第194話 悪の花蕾①
朝食後、一度部屋に戻ってフェリバに髪を結い直してもらい、起毛のボレロに袖を通して姿見の前に立つ。未だに身なりの良し悪しはわからないが、鏡に映り込む背後の三人……無表情のエーヴィ以外のふたりがとても満足気だから、これで良いのだろう。
訪問先のクストディアには朝食を終えた際に先触れを出してあり、十分時間に余裕を持たせたからあちらの準備も整っている頃だ。
所蔵している脚本を貸し出してもらえるのか、それともその場で目を通すのみかで滞在時間も変わる。部屋に籠りがちとはいえ先方にも予定というものがあるだろうから、どんなに本が気になってもあまり長居するべきではないと自分に言い聞かせる。
「大丈夫ですか、お嬢様。やっぱりわたくしもご一緒しましょうか?」
「二度目なのだからひとりでも平気だ、そう心配するな。昨日よりも時間がかかるかもしれないが、もしついて来たいのなら、またあの長椅子がある場所で待っていてくれればいい」
昨日から妙に心配してくるカステルヘルミが同行を申し出るが、屋外へ出るならともかく、そう歳の変わらない令嬢の部屋を訪ねるだけだ。身の危険なんてあるはずもないし、あの黒鎧とてクストディアの護衛か何かなのだろう。一見して造りの見事な甲冑でも、その中身からは害意のようなものを一切感じなかった。
「私とエーヴィさんは、どっちかがこのお部屋に残らないとですね。どうしましょうか?」
「こちらには私が残りましょう。お嬢様が退室されるまでの間、先生のお話し相手を務めてください。フェリバさんにしかできないお役目ですから」
「え? えへへ、そうですか? それじゃあ行ってきますね!」
侍女たちの間でも話が決まったようで、クストディアの部屋がある本邸の西側二階まではカステルヘルミとフェリバが同行することになった。
ますます長居するわけにはいかなくなったけれど、このふたりが揃っていれば無限におしゃべりで時間を費やすことは可能だろう。場所がこの部屋か、廊下の長椅子かの違いでしかない。
三人で別棟を出て、渡り廊下を通ってまた本邸へ。
吹き抜けの通路でも風がなく、この時期にしては比較的暖かいが、今日も空は薄曇りだ。鼻腔を通る冷たい空気はとても乾いている。
廊下で迎えた侍女にクストディアの部屋へ向かう旨を伝え、了承を得た時、カステルヘルミの「あら?」という何かに気づいたような声に振り返る。
背後へ向けられているその視線を追うと、別棟側からレオカディオとそのお付きの侍女や従者たちが歩いてくるところだった。
「やあ、リリアーナ、鉢合わせたね。これからご令嬢のご機嫌伺いかい?」
「はい。兄上は、どこかへお出かけですか?」
「ちょっとこっちの商工会にも用があるんだ。部屋を借りて呼びつけてもいいんだけど、ここの使用人の手を煩わせるのも何だしね。昼も向こうでご馳走になるつもり。夕食までにはちゃんと戻るよ」
「外で、お食事を……?」
こちらの懸念を悟ったらしい次兄は、皮肉げに口の端を引き上げる。
「心配いらないよ。僕はそこそこ外出が多いから、侍女たちも慣れてるし」
慣れと飲食物の危険性にどんな関係が、とも思うのだが、自分だって領内とはいえ街でブニェロスや果実水を口にしている。度々危機意識の薄さを指摘される自分などよりは、レオカディオの方がよほど注意深いはずだ。
八年前の事故についてキンケードから話を聞いたばかりで、少々神経質になっているのかもしれない。
「兄上なら心配いらないかとは思いますが、どうぞお気をつけて」
「うん。リリアーナこそ気をつけるんだよ。物に釣られてほいほい近づくと、噛みつかれるかも」
「……誰に、とは訊きませんけれど。こちらもご心配なく。物に釣られたりはしません」
「どうかなぁ」
昨日の脚本のことを言っているであろうレオカディオだが、入室するなりあんな刺々しい応酬をしなければ、クストディアだってもっと常識的な対応をしたのではないだろうか。
いくら旧知の仲とはいえ、互いの立場を考えればもう少し違う挨拶のしようもあったのでは……
「そういえば、兄上は昨日、クストディア様にはあの挨拶をなさいませんでしたね?」
「あの挨拶って?」
「こう、手を取って……」
先日、サンルームで自分が受けた手の甲への口づけを指して言えば、作った笑顔の眉間へ不自然に力が籠もる。
「するわけないだろ。あれは基本的に親愛と敬愛を示すものなんだから。いくら僕でも、社交辞令の必要がない相手にまで贈ったりしない。そこまで僕の唇は安くはないよ」
そういうものかと曖昧にうなずくと、レオカディオは伸ばした手でこちらの肩にふれて、さするように軽く撫でた。
「こんなに風の入るとこで長話をするもんじゃないね、肩が冷えてる。風邪をひくといけないから、早くお目当ての部屋に行くといい」
「はい、それでは」
軽く礼をすると、再び外向きの顔を作り直したレオカディオは、侍女たちを引き連れ廊下を歩いて行った。
その背は細く、体格も未だ長兄のアダルベルトに及ばないが、背筋を伸ばした堂々とした佇まいはヒトを率いる者の風格のようなものを感じさせた。
さすがはファラムンドの子息、ああして自然に纏う統率者の雰囲気や如才のなさは、父譲りのものだろう。……なんて、つい他人事のような感心を抱いてしまう。
勤勉で優秀なアダルベルトと、人心掌握に優れるレオカディオ。得手とする分野や才能の方向性が正反対を向いているような兄たちだが、こと領主という役職への適性で言えば、どちらも等しく相応しい力を持っているように見受けられる。
選定の権利を持たないリリアーナだが、長兄と次兄のどちらがイバニェス家を継いだとしても、きっと良い領主になるだろうなと思える。ファラムンドは一体どちらを後継に選ぶつもりなのだろう。
昨日一度訪れたから、クストディアの部屋の場所は覚えている。そう言って案内に立とうとするサーレンバー邸の侍女を遠慮して、三人で二階へと向かう。
どうやらクストディアの自室がある西側の二階は、本邸の中でもそのフロアだけ独立しているようだ。
領主家族の私的な領域であるのは無論のこと、他の二階部分とは繋がっていない、もしくは反対側の廊下が封鎖されているのか。階段は一箇所のみ、そして長椅子の置かれた長い廊下を経ないと辿り着くことができない。
二階へ上がり、廊下を歩きながら窓の外などそれとなく観察してみるが、何とも不思議な造りだ。イバニェス邸とて迷路のような構造をしているし、領主の屋敷というのはどこも個性的な設計にする風潮でもあるのだろうか?
修繕に手間も時間もつぎ込んだ魔王城は、堅牢でありながらそれなりに真っ当な造りをしていた。
だが、こうして聖王国側で特殊な造りの屋敷ばかり見てしまうと、大きいばかりで工夫がないとも取れるかもしれない。
……もし、もしも万が一、四十年前のあの日、城を訪れた『勇者』に「魔王城のくせに何か地味だなー」なんて思われていたとしたら――
「うっ……」
「ど、どうされましたか、リリアーナ様っ?」
「何でもない、ちょっと嫌な想像を膨らませすぎただけで……大丈夫だ、大広間の内装には自信がある!」
「大広間?」
リリアーナは頭を振って悪い想像を払いのけ、ステンドグラスの大窓も壇上の玉座も黒曜の燭台も花崗岩を削り出した円柱も立派だった、と自分を奮い立たせる。――全部、『勇者』との戦いで木っ端微塵に壊れてしまったが。
過ぎ去ったことを惜しんでも仕方ない。眉間を指で揉みながら「あー」と意味のない音を絞り出して、何とか気分を立て直す。
もっと楽しいことを考えよう。
これから様々な劇の脚本を見せてもらって、書斎ではこれまで手にしたことのない本を読めて、昼食も夕食もサーレンバー領のうまい料理を愉しめる。気の重い礼儀作法の授業は当面なし、エルシオンの脅威からも離れた場所で夜はぐっすり眠れる。
よし、大丈夫。こぶしを握りしめて顔を上げたところで、廊下の先から扉が乱暴に閉まる音が響いた。
足を止めていた三人でそちらを見ると、サーレンバー邸の侍女がうずくまった体勢から起き上がり、こちらへ歩いてきた。その白いエプロンが、腹の辺りから真っ赤に汚れているのが遠目でも見て取れる。
「まぁ、大変っ!」
一番反応が早いのはカステルヘルミだった。口を覆って叫ぶなり、真っ直ぐに廊下を駆けて行く。
主を置いて離れるわけにはいかないフェリバは、リリアーナがそちらに向かって駆け足になると横にぴったりついてくる。
白と黒の石敷きの廊下を走り、顔色の悪い侍女の元まで辿り着く。
先に着いたカステルヘルミと何か話していた様子で、振り向いた魔法師は困ったような顔を浮かべてリリアーナを迎えた。
「怪我は……していないのですか?」
「ええ、はい、お騒がせして申し訳ありません」
近くまで寄ってようやく理解する。エプロンを汚している赤色は血液ではなく、香茶だ。
伝った雫が滴りそうになるのを屈んだフェリバがエプロンの裾から丸め上げ、侍女の手を掴んでそれを持たせる。
「手に飛んだりして火傷はしてませんか? 中まで染みてます?」
「それは、大丈夫です」
「じゃあ早めにお洗濯したほうがいいですね、時間が経つと染みになっちゃいますから」
「はい。本当に、申し訳ありません。……あの、今はクストディア様のお気が立っておられるようなので、ご訪問はもう少し時間を空けたほうがよろしいかと」
そう言い残すと、侍女は頭を深く下げて廊下を戻って行った。
彼女の立っていた辺りにエプロンから落ちた香茶が数滴残っているが、絨毯ではなく磨いた石の上だから、後で掃除をしても綺麗に拭い取れるだろう。だから、問題はそんなことではなく。
「お、お嬢様、やっぱりやめときましょうよぉぉ、何されるかわかりませんよ!」
「いや、訪問の先触れを出した手前、こちらの都合で勝手に取りやめるような無礼は許されない。せっかくここまで来たのだしな」
あの侍女が「気が立っている」と言っただけで、香茶の汚れが令嬢の故意によるものとは限らない。
それに室内は毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。所狭しと物が置かれているし、もし侍女に香茶を浴びせるような乱暴を働いたら、それらも汚れてしまうと容易く想像がつく。分別のつかない幼子でもないし、さすがにそこまで愚かなことはしないと思いたい。
必死の形相で留めようとするカステルヘルミを宥め、何かあればすぐに退室すると約束をして長椅子のある場所まで戻らせた。あとはフェリバがついていれば落ち着かせてくれるだろう。
これ以上心配をさせるわけにはいかないから、やはり長居はしないように気をつけよう。
リリアーナは大きな扉の前に立ち、服装に乱れがないか軽く確認をしてから、室内までちゃんと聞こえるよう強めに二回ノックをした。
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