第209話 まるまるとした②
少年の名乗ったアントニオという名には聞き覚えがない。キンケードへ視線を向けてみても、やはり覚えがないとばかりに肩をすくめて見せる。
無関係の相手だから捨て置いても良いのだが、座り込んで泣いているのを放置したまま書斎へ向かっても何となく後味が悪い。クストディアの名が出たのも気になるし、もう少し事情を聞いてみることにする。
「知っての通り、わたしはイバニェス家のリリアーナだが。わたしのことがわかるということは、ブエナペントゥラ氏の身内の者か?」
「ぼ、ぼ、僕のおじいさんが、ブエナおじい様の弟なんです……」
「あ? だがこないだ客間へ押しかけてきた中にお前さんいなかったろ? 子どもは同じ髪型した双子と、もうひとり十三歳かそこらの小僧がいたと思うが」
「ヒィ!」
突然キンケードに話しかけられた少年は、短い悲鳴を上げて尻もちをついたまま後ずさる。やはりお前に怯えているのではないかと半眼で見上げれば、男は気まずそうなしかめっ面のまま頭を掻いた。
「あの、あの……僕は、こんなだし、イバニェス領主様の心証も良くないだろうからって、同席は……。両親と一緒にご挨拶に行ったのは、僕の弟です……あの、似てなくて、ごめんなさい……」
小声でぼそぼそ説明をすると、アントニオと名乗る少年はまた玉の涙を流して泣き始める。艶のある金髪はこの屋敷であまり見かけない色だが、潤んだその目をよく観察すればブエナペントゥラと同じ、淡い碧眼だった。
そうして同じ高さにある顔を眺めて、眉上で揃えた前髪の奥が赤く腫れていることに気づく。
「何だお前、額を怪我しているのか? ちょっと見せてみろ」
首をすくめて縮こまる少年に構わず、指先で前髪を掬う。赤く腫れるどころか、皮がむけて血も滲んでいる。まだ乾いていない、新しい傷だ。
「これは相当痛いだろうに、なぜ放置しているんだ」
「ひぃぃ、ごめんなさいごめんなさい!」
「わたしに謝らなくても……。いや、いい。そのまま目を閉じて十数えろ」
「いっ、いち、に、さん、よん、ご……」
言われたことに即応じるのは素直でよろしい。
前髪を持ち上げたまま、怪我の具合をみて治癒の魔法をかけてやる。破れた箇所が癒え、皮が張っても浮かんだ血はそのままなので、ポケットのハンカチを取り出して軽く拭う。まだうっすらと残った腫れも明日には落ち着くだろう。
治療の実地練習をしたいと思っていたところだから、ちょうどよかった。
<頭蓋骨に異常はみられません。あとは軽いこぶだけですね、何か硬いものをぶつけたようですが>
「……? あれ?」
「もう痛くはあるまい。そのハンカチは貸してやる」
まだ何が起きたのかわかっていないのだろう、不思議そうに丸い目を瞬かせる少年に、後ろに立つカステルヘルミを手で示す。
「うちには凄腕の魔法師の先生がいるからな。それくらいの怪我の治療ならあっという間だ」
「えっ? あ、そうなのですわ、わたくし凄腕魔法師でございますからー!」
胸を張るカステルヘルミの横で護衛のふたりが何か物言いたげな顔をしているけれど、気にしない。
ようやく涙の止まった少年、アントニオは顔を輝かせて渡したハンカチを握りしめた。念のため額以外に怪我はないかと確認をすると、他は大丈夫だと言う。
「どうしてそんな怪我を。転んでどこかにぶつけたのか?」
「いえ、あの、その……」
口籠り、周囲を見回して身のつまった肩を縮こまらせる。どうやら他者の耳目を気にしているようだ。
クストディアと双子の傍若無人な振る舞いを目にしたばかりだから、同じ血統でもこんなに違うものかと妙な感心を抱いてしまう。ひとまず話を続けさせるために、この周辺には他に誰もいないから安心しろと言い聞かせた。
落ちていた本を拾い上げると、角の部分がへこんで皺が寄ってしまっている。落としたときについた傷だろうか。それを手渡すと、気の落ち着いたらしいアントニオはようやく重い口を開く。
「さっき、クストディアに……このお屋敷の令嬢に、頼まれてたチラシを持って行って。それで、ついでに読み終わった本を書斎へ返してこいって、投げられたのを上手に受け取れなくて……」
「本を、投げ、」
「どうどう、お嬢様、落ち着いて……」
背後からカステルヘルミが背中を撫でてくる。意図はわからないものの、なんとなく気持ちは落ち着いた。
この廊下は絨毯敷きだ。傍らに落ちていた本は、アントニオに投げつけられた時に床へ落ちて傷ついたのかもしれない。
こんな厚みと重量のある物が当たれば怪我をするのはわかりそうなものなのに。しかも、本を。他者に向かって本を投げつけるとは、全く信じがたい。
「侍女だけでなく親族にまで乱暴をするのか、あのご令嬢は……」
「でも、僕は、いつもこうだから。男なのに気が弱くて、いるだけでイライラするって、お母様にも言われるし。双子にも会うたびにいじめられるから、だから、慣れてるから大丈夫」
「……」
本人がその境遇を受け入れ、納得しているのなら自分から言うことは何もない。もやもやしたものを胸に抱きながら腕を組むと、それを見たアントニオはまたびくりと震えて体を小さくした。
……自分も、怯えられることには慣れている。
居丈高に見える態度が良くないのかもと考えたところで、視界の端に揺れる髪に気がついた。もしかしたら、クストディアと同じ髪型をしているせいで怖がられているのだろうか?
「で、でも、双子の弟のほうが怪我をしたって、聞いたから。しばらくは顔を合わせなくて済むかも……」
「あの双子が怪我? どうしたんだ?」
「えっと、何か、両腕を骨折したとか何とか……僕もよくは知らないんだけど、一昨日、廊下を歩いていたら急に痛いって泣き出したらしくて」
「一昨日……」
ふと思い当たるものがあり、高い天井を仰いでみても金色の影はどこにもなかった。細かな光の粒子がちらちらと、キンケードの周囲を舞っているだけだ。
あの双子はどちらも肩のあたりまで髪を伸ばし、服装を見なければ男女の区別もつかなかったから、腕を掴まれても異性にふれられているという意識がなかった。だが、悪意を持って直にふれたのは確か。あの契約が続いているなら、おそらくパストディーアーが何かしたのだろう。
かつての官吏のように、腕を破砕するにはあの場では目撃者が多すぎた。だから立ち去った後、そうとはわからないように骨だけを折ったのかもしれない。
「ど、どうかした?」
「いや、うん。世の中にはそういう不思議なことも、あるかもしれないな」
「「あー……」」
背後でキンケードとカステルヘルミが、何かを察したような微妙な声を漏らす。
――違う。自分ではないと今すぐに弁明したいが、アントニオの不思議そうな顔を前に踏みとどまる。何でもかんでも周囲で妙なことが起きれば全部自分のせいだという、そういう偏った認識はやめてほしい。せいぜい七割くらいだ。
「……まぁいい。それで、さっき言っていたチラシというのは何だ? クストディアがまた何か欲しがったのか」
「あ、チラシは、街に来ているモンタネール歌劇団の、公演のおしらせを刷ったやつ、です。チケットはもう完売したんだけど、チラシは頼めばくれたから。僕の家が印刷業にも関わっていて、その伝手で」
「ああ、近々街で上演される歌劇か」
「き、君も欲しい? えっと、演目についての説明と、演者の紹介なんかが載ったパンフレットが明日売り出されるんだけど。もし要るならそれも持ってくるよ、……クストディアにも頼まれてるし。あの、怪我を治してくれた、お礼に」
もう数日後に迫る公演だが、そういえば演目についてはまだ何も聞かされていなかった。
初めて鑑賞する歌劇というものにはそれなりに興味があるので、予習しておくのも良いかもしれない。持ち帰ればアダルベルトやトマサへの良い土産話にもなりそうだ。
「ではわたしにも一冊、そのパンフレットというのを頼もうか。もし別棟まで来るのが難しいようなら、使用人に言づけて渡しておいてくれ。というかそもそも、なぜわたしと話してはいけないんだ?」
「あの……、ブエナおじい様とお父様に、お屋敷へ滞在しているイバニェス家の方々、特にリリアーナお嬢様には絶対に近づいちゃいけないし、声もかけるなって。一昨日ここに来た時、すごく怖い顔で言われて……」
「あぁ、なるほど」
クストディアと双子の件があったばかりで、親族の態度に過敏になっていたのだろう。放っておいても危害など加えようもないだろうに、この気の小さい少年にとってはとんだとばっちりだ。
「ブエナペントゥラ氏には、後でわたしの方からお前に声をかけて知り合ったことと、パンフレットの約束を伝えておこう。それで大丈夫なはずだ」
「う、うん、……ありがとう」
ようやく立ち上がった少年は返却を頼まれているという本を抱え、すぐそこだと言う書斎まで同行することになった。
立ったところを間近で見上げると、本当に大きい。手先の器用な
丸々とした体躯に対し小さく見える手足。一見すると動きにくそうなのに、立ち上がり方も歩行も機敏なもの。表情だけは未だ怯えを滲ませたまま、自分たちの前を先導して歩く。
進む廊下の先には同じような木製の扉がいくつも並んでいる。掲げられたプレートはまだよく見えないが、あの中のいずれかが書斎に充てられているのだろうか。
歩きながらそう呟くと、アントニオは境界のわからない首を左右に振った。
「あの部屋、全部が書斎だよ」
「扉の中が繋がっていると?」
「ううん、本の分類とか年代とかで、部屋が分かれてるんだ。ええと、一番手前のが、新しめの資料とか辞典をまとめた書斎で、その向こうは物語の本がいっぱいあって、僕はこの本をそこに返すんだけど……」
目視できる扉は五つ。この長い廊下のずっと先まで、全部が、書斎。
全部。
中身が全部、本。
歩きながら体がぐらりと後ろに傾いで、慌てたカステルヘルミとキンケードが手を伸ばして背中を支えてくれた。
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