利用と借り出しの許可を貰ってくれたんだ」


「ああ、それならわたしと同じだな。わたしも五歳記の祝いに書斎の鍵を貰った」


 書斎の解禁が誕生日の贈り物となるような、熱心な読書家がサーレンバー領にもいたことは喜ばしい。蔵書の中に何かお勧めの本があれば後で聞いておこう。


「イバニェス家の書斎は、鍵がかかっているんだ……?」


「うむ。本は高価なものだと聞くし、知識は宝だ。保管を厳重にするに越したことはない」


  携えている本を戻しに向かうアントニオから離れ、別の棚を眺めてみる。

 シリーズ物や大判本など様々な本が並んでいるが、あまり手入れはされていないのか、どの本にも薄く埃が積もっていた。床や机、本棚自体は清掃が行き届いているように見えるから、おそらく掃除を担当している者が本に全く興味を持っていないのだろう。

 そして、それを指摘する立場の人間がここをあまり利用していないということが察せられる。


「何だかこう、変わった匂いがいたしますわね。わたくしイバニェスの書斎にもお邪魔したことはございませんけれど、古いご本はこういうものなのかしら?」


「ん、これは古くなった紙の匂いと……あとは何だろうな?」


 カステルヘルミの言う通り、部屋に入ってから妙な臭気が漂っている。古書の匂いは慣れ親しんだものだが、そこに何か違う匂い……木の葉か何かの匂いも混ざっているようだ。


<香草などを練った物が書棚の上に置かれております。おそらく防虫剤ですな、古書の虫食いはいたしかたないでしょう。奥の方にある本は特に劣化が激しいので、お手にされる際はお気をつけ下さい>


 アルトの声に書架を見上げてみても、自分の位置からは何も見えなかった。

 本の壁を眺めながら居並ぶ棚の奥へ向かうにつれ、背表紙の金箔が剥がれていたり、表装が煤けていたりと目に見えて痛んでいるのが分かる。このあたりに収められているのは相当、年代の古い本なのだろう。


「まぁ、こちらの棚はずいぶん古そうな本ばかりですのね。さわるだけで崩れてしまいそうですわ」


「あ、そっちにあるのは本当に昔の本だから、気をつけたほうがいいよ。うっかり開くと、中身の紙が抜け落ちてバラバラになるんだ。頁番号の振られてない本は、元に戻せなくなくなっちゃうし」


「それは恐ろしいな……。こんなに古ぼけて痛んだ本は見たことがない、蔵書量が多すぎるせいで手入れが行き届いていないのか?」


「うん……そうなのかもしれない」


 もうクストディアから投げつけられた本は元に戻したのだろう、近づく声に振り返ると、アントニオはカステルヘルミのすぐ後ろまで来ていた。細身の左右から向こう側の体が見えている。本棚の間も余裕を持った並びのため狭苦しさは感じないが、うちの書斎だったらすれ違うことはできないなと思う。


「クラウデオ様がいた頃は、直しの職人に任せたり買い換えたりしてたって、聞いたけど。最近はここの本を読む人も、あんまりいないみたいだし」


「クストディアとお前の他には?」


「シャムさんがたまに本を取りに来るくらいで、他の人はあんまり」


 クストディアの読む本は、あの黒鎧が借りに来ているようだ。これだけの蔵書を持ちながらこのふたり以外にほとんど利用者がいないだなんて、何ともったいない。もっと頻繁に使われていれば本の手入れだってもう少しマシだろうに。


 背表紙がまだしっかりしている本を一冊引き抜き、手に取ってみる。慎重に裏表紙から開いて奥付を確認すると、百二十年も前の日付が書かれていた。それだけ古ければ劣化するのは当然だ。表紙の皮も本文の紙も、乾ききって端からぱらぱらと粉が落ちる。

 イバニェスの書斎の本は、古いものでもせいぜい八十年かそこら。それよりも古い内容が書かれた本は、後年になって刷り直されたものが置いてある。

 紙が経年劣化するのはどうしようもないため、書斎の本は定期的に買い直したり入れ替えをしているのだと、以前アダルベルトが教えてくれた。つまり、あの書斎には『読まれる本』しか置かれていないのだ。


「今は利用者があまりいないから、貸してくれた本を持ち帰って良いなんて言ったのか……。クラウデオ氏も読書家だったと聞いている、ここへ来ると亡き子息のことを思い出してしまうのかもしれんな」


「それでもご領主様はきっと嬉しかったのだと思いますわ、息子さんが大事にしていらした書斎のご本を、お嬢様があんなに喜んでくれたんですもの」


「そうだと良いのだが」


 古びた本を静かに閉じる。ひっくり返して表紙を見ると、タイトルと装画の銀箔がほとんど剥がれ落ちてしまっている。押された痕が残っているため書かれている内容は判読できるが、何とも残念な風合いだ。


「これは、……翼竜の絵か」


「それって、飛竜ワイバーンじゃないの?」


 カステルヘルミの横からのぞき込んでいるアントニオが不思議そうな顔をする。少しだけ角度がついているから、首をかしげるつもりで体ごと傾いているのかもしれない。手にした本を平らに持ち、ふたりにも見えるようにして翼のあたりを指でさし示す。


「簡略化された絵柄だが、首から翼にかけて羽毛に包まれているのがわかるだろう? それと、胴体に腕がある。飛竜ワイバーンの方は翼と腕が一体化しているんだ。そのあたりで容易に見分けがつく」


「へぇ、そんな違いがあったんだ、知らなかった」


飛竜ワイバーンは体の構造も基本的には爬虫類と同じだから、翼のついた蜥蜴トカゲのようなものだな。変温動物で、体表は鱗だけ。対する翼竜は、そもそも生物としての造りが根本から異なる。似た形状をしているものの、あれはれっきとした精霊種だ」


「精霊種?」


 今度はカステルヘルミも揃って首をかしげた。野生の魔物すらほとんど見られなくなって久しいこちら側では、もうあまり馴染みがないものなのだろう。

 魔王領のキヴィランタですら、当の翼竜以外は滅多に姿を目にすることもなかった。彼らの主な生息地は、絶界のテルバハルム。その存在自体が生きる伝説にも等しい。


「古代竜や極楽鳥などといったものに代表される、特別な魔物のことだ。元々の形も持っているのだが、自分の意思で体の組成を変えることができるため、大きく見えても異様に軽かったり、別の種族に変化したりする。物理法則を丸っきり無視してしまえるというか……人知の及ばぬ魔法を自在に扱える魔物、という感じだな」


「へぇぇ~、君は物知りだねぇ。イバニェス家の蔵書にはそんなことが書かれた本もあるんだ、すごいなぁ」


「そ、……そう。そうだとも! わたしはイバニェス家の娘だからな!」


 胸を張ってそう答え、もうこの話はおしまいとばかりに引き出していた本を棚へ戻す。

 よく背に乗せてもらった翼竜のことが懐かしかったこともあり、つい調子に乗って語りすぎた。相手がカミロやアダルベルトだったら、なぜそんなことを知っているのかと追及された場合に言い逃れが難しかっただろう。あのふたりと会話をする時はもう少し気をつけているから、さすがにこんなうっかり発言はないと思うのだが。

 幸い、単純なカステルヘルミと素直に感心している様子のアントニオは、精霊種についてそれ以上突っ込んでくることはなかった。


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