第189話 令嬢クストディア②
後ろにいた黒鎧が動き出し、関節がこすれる金属音をたてながらソファの後ろへ移動する。
それを視線で追っていたクストディアは肩にかかる髪をかき上げ、気だるそうに上体を起こしてクッションに肘をついた。対応が億劫で仕方ないという風に見える。
胡乱な視線を向ける令嬢は、ゆるく波打つブルネットの髪を頭の両側でふたつに結っている。あれは首がすっきりして心地よいが、書き物をする時に髪が顔へかかって案外邪魔なのだ。授業がある日にはしないようにとフェリバに伝えたら泣きそうな顔をされたことを思い出す。
あまり外に出ず陽に当たらないせいだろうか、その肌は不健康に映るほど青白い。
年齢はレオカディオとひとつしか違わないはずなのに、色とりどりの宝飾品を身につけソファの上で姿勢を崩す様は、もっと年嵩なようにも感じられた。
「お初にお目にかかります、イバニェス家の末娘リリアーナです。これまで身近に女性のお友達がいなかったので、こうしてお会いできるのを楽しみにしておりました。こちらへの滞在中、色々とお話ができたら嬉しいです」
用意してきた挨拶の口上を述べて、教えられた型通りの礼をする。相手が応対の礼を失しているからといって、こちらまで礼節を放棄するわけにはいかない。
「あら、こんな兄がいるにしては驚くほどまともね」
「ほんと、兄の僕から見ても良い子すぎて眩暈がするよ」
兄からの評はともかく、初対面の挨拶をつつがなく済ませられて満足だ。顔を上げてもクストディアの姿勢に変わりはなく、退屈そうに自分の髪を指先でもてあそぶ。
「……それで、何しに来たの?」
「何しにとはご挨拶だな、出迎えをすっぽかしておいてよく言うよ。父上からも、礼節ってものを教えてやれと言われてるんだよね。真っ当な挨拶を披露したリリアーナに対して、他に何か言うことはないの?」
「ないわよ」
取り付く島もないといった様子のクストディアを前に、レオカディオはわざとらしいため息を吐く。
「晩餐で顔合わせしてせっかくの食事がまずくなる前に、リリアーナにサーレンバー公の令嬢はこんなだよって教えてあげるつもりで連れてきたけど。相変わらずすぎて逆に安心したよ」
「そっちこそ、前はもうちょっと可愛げもあったのに、しばらく見ないうちに貴公位らしい悪態を吐くようになったじゃない。貴公子気取りが臭くてたまらないわ、その面の皮の下には汚泥でも詰まっているのではなくて?」
「ははは、性根まで腐ってるやつに褒められても微妙だなぁ。日陰でカビてる令嬢と違って、たとえ泥でも自分の為すべきことは為しているからね」
作った笑顔のまま熾烈な言葉を交わす次兄を見上げ、もしかしたらこのふたりは仲が良いというわけではないのでは、という疑問が頭を過ぎる。
対等に悪態を交わすような相手といえば、自分ならノーアが思い当たるが、あれとは違って兄の声には嫌悪じみたものまで滲んでいる。もしこのまま口論に発展するようであれば、間に入って止めるべきだろうか。
「どうでも良いけど、そこで可愛い妹が困っているんじゃないの? 用件はもう済んだでしょう。ここにいたって面白いことなんて何もないわ、さっさと連れて帰りなさい」
「そうだね、どうせまた夕食の席で嫌でも顔を合わせるんだし。リリアーナ、挨拶は済んだからもう行こうか」
そう言ってレオカディオは早々に踵を返そうとするが、まだ気になることがあるため、その袖口を掴んで引き止める。
……まぁ、気になると言えば、多すぎる調度品も溢れんばかりの物品も、後ろで控える黒鎧の男も何もかも気になる物ばかりで、ひとつずつ指差しながら問いたい気持ちはあるのだが。
「クストディア様、失礼する前にひとつだけおうかがいしたいことがあるのです、よろしいでしょうか?」
「あら、何かしら?」
対面したばかりの幼い娘が何を言い出すのかと、余裕の笑みを浮かべるクストディア――の顔よりもずっと下、その手に掴まれている紙束に、リリアーナの視線は釘付けだった。
厚みがさほどないため、始めは書類の束かと思ったのだが、よく見れば端を紐で綴じているから冊子と呼ぶべきだろう。
青色の表装は紙一枚きり、製本方法からして手製のものと思われる。
「その、お手にされている冊子は何でしょうか?」
「リリアーナ、この部屋にはもっと他に突っ込む所が山盛りだと思うんだけど……」
横で呟くレオカディオには見向きもせず、クストディアは愉しげに目を光らせながら手にする冊子をひらりと差し出す。
「まぁ、何を訊かれるのかと思ったら、これに興味があるの? いいわ、もう一通り読んだし、要らないからあなたにあげる」
「えっ、いら、ほ、くれ、え?」
「リリアーナ、落ち着いて、深呼吸」
本を、くれる? もらえる? ……そんなことを言われたのは初めてだ。
無造作に差し出された冊子へ手を伸ばしながら、レオカディオに言われるまま深く呼吸を繰り返す。
驚きと喜びに震える手で受け取った冊子は、指一本分の厚みもない。青い表紙に目を落とすと、簡素な黒いインクで『燃ゆる月の慕情』という題名と、著者名らしきものが書かれていた。
「それは脚本の写しよ。今度この街でモンタネール歌劇団の公演があるのはもう知っているでしょう? そこの過去作で使われたものを取り寄せたの」
「脚本、の写し……」
中を軽く捲ってみると、演者の台詞と思われる文言と共に、動作や照明の指示などが精細に書き込まれている。物語の流れや台詞だけなら文字を読んで追うことができるが、これは歌劇の設計図とも言えるものだろう。
歌劇や演劇がどんなものか知識で知っていても、それを成すための脚本には初めてふれた。こういう形態の本もあるのかと、新しい気づきを得た心地だ。
「クストディア様は、演劇がお好きなのですか?」
「まぁ、嫌いじゃないわね。色々と原典の本も読んだのだけど、最近はそれを元に上演しているものとかその脚本を見るのもなかなか面白、」
「本に、ご興味がおありでっ?」
「ヒッ」
思わず身を乗り出すと、クストディアは短い悲鳴を上げて後ずさり背もたれに体を押し付けた。主の危機と見たのか、ソファの後ろにいた黒鎧も慌てたように大仰な動作で回り込んでくる。
「リリアーナ、真顔に戻ってる。笑顔笑顔」
「ええ、はい、失礼いたしました。ど、読書がお好きでいらっしゃる?」
レオカディオに窘められながらも、笑顔を作ってもう一度問いかける。すると気を取り直したらしきクストディアは、機嫌の悪さを思い切り眉間にためながら竦めていた肩を撫で下ろした。
「暇つぶしに読む程度よ。もう読み終わったものはいらないから、気になるならお下がりを恵んであげるわ。親が貧乏領主じゃ、新しい本を一冊買うのも大変でしょう?」
「こーいう短慮なバカもいるから、いやになっちゃうよね」
レオカディオの小さな呟きは、ソファの主まで届かなかっただろう。聞かせるつもりで言ったものでもないようだ。
それより何より、気前よく本を譲ってくれるという言葉に驚いてすぐには二の句が継げなかった。
訪問前には話が合うかどうか心配なんてしていたのに、同じ立場で読書家の令嬢とは何という奇縁だろう。これならば滞在中、退屈することはなさそうだ。
「わたしも本を読むのがとても好きなのです。クストディア様、本日はこれで失礼いたしますが、改めてまたお伺いしたいと思います。ぜひ、脚本のことやお読みになられた本についてお話を聞かせてください。あと、この本、ありがとうございます」
遮ろうとする黒鎧の横から顔をのぞかせてそう伝えると、クストディアはまた少し肩を竦ませながら距離を取ろうと身じろぎした。
その様子を見る限り、どうやらあまり他人に近づかれたくないようだ。
肩に手を置くレオカディオが「もう行こう」とせっついてくるため、その場から一歩下がり、空いた片手でワンピースの端を摘まみ退室の礼をする。
クストディアはさっさと去れとばかりに片手をひらめかせ、こちらを見てもいなかった。
「本なんかに釣られてどーすんの、リリアーナ。そんなの僕だって買ってあげるのに」
「え、レオ兄もわたしに本をくれるのか? いつ? どんな本? 脚本の写し? 他の本でもいいのか? ここで? イバニェスに戻ってから?」
「すんごい食いつき……。本を読むのが好きなのは知ってたけど、そこまでとは思わなかったよ……」
クストディアの部屋から退室するなりそんなことを言うと、レオカディオは疲れたように両肩を落として頭を垂れた。
自分のためを思って晩餐前に挨拶へ連れてきてくれたそうだから、旅の疲労が残っているうちに無理をさせて悪いことをした。ただでさえ体力の乏しい身なのだから、先に客室で休ませるべきだったかもしれない。
白い顔に垂れた前髪をよけて、額にさわってみる。発熱はしていないようだが、相変わらず頬の血色があまり良くない。冷える廊下にいるよりも早めに部屋で暖を取るべきだろう。
……次兄の体調を確認しながら、何となく街でノーアの具合をみた時のことを思い出した。
「なに?」
「ん、いや、顔色が優れないなと思って。長く馬車に乗ったばかりでとても疲れているのに、わたしのために付き合わせてすまなかった。この後は夕食まで部屋でゆっくり休んでくれ」
「……リリアーナはさ、ほんと、そういうとこさ……アダル兄によく似てるよ」
「アダルベルト兄上に?」
ここで急に長兄の名を出されるとは思わず、そのまま問い返してしまう。
そういうとこが似ているとは、一体どういう部分のことだろう。今の会話を振り返ってみてもよくわからず、首をかしげる。
「うん……。良かったね、リリアーナは父上と母上と、アダル兄の良いトコ取りしてる」
「レオ兄には似ていないのか?」
「僕には……」
そこでわずかに言い淀むと、レオカディオは柳眉を下げ、いつもより色のない形だけの笑みを浮かべた。見慣れた顔とはどこか違うその表情に、なぜかこちらが驚きにも似た衝撃を感じてしまう。
「顔だけは、僕と似て可愛いよね、リリアーナは」
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