第171話 間章・まじめ魔王さまは本を読みたい③
女体の上半身を持つ大蜘蛛は、おもむろに壁面を蹴って宙へと躍り出た。飛び降りる間に蜘蛛の胴体と八本脚が縮んで赤と黒の長衣に収まり、代わりにすらりとした二本の足が生える。
そうして重さを感じさせない所作で軽やかに着地するなり、ヒト型となった夜御前は流体を思わせる動きでこちらの肩にしな垂れかかってきた。
「わたくしよりも書物が大事だなんて、つれないお方。ここしばらくお留守が続いておりましたが、今晩はお部屋へ戻られますの?」
「ああ、地下にいると城で何かあってもわからないからな、今晩は自室に持ち込んで読むつもりだが。読書の邪魔をするなら部屋へは入れんぞ」
「邪魔だなんてとんでもない、貴方様のおそばに侍らせて頂けるだけでも」
首に回そうとする腕を外し、冷気の晴れた穴の中を覗こうとしたところで、ウーゼが妙な渋面を浮かべてこちらを見上げているのに気づく。
「どうした、ウーゼ?」
「……なんでも、ないです」
頬を膨らせた顔は何でもない様に見えないが、ウーゴのほうへ視線を向けるとあからさまに目を逸らされた。
この分ではしばらく待っても言葉にしてくれそうにないので、深くは追求せずにおく。
「グムモモモォ……」
穴の底から低い呻き声が響き、巨大な繭のようだった塊が中から音をたてて剥がれていく。やがて中から女の腕や足が突き出てきた。
対象から温度を抜くのではなく、冷気をぶつけることで表面を冷やし、上手いことオニモチだけを凍らせたのだろう。あの威力ではもう少し中まで凍っているようにも思えたが……
「ぶっは、やっと出られたわ! って、髪がくっついて、あああっ服も一緒に固まってるわ!」
何やらひとりで騒ぎ、べりべりと音をたてながら繭からの脱却を試みている。どうやら中身は無事だったらしい。
穴の縁まで近寄って覗き込んでみると、体中に固まったオニモチをつけた少女がそれらを剥がすのに悪戦苦闘していた。
これまでも様々な者たちが窓から転落したものだが、罠に嵌っていたのは予想通り、諦め悪くここ最近何度も襲撃をかけようとしてくる相手だった。
透けるほど白い肌に、そこだけ血を塗ったような赤い唇が映える。手足は細く一見脆弱そうにも見えるが、主だった種族の中でも魔法に関しては屈指の才を持つと言われる、
魅了の魔法を使ってヒトの暮らしに紛れることも多く、混血が進んだ今では血の濃い者はほとんど残っていない稀少種でもあると、生得の知識が語る。
見たところそれなりに血は濃いようだし、同族の中で丁重に扱われているはずなのに、なぜか弟を連れてふたりだけで魔王城へ乗り込んできたのだ。そして夜毎に塔を登っては、窓からの侵入を試みてその度に失敗を繰り返している。
『魔王』を倒してその座を奪いたいのか、もしくは黒鐘のように暴虐の限りを尽くしたというかつての『魔王』に恨みでもあるのか。
弟のほうは従順で今のところそれなりに大人しいものの、彼らの事情については訊ねても全く口を開こうとしない。
「冷気で固まりきっていない部分は、下手に触ると広がるぞ。一度そこを出て、自分で凍らせながら剥がすが良い。早く脱しないと足元のオニモチが溶けてまた逆戻りだ」
「あ、あら魔王じゃないの! ちょうどよかった、登るから手を貸してちょうだい」
声をかけたことで初めてこちらの存在に気がついたのだろう、穴の縁を見上げるアリアの顔が喜色に綻ぶ。
「まぁ何てあつかましい」
「自分でのぼれ、です」
「自業自得ってやつっすから、魔王様が手を貸してやる必要ねーっすよ」
大した手間でもないし、引き上げてやるくらいは構わないかと思ったのだが、周囲から上がる非難の声に編みかけの構成をそっと消した。
そうした様子に助力を諦めたらしい少女は、爬虫類によく似た動きで穴の中から這い出てくる。
渓流の清水を思わせる滑らかな髪も、纏っていた豪奢な衣服もぼろぼろで、元の面影はなく酷い有様だ。
細面に疲労が滲み精彩がないのは、一昨日の晩からもがき通しだったせいだろう。気力も体力も、魔法を放つための力も使い果たしたといった風体だった。
「また我の部屋に忍び込もうとしたのか、お前も懲りないな。魔法の腕は確かなのだから、もっと有意義なことに使えば良かろうに」
「うっう、ひどい、こんな仕打ち……不公平よ、私にばっかり意地悪してるわ!」
「言い掛かりも甚だしい。休息の邪魔をするなと言っても聞かず、夜毎に部屋へ押しかけるお前たちが悪い」
「たち、というのは、もしかしてわたくしも含まれているのかしら?」
とぼけた風を装って夜御前が再び体を寄せてくるのを、半歩退いて避ける。
部屋で誰に何度襲われようと、『魔王』である自分には傷ひとつつけられない。城の外で襲い掛かってくる者らとは違い、さしたる殺気を持たないため殺傷には至っていないが、言葉でわからないならこちらもそれなりの対応をするまでだ。
「隙をついて『魔王』の寝首をかこうとせんその気概は評価するが、我は睡眠を必要としない。夜襲に失敗してもう十分に力量差は理解したろう。何度やっても同じことだ、軽傷で済むうちに諦めなければ、次こそ外敵と判断して縊り殺すぞ」
そう言ってふたりの女に睨みをきかせれば、夜御前はびくりと動きを止め、地面を這っていたアリアは憔悴した顔を青褪めさせた。
「外敵だなんて……、わたくしはただデスタリオラ様のおそばに置いて頂けさえすればそれで。お眠りにならずとも、共寝くらいは務めさせて下さいますでしょう?」
粘性の声音とともに、避け損ねた左腕を絡め取られる。
言葉で脅しはしたものの、
かつての『魔王』のように見せしめとして殺傷し、恐怖で縛りつけて従えたところで、生産効率はひどく下がるだろう。それでは本末転倒だ。
夜御前の強引とも取れる態度は、そういったこちらの思惑をよく理解しているためと思われる。
「眠らないのだから添い寝も必要ない」
「また、そんなつれないことばかり仰って。せっかくこうして同型になれる種族同士、閏のお供にはわたくしが、」
「抜け駆けすんな蜘蛛女! 私のほうが先だったんだから!」
「ボロ雑巾が何か鳴いておりますわね。あちらの木陰へ参りましょうデスタリオラ様。静かな場所でふたりきり、ゆっくりお話ししとうございます」
そう言いながら腕に体重をかけてくる夜御前の仕草を見てか、ウーゼが右足にしがみついてきた。
「まおうさまは、これから、お水を見にいくんです!」
「まぁ、おませさんね。これはオトナの話だから割り込んで邪魔をしちゃだめよ、お嬢ちゃん」
夜御前の覇気を込めた流し目に、ウーゼの足が竦む。
小さな手が掴んだ衣服を力いっぱい握りしめる感触と共に、その体の震えが伝わった。
「大人も子どももない、この場において我の邪魔をしているのはお前たちのほうだ。ウーゼは非力ながら城のために日々立派に働いてくれているというのに、力を持っているお前たちは何もせず、毎晩無駄な襲撃を試みるばかりではないか。我が城に求めているのは働き手たる臣下だ。邪魔をするだけなら疾く出て行け」
怯えるウーゼの頭に手を置き、夜御前の白い腕を払った。
小鬼族も
だからこそ統治する側の自分も、住居や食糧の世話といった面で彼らの生活を支え、安寧の暮らしを提供することで『魔王』という支配者の任を果たそうと思えるのだ。
上下で支え合うことによって、再起動したばかりのこの城は成り立っている。それに横槍を入れるような存在は要らない。
どんなに有力な種族だろうと、信頼できる臣下と比べれば替えのきくものだ。
「……ええ。貴方様が働けと仰るのでしたら働きましょう、ご所望の糸も生地も献上いたします。ですからせめて、おそばに侍ることはお許しくださいな」
「いと?」
「
一族の皆で話し合ってみるとのことで交渉自体は保留、返答待ちの中、なぜか里の長である夜御前だけが城までついてきたのだ。
空き部屋はいくらでもあるため、好きに使って構わないとは伝えていたが、まさかしつこく夜襲を狙うなんてその時は思いもしなかった。
「城の住民も増えてきたし、もうじき寒い時期が巡ってくる。その前に防寒を兼ねて皆の衣類をもう少し整えてやりたいと思ってな。……だが、ウーゼたちは寒さに強いのか。では新しい服など要らな、」
「い、いります! あたらしい、ふく!」
「僕も、ほしいです!」
「 そうか。うむ、
ウーゼとウーゴが纏っているのは、元の色がどんなだったか推し量ることも難しいほどくすんだ、簡素な貫頭衣だ。細い手足はむき出しで、足元は粗末な革靴を紐で巻きつけているだけ。防寒どころか、防御力も心許ない。
全身を厚い毛皮に覆われた
ウーゼたちにはせめて手足を覆える衣服、それと寒い時期に重ねられるような、外套や羽織りものなどを仕立ててもらえば良いだろうか。
城に棲みついていた小鬼族は百にも満たないし、体が小さいため生地の量も少なくて済む。糸を紡いでから衣服を仕立てるまでどのくらいかかるのかは知らないが、ひとまず寒い時期に間に合えばそれで良い。
「長であるわたくしとしましては、まず『魔王』であらせられるデスタリオラ様のお召し物を真っ先に何とかするべきかと……」
「あぁ、それね、私も思ってた」
「あー、俺もちっと思ってたっす」
「まおうさまに、もっといいもの、着てほしいです」
<そうでスね、頑強な外殻は大事ですトも>
脆弱な小鬼族たちの衣類について思いを馳せていると、なぜか周囲の者たちから揃って微妙な視線を向けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます