第193話 朝餉は賑やかに


 サーレンバー領到着の翌朝、リリアーナはフェリバに肩を揺すられて目を覚ました。

 毎朝、寝室へ入った侍女に「おはようございます、リリアーナ様」と声をかけられればすぐ目覚めていたのに、それにも気づかず寝こけるなんていつ以来だろう。

 ベッドの上に座ったまま、まだ朦朧とする頭で室内を見回す。

 見慣れた自室とは違う、サーレンバー領主邸の客間。リリアーナが使うことを見越して調度品を整えたのだろう、レースや花飾りの多い華やかな部屋だ。目を覚ましてすぐに枕の感触が違うことに気づいていたから、その点については混乱もない。

 眠気が残って頭の芯が重たいけれど、朝食の席に遅れるわけにはいかないので、心配するフェリバに大丈夫だと繰り返して身支度を手伝ってもらう。

 体を動かせばいくらか血の流れも促せる。洗顔などを済ませて支度に身を任せるうちに、頭のもやもいくらか晴れてきた。


<起床時刻のお声がけをせず申し訳ありません、よくお眠りでしたもので……>


 フェリバに髪を結ってもらいながらぼんやり鏡を見ていると、すまなそうな念話の声が届いた。

 別に目覚まし役を頼んでいたわけではないし、寝坊と言うほど時間も過ぎていないから、アルトが気に病む必要は何もない。

 伸ばした指先で鏡台の端に置いているぬいぐるみを軽くつつくと、アルトは不自然ではない程度に角を振り、宝玉の重しで前後にぐらぐらと揺れた。


「初めての馬車の旅でしたし、到着して道中の疲れが出たんですね。お体は本当に大丈夫ですか?」


「体調には問題ない。むしろ、深く眠れたことで倦怠感も消えたし、慣れないベッドでも睡眠に影響が出なかったのは喜ばしいくらいだ。そう言うフェリバのほうこそ、昨晩はよく眠れたのか?」


「それはもう、サクッと眠ってスパッと起床です。今朝はいつもより早くに目が覚めたんですけど、とっても元気ですよー。正直ちょっと緊張はありますが、トマサさんいないし、先輩としてエーヴィさんに格好悪いとこ見せられませんからね!」


「うむ、そうか」


 お付きの侍女に加わったのが最近というだけで、エーヴィはフェリバよりもずっと前から屋敷に勤めていたということは、まだ知らないらしい。先輩としての意識を持つことが良い方向へ働いているなら良いかと思い、その話題には深く突っ込まない。

 髪を結い終えて、身繕いが整ったところでタイミングよくサーレンバー邸の侍女が部屋を訪ねてきた。室内のことはエーヴィに任せ、フェリバを伴い朝食をとるため食堂へ案内してもらう。

 ホールに着くと、長いテーブルではすでにファラムンドとレオカディオが席についてお茶を飲んでいた。


「おはようございます、父上、兄上」


「おはようリリアーナ、昨晩はよく眠れたかい?」


「はい、深く眠りすぎて起床が遅くなりました、申し訳ありません。ブエナおじいさまは、これからですか?」


「ああ、もうじき……ほら、来たぞ」


 ファラムンドの視線が向く方を振り返ると、手を広げたブエナペントゥラが大股でこちらへ歩み寄ってきた。上背があるため見上げる迫力に圧倒される。


「おお、リリアーナ、おはよう。朝からお前の可愛い顔を見られると一日の活力がみなぎるぞ。慣れないベッドだがちゃんと眠れたかね? 何か不足があれば遠慮せず言うんだよ、おじいちゃんが何でも用意してあげるから」


「おはようございます、ブエナおじいさま。柔らかい寝具でとてもよく眠れました。こちらの侍女たちにも良くしてもらっているので、不足はありません」


「はぁ……リリアーナは本当によい子だのう。旅の疲れもあるだろうに、こんなに早く起きてこなくても大丈夫なんだぞ? 誰も咎めたりはせんから、もっとのーんびり過ごしていくといい」


 首を上向けて応えると、ブエナペントゥラはしわだらけの両手を擦り合わせながらしみじみとした声でそんなことを言う。たとえ領主自らの許しが出たところで、自分の立場ではさすがに礼を失するような真似はできない。


「そう思うんなら、うちの娘をいつまでも立たせとかないでほしいもんだな。お互いこの後の予定が詰まってんだろ、あんたが席につかないと朝食が始まらないんだから」


「おお、レオ坊もおはよう、今日は顔色も良いようだな。腹を空かせてるだろうに待たせてすまんかった。朝もしっかり食べて、もっと肉をつけるようにな。お前はあまりにも細いから、歩くだけで折れてしまわんかと不安でたまらん」


「満腹すぎるのも健康に悪いですよ。必要な分は食べているので、僕が細いのは体質です。おじい様も食事には気をつけて健やかに過ごしてくださいね」


「レオ坊も優しいよい子だのう、ふたりとも母親に似たんだなぁ」


「お、れ、を、無視してる暇があったらとっとと座れ年寄り。もてなす側がそれでどうすんだ」


「はぁ……お前も昔は可愛かったのに、三十年も経つとこんな生意気なおっさんになるんだから。時間の流れとは残酷なものよなぁ」


「誰がおっさんだ誰が、俺はまだまだ現役ピチピチだぞ。子どもたちの前でおかしなこと言うな」


「どっちがだ。まぁ良い、朝食にしよう」


 屋敷の主が着席したことで、朝餉の始まりとなった。厨房へ続いているだろう通用口から、続々と銀色のワゴンが運ばれてくる。

 リリアーナは濃い目に淹れられた食前の香茶へ口をつけながら、テーブルについてもなお言い合っているふたりの領主へ目を向けた。軽口を叩き合いながらも、昨日に続きどちらも楽しそうだ。

 ファラムンドとブエナペントゥラが交わす遠慮のない和気駄々としたやり取りからは、ずっと以前より家族同然の付き合いをしてきたことがうかがえる。

 着席を促したのは老体を労わってのことだろうし、長い付き合いの中での変化を語るブエナペントゥラの言葉は、幼い頃から知るファラムンドの成長を喜んでいるようにしか思えない。

 そこに反発するような憎まれ口を叩いていたって、気心知れた相手と話すファラムンドの顔は、他者と話している時よりずっと柔和で稚気がにじむ。 

 そうしたふたりの様子を眺めていると、どこか嬉しさにも似た、不思議な感慨が湧き上がった。血は繋がっていないし歳も大きく離れている。友人と言うのも違うような気のする、こういった関係は俗に何と呼ぶのだろう。


 そうして盗み見ているのを察したのか、話が途切れたところでファラムンドがこちらに顔を向けた。

 振り向く一瞬の間に、それは『父親』の顔へと切り替わる。


「どうした、リリアーナ? あぁ、朝からうるさくしてすまないね、大人しいお前は驚いてしまったろう、このやかましい爺さんはすぐに黙らせるから」


「いいえ、えっと……ご予定が詰まっているとのことですが、父上は今日、お忙しいのですか?」


「忙しいというほどでもないよ。こっちに来たのは久しぶりだから、色々とこの機会に話し合いの場が持たれるんだが、昼食は一緒にとれるはずだ。ああでもリリアーナが寂しいなら会合なんてどうでもい、」


「リリアーナは今日もクストディアのとこに行くんだよね」


「ほお、さっそく仲良くしてくれているようだな。そういえば昨日も部屋に行ったのだったか、少々物持ちが多くて驚いたかもしれんが、あれも女の子の話し友達ができたなら嬉しかろう」


 ファラムンドの言葉が終わる前に、レオカディオとブエナペントゥラが被せるように話しかけてきた。

 下手に何か言って父の大事な予定を反故にしてはいけないし、ひとまず眉尻を下げて喜ぶ老爺への返答を優先する。


「はい。クストディア様は演劇の脚本の写しをいくつもお持ちだということなので、そちらを見せてもらいに行くつもりです。他にも、こちらのお屋敷には立派な書斎があるとうかがっておりますが……」


「ああ、リリアーナは読書が好きなのだろう、聞いておるよ。午後にでも案内の侍女を向かわせよう。儂が仕事で使うようなものをいくらか部屋に移しているから、本棚が所々歯抜けになっておるかもしれんが、気にせんどくれ」


 矍鑠とした老爺は気さくにそう言って、片目を瞑って見せる。

 角度的に自分ではなくレオカディオへ向けられたもののような気もしたが、書斎を開放してもらえるとの確約に心踊り、それも気にならない。

 頼むまでもなく書斎へ通してもらえる運びとなってしまった。これだけ立派な屋敷の書斎だ、溢れんばかりの蔵書が、未だ見ぬ新たな知識が待ち受けているに違いない。

 期待にそわつく心を何とか押さえ、圧縮し、令嬢らしい微笑みの裏にしまい込む。


「ではお昼前にクストディア様のお部屋を訪ねて、午後に書斎へうかがわせていただきます」


「うんうん、そうしなさい。ああ、何ならうちの孫娘のことは、クストディアお姉さまと呼んでも構わんのだぞ?」


 上には兄しかいないため、「お姉さま」はこれまで使ったことのない呼称だ。

 どう答えるのが正解かとリリアーナが逡巡するわずかの間に、ファラムンドがふたりの話へ割って入る。


「おい爺さん、ここでそういう話を蒸し返すのはマナー違反じゃないか? つまんないことにリリアーナを巻き込むようなら、もう二度とうちの子を連れてこないぞ」


「何だと、これくらい可愛い孫娘との心温まるふれあいの内だろうに、心の狭い奴め」


「狭くて結構。リリアーナが可愛いのは否定しないが、爺さんの孫娘は朝食の席にも顔を見せない方のご令嬢だろうが」


「ああ言えばこう言う、まったく……三十路を越えても相変わらず口の減らない男だ。せっかく来るならカミロも連れて来れば良かったのにのう、あやつの方がよっぽど年寄りの扱いを心得とるわい」


「あれは猫被ってんだよ、爺コンだから」


「おじい様、父上、給仕たちが困ってるじゃないか。みんなこの後は予定があるんだから、お話はそれくらいにして早く食べようよ」


 レオカディオの言葉に双方黙り、ブエナペントゥラはすまなそうに笑ってから、気を取り直したように給仕へ合図を送った。

 昨晩部屋に用意された夕食もなかなかうまかったし、朝食にも期待が持てる。とはいえアマダの作る料理には遠く及ばないのだが、それを言わない程度の礼節は持ち合わせている。

 控えていたワゴンから冷菜の皿が運ばれ、焼きたてのよい香りを漂わせるバゲットの籠やスープなどが次々に並べられる。

 おおむねイバニェスの屋敷で出されるものと大差ないが、テーブルの中央に瓶ごと置かれた見たことのない色のジャムが気になった。澄んだ緑色で、中に細かな皮のようなものが浮いている。左右にあるのは苺や柑橘で作られたものだから、あれもジャムには違いないと思うが、一体何だろう。

 そうして支度が揃うのを待つ間、またファラムンドと視線が合ったので、彼らの会話を聞いて疑問に思ったことを訊いてみることにする。


「……ところで父上、先ほどの、『じじこん』とは一体何ですか?」


「「……」」


 食堂内から突然音が消え、しんと静寂が耳を打つ。

 レオカディオもブエナペントゥラも、周囲で粛々と手を動かしていた給仕たちまでもが動きを止め、ファラムンドを注視していた。


「……?」


 皆揃って、一体どうしたのかとリリアーナが首をかしげたところで、ファラムンドは突然両手をパンッと打ち鳴らし、娘に晴れやかな笑顔を向ける。


「うん、おいしそうな朝食だな、リリアーナもたくさんお食べ!」


「はい、いただきます」


「フォローしてくれるカミロがいないんだからさ、周りに他人がいない所でも父上はもっと言動に気をつけたほうがいいと思うよ、ほんとに」


 支度を再開した給仕たちのたてる音に混じり、レオカディオのどこか呆れたような呟きが耳に届いた。


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