第174話 間章・まじめ魔王さま5.5
――後日。
地下書庫でまだ調べ物があると言うデスタリオラは、アルトバンデゥスの杖を巨岩へ立てかけて部屋を出ていった。
またいつものように、この部屋で主の帰りを待つのかと思考を虚無で満たしていた杖の聴覚野が、塔の下の音声を拾う。
一層深く掘られた落とし穴よりいくらか離れた場所に
「マジで、あの夜はヤバかったよな」
「あー知ってる、例のアレだろ。俺は北の方に狩りに出てていなかったんだよ、お前ら直に聞いたのか?」
「おう、広間の補修手伝ってたら遅くなっちまってさ。もう、すっごかったぜ、
「そーいうお前だってションベン垂らしそうな顔で震えあがってたじゃねーか。ま、オレも漏らしかけたけど!」
その場でどっと笑いが起きる。詳細はわからないが何か愉快な話をしているらしい。
昔から粗野、短絡的、乱暴者で知られる
今では集落ごと移住してきた群れも加わり、八十三体もの
デスタリオラが働き手としてそれを歓迎する反面、アルトバンデゥスは
だが、いざ仕事を与えてみれば朝から晩まで自分たちでローテーションを組み、瓦礫の撤去に城の補修、群れを維持するための狩りや住居の建築と目を瞠る働きぶりを見せた。特にどうしろと指示や命令を受けたわけでもないのに、率先して細々とした仕事を片付け、時には小鬼族のような他種族の手助けまでしている。
<分析:魔王領に棲息している、知性を備えた魔物は総数百万以上。その半数を掌握されるにしても、魔王様自らが全てに指示を下すには多すぎる。命令系統の樹立以前に自分たちで動ける統率された群れの確保が肝要……。
「あの晩の交尾は激しかったよなー、塔の上から悲鳴や音があんなに響いてよ。しかもふたりいっぺんに相手とか、さすが魔王様だぜ!」
「いや、ちげーよ。あの叫び声や轟音は、魔王様の読書を邪魔した奴が見せしめの懲罰を食らったんだろ?」
「え? 魔王様の命を狙ったバカが窓から侵入してギッタギタにされたんじゃねーの?」
「精霊のすんげー光を見たってヤツもいたろ、また何かとんでもねぇ実験してたんじゃないか?」
そんなことをやいのやいのと話しながら、四体の
何やら、夜御前とアリアが揃って居室へ忍んできた夜のことが断片的に――音や悲鳴のせいで一部正解を含んだ、噂が広まっているようだ。
『魔王』の風聞に関わるようであれば何か手を打つ必要があるけれど、主を恐れ敬う内容なら放置しても構うまい。実際、四体の声音にも畏敬の念が含まれていた。
そう、デスタリオラ様はすごくて強くてご立派で探求心に溢れた、素晴らしい『魔王』なのだ!
あの夜の問題点は思考の片隅へ放り投げ、アルトバンデゥスが心情的な鼻息も荒く主への崇敬を募らせていると、塔の入口を小さな影が通り抜けた。
『魔王』の居室へ通すのに問題のない相手であると確認し、階段に設置した罠を解除する。
それから間もなく、部屋の中をうかがうように小柄な少年が顔を覗かせた。
<応対:デスタリオラ様は現在、地下書庫にて読書中のため不在です>
「あ、いや、僕は……ちがう、ます。まおうさま、じゃなくて……」
先んじて念話を送ると、小鬼族の少年ウーゴは心細げな様子で室内に足を踏み入れた。
何やらもじもじと指先を擦り合わせながら、立てかけられたアルトバンデゥスの杖と床の間で視線を往復させる。
そのまましばらく様子を見ていると、やがて決心ついたという様子で顔を上げ、声を張り上げた。
「あの、杖さんと、おしゃべり、いいって。まおうさま、言ってくれたから、きました!」
<確認:私とあなたが、会話を?>
「はい! 杖さん、ものしり、だから。いろんなこと、教えてくれるって」
<思案:……>
この小心者の少年が自らの判断だけでこの部屋を訪れ、自分に声をかけるとは思い難い。『魔王様』に言われたというのは本当だろう。
だが、おしゃべりとは……?
少年に何を教授するのがデスタリオラの望みなのか……?
<了解:わかりました。何か教えてほしいことがあれば訊ねてください。それから、私の名はアルトバンデゥスです>
「ある、と、ば……」
<許諾:発音が難しければ「杖さん」で構いません。さぁ、好きな場所に座ってください>
「はい!」
一体どんな知識を授けることが主の望みなのかは、今は推し測るより他ない。
だがデスタリオラには何らかの思惑があり、自身の不在にあえてこの少年をアルトバンデゥスの元へ差し向けたのは確かだ。ならば道具である自分は役立つことでその期待に全力で応えるのみ。
さぁ何が知りたい。
望む知識を授けよう。
この『大全の叡智』たるアルトバンデゥスの杖に何を問う――?
「杖さんは、どこでしゃべってるんですか?」
<回答:……。ええと、杖がしゃべっているわけではなく、この音声は念話といいまして……。まぁ、時間はたくさんありますから、ゆっくりご説明しましょうか>
◇◆◇
ウーゴが巨岩のそばに腰を下ろした頃、デスタリオラはその妹のウーゼを伴い、城の回廊を歩いていた。
意図して連れてきたわけではなく、途中から後をついてきたため歩調を合わせているだけではあるが。何が嬉しいのか、小鬼族の少女は跳ねるようにして黒衣の足元をついてくる。
ちょろちょろと動く小さな頭のつむじを見下ろしながら、デスタリオラは先ほども告げた言葉を繰り返す。
「ついてくるのは構わんが、地下書庫へは入れてやれんぞ?」
「いい、です。ウーゼは、まおうさまと、歩きたいだけ」
回廊へ入る手前で小鬼族の兄妹を見かけ、部屋へ置いてきたアルトバンデゥスの話し相手を頼もうとしたのだが、なぜか妹のウーゼはそれを嫌がりデスタリオラの後をついてきた。
別に本人の意に沿わないのであれば、頼み事を断るくらい何の問題もない。地下へ降りる前までなら好きにしろと言って歩みを進めれば、明確な目的はなかったのか、ウーゼは何を話すでもなくその後ろをついて歩く。
向かう先が通常の書庫であれば、大人しい少女のひとりくらい連れて行っても構わない。ウーゼであれば読書の邪魔をすることもないだろう。
だが、この城の地下書庫には回廊の奥に設置された転移陣を用いなくては辿り着くことができない。脆弱な小鬼族では転移の魔法に耐えられない上、書庫の入口には大きく『関係者以外立ち入り禁止』と書かれているのだ。デスタリオラはその文言を、代々の『魔王』以外は利用してはならないという意味で受け止めた。
「もうじき着くぞ。我はこのまま書庫へ向かうが……何か話でもあったのではないか?」
「……」
歩くペースをさらに緩めながら水を向ければ、軽やかだった足取りが途端に鈍くなる。
足を止め、背後を振り返るとウーゼが伸ばした手で衣服の裾を掴んだ。
「どうした?」
「まおうさま、奥さん、もらわないの?」
「それは、なぜ伴侶を得ないのかという問いか?」
そう声をかけても、ウーゼは俯いたまま顔を上げようとしない。
各種族の女たちから度々受ける求婚、または襲撃のせいで、何か不安にさせてしまっているのだろうか。
あの晩からは強硬な手段に出なくなった夜御前とアリアの顔が浮かぶが、彼女らがウーゼに対して変なことを吹き込むとも思えない。パストディーアーにも釘を刺したからおかしな手出しはしていないはずだ。
「ウーゼには全く関係のない話だから説明をしていなかったがな、『魔王』は様々な権能を与えられている代わりに、生殖機能を持たないのだ。だから伴侶を得たところで子は成せない」
「こども、できないから……?」
「ああ。女たちは皆、より強い男との子を望んで、我の伴侶にと言い寄ってくるのだろうが、全て無駄なことだ。そもそも『魔王』に子なんてできたら、数代のうちにその子孫だらけになってしまうだろう?」
強さが何よりものを言うキヴィランタにおいて、『魔王』の力を継ぐ子が殖えればあっという間に他を蹂躙してしまう。
数千年もの間そんなことが起きずにいたということは、例外なく『魔王』に子孫は残せないという証左に他ならない。
「だからそんな無駄なことに労力をかけず、皆にはそれぞれ相応しい伴侶を得て子を成してほしいものだ。それが先々のキヴィランタの繁栄にも繋がる」
「……」
その答えに納得したのか、まだ何か不明な点でもあるのか、ウーゼは床に視線を落としたまま動かない。
やがて顔がゆっくりと持ち上がり、丸く澄んだ目が向けられる。
「まおうさま。ウーゼにこども、うまれたら、嬉しい?」
「ああ、もちろんだとも。元気な子が生まれるように食糧供給をもっと安定させねばな、それから城の中ももっと住みやすくしておこう、増築の他に家具類も必要だろう」
「……うん」
「そういえば
少し余計なことまでしゃべりすぎたかと、面映ゆさから臙脂色の髪に手を置きながらそう締めくくる。
デスタリオラの言葉に納得をしたのか、ウーゼは上向けた顔で真っ直ぐに目を見返しながらうなずいた。笑みの形になり損ねた唇が引き結ばれる。
「わかった。ウーゼ、いつか奥さんになって、こどもできたら……まおうさまに、抱っこさせてあげる!」
「そうか、それは楽しみだ」
「うん。ウーゼのこどもの、こどもも、ずっと、抱っこしてください」
「ああ、わかった」
裾を掴んだままのウーゼを伴って歩き、やがて回廊の終端にたどり着いた。
今度はそう何日も籠らずに出てくると告げるデスタリオラに笑顔で手を振りながら、少女はその転移を見送る。
床一面に淡く輝いた複雑な紋様は、黒衣の姿をかき消すと同時に光源を失う。
後に残るのは何の変哲もない廊下の行き止まり。目印も何も記されてはいない、視える者だけにそうとわかる装置は役割を遂げて再び静まり返る。
その暗い廊下の終点に佇んだまま、ウーゼは握りしめたままでいた手をそっと開いた。
力を込めすぎたのか、指先が冷たい。
「ウーゼは、すぐ、いなくなっちゃうけど。でも」
『魔王』が子孫を残せないという話は知らなかった。それでも、寿命の違いくらいは知っている。
住民たちの中でも特に命の時間が短い自分の生は、彼の目から見ればきっと瞬きの間のことだろう。
でも、その次を残せる。
新しい命を親身に喜んでくれるなら、血を継いでいなくとも彼の子も同然だ。喜んでくれるなら、彼のそばが日々賑やかであるのなら、それでいい。
……たとえそこに自分がいなくても。
「うん。ウーゼは、だいじょうぶ。……でも、おにいちゃんは、奥さん、もらえるかなぁ」
上手い笑顔にできないまま、少女は石造りの窓から空を見上げた。
澄んだ青色の空には雲ひとつない、いつも通りの快晴だ。
彼の居室にはきっと良い風が入るだろう。今頃は兄があのしゃべる不思議な杖と話をしているだろうから、自分も混ざりに行こうか。「アルトバンデゥスが寂しがるといけない」と話し相手を頼まれたものの、あの杖と兄だけで会話が弾むとは到底思えない。
ウーゼは踵を返してもう一度空を見上げた。そして開いた両手を合わせながら、『神』の概念すらも知らないまま、一心に祈る。
どうか、心優しい彼が、いつまでも穏やかに在れますように、と――――
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