第145話 悪寒
そうして並んでいる菓子を眺める間に、また新たな客が店内へ入ってきた。
トマサくらいに見える年齢の女性と、その手に引かれる小さな少女。自分があれくらいの身長だったのは六歳の頃だから、歳はそのあたりだろう。比較対象があれば年齢の推察も容易い。
菓子の並ぶ台の前を親子連れらしきふたりに譲り、カミロのそばへ戻る。
話がひと段落したらしき大人たちは、揃ってこちらを見下ろした。
「リリアーナ様、お決まりになられましたか?」
「あ……、ポポからもらった袋は?」
「はい、こちらにご用意しております」
ポポの店を出る時に預けていた色鮮やかな布製の袋を、カミロはコートの内側から取り出した。どう収めていたのか、表面には皺ひとつついていない。
「もらった袋は四枚あるので、侍女たちとカステルヘルミ先生の分をこれに分けてお土産に持ち帰ろうと思います」
「……リリアーナ様、ひとつよろしいでしょうか?」
「何か問題でも?」
枚数的にちょうど良い配分だと思ったのだが、わずかに思案したカミロは視線だけをちらりと店の出入り口へ向けた。
「問題と言うほどのことではないのですが、エーヴィはあまり好んで焼き菓子を口にすることがありません。彼女の代わりに、アダルベルト様にお土産をお持ちになられてはいかがでしょう?」
「エーヴィがビスケットを好まないのなら、押し付けるようなことは控えるけれど……どうしてアダルベルト兄上に?」
どちらかと言えば、レオカディオのほうが菓子の類を好むのではないだろうか?
そう不思議に思って訊ねれば、カミロはほんの少しばかり無表情を緩めた。
「アダルベルト様は普段あまり甘いお菓子をお食べになられないのですが、こちらの焼き菓子は甘さが控えめなためかお口に合うようで。渡して差し上げれば、きっと喜ばれますよ」
「あらあら、砂糖が高くてあんまり使えないのが意外なとこで役に立つものねぇ。うちなんかの安物でも喜んでもらえるなんて、嬉しいわぁ」
豊満な体を揺らして喜色を浮かべるマダムの言葉で納得をした。
遠方の領から取り寄せているという砂糖は、近隣で採取できる調味料よりずっと高価だと聞く。なるべく安価な菓子を販売するためには、原価の高い材料はあまり使えないということか。
確かに、以前に食べた硬いビスケットもあまり甘くはなかった。
あれはあれで焼いた小麦や卵の風味が生きておりうまいと思うのだが、レオカディオは屋敷で作られる甘い菓子のほうが好みなのだろう。
「では、アダルベルト兄上と、カステルヘルミ先生と、フェリバとトマサにお土産を買っていくことにします。マダム、こちらの袋に詰めて頂けますか?」
「いいわよ、可愛い袋ねぇ。お菓子はどれにするか決まったかい?」
「マダムお勧めの二点でお願いします」
選ぶのも楽しいと言って眺めてはみたものの、種類がありすぎて決められなかった。
見知らぬ菓子は味の想像がつかず、かと言って全てを試食していては夕食に響いてしまう。
あれこれ選んだところで小さな袋に入る枚数は限られているのだし、売っている本人のお勧めなら外すこともないだろう。
「他には何かいるかい?」
「あの、では、あそこに並んでいる乾燥果実を少しずつ頂けますか?」
「少しっていうと、うーん、お任せでいいかい?」
「ええ、お願いします」
「あいよ!」
威勢よく返事をしたマダムは布製の手袋をつけると、持ち出したトレイに焼き菓子を取り分けはじめた。
客の親子連れも注文をする様子なので、ノーアと一緒に会計の机を離れて再び窓際へ寄っておく。
「ノーアも何かいるか?」
「僕はいらない。……切り替えが早いな」
「切り替え?」
何のことだと目を瞬かせると、フードの下から見慣れた呆れ顔がのぞく。
「令嬢ぶった態度のこと。そういえば、さっきの林檎売りにはその話し方をしなかったけど」
「演じる相手くらい選ぶさ、ポポもマダムもカミロを介してきちんと名乗っただろう。ならばイバニェス家の子女として相応しい振る舞いをしなくては」
「演じる……?」
カミロのアドバイスを経て、演技という形で意識の切り替えをするようになってからはだいぶ楽になったとはいえ、この話し方はそれなりに気疲れする。
自分の言いたいことを一度頭の中で変換し、礼儀作法の授業で教わった所作を交えて演じるのだ。失敗しないように気を張る分、体も精神も疲弊する。
だが、これからリリアーナとして生きていくためには必要な技能だから、技を磨くためにもたまにはこうして外の人間に接して、実地で練習する必要もありそうだ。
この先いざという時、重要な場面でボロを出すわけにはいかない。
「……疲れるだろ、それ」
「当然疲れはする。だがお前とて同じようなものではないか? 聖堂内で大人と会話する時など、今わたしと話しているような口調ではないのだろう?」
「まぁ、そうだけど。君ほど極端な差はないよ」
極端と言えば、極端ではあるのだろう。何せ生前とは性別も立場も年齢も、何もかもが違いすぎる。
すでに形成されている『自分』を無理に変えることが難しい以上、令嬢らしい振る舞いは演技によって乗り切るより他ない。
どれだけ疲れようがそれは必要なことだし、普段を慣れた口調で過ごさせてもらっているだけ十分に有難いのだから。
「せっかく授業で身につけた振る舞いだからな。今日は本番として、何人かと話しても不審がられることがなくて安心した」
「僕から見たら十分すぎるほど不審だけどね」
「それを言ったらお前だって不審だからな。いいか、わたしの素の話し方を誰にも言うなよ、お前の無礼さも内緒にしておいてやるから」
「どっちもどっちって言うのか、こういうの。一緒にされたくない……」
フードの中に片手を突っ込んで項垂れる。
おそらく額を押さえているのだろうが、外からはわからないため天辺の折れた円錐が傾いているようにしか見えない。
会計をする母親の横で、小さな少女もじっとノーアを凝視している。見るからに不審だろうが、害はないからどうか安心してほしい。
目の合った少女に力強くうなずき返すと、さっと視線を逸らされた。
「……――」
言語化しがたいショックを受けて、ノーアの小さな呟きを拾い損ねた。
フードの口を指先で引っ張って、少しだけ顔を出させる。室内にあまり明かりがないせいだろうか、ただでさえ白い顔がさらに青白く見える。
「……不自由には感じないのか、君は。振る舞いも、言葉も、外出まで何もかも制限されて」
「不自由?」
疲れるとは言っても、自分自身、そこまで厳しい締め付けは感じていない。
領主の娘への教育としては、もしかしたらイバニェス家の皆が緩いだけなのかもしれないが。
……もちろんバレンティン夫人は除外する。
「君のその眼があれば魔法師として大成できる。他の生き方を選ぶことも、兄たちを押しのけて後継になることだってできるだろ。自由を奪われて窮屈じゃないのか、そんな、演じてまで貴公位の末娘として生きるのは」
「ノーア……」
それは問いかけの形を成していない。こちらへ訊ねているというよりも、どこか独白に近いように思えた。
何を堪えて、何を吐き出したいのか、他者の感情の機微に疎い自分では、それを察してやることができない。
「わたしの振る舞いに何か問題があれば、それはわたし自身だけでなく、父や家の者にも非難が向いてしまう。だから、きちんと教育を受けて、正しく育ててもらっていることを示さなくてはならない。だから面倒でも多少窮屈でも、令嬢らしい振る舞いを嫌だと思ったことはない」
「不自由じゃないって言うのか?」
「もしわたしが不自由に見えるなら、それはお前がそう定めているからではないか? 屋敷から任意で出られないことや、名を知る相手の前で演じなくてはいけないこと。わたしにとってどうこうでなく、それらの制限をお前が「不自由だ」と感じているに過ぎない」
「……」
憎まれ口を返しもせず、言葉をなくしてうつむく様子は年相応の子どもだ。
中身が年長者とはいえ偉そうに説教をする気はないのだが、いくらか長く生きた分だけ得た経験、その蓄積から学んだことなどを語るくらいは良いだろう。
マダムが瓶の中から乾燥果実を取り分ける邪魔にならないよう、反対側の窓に移動しながら口を開く。
「わたしが思うに、大事なものとか、守るものがあるほど不自由になる」
着ている炭色のコートのなだらかな表面を撫でる。
織りも縫製も丁寧な仕事による逸品だ。紡績から完成まで、一体どれだけの人の手を経て作られたものなのだろう。おろしたてのブーツも同様に。
「たとえばこのコートが大事なら、埃や泥で汚れそうな場所には近寄れない。このブーツが大事なら、ぬかるんだ道は迂回する必要があるし、邪魔な石を蹴飛ばすこともためらわれる。……家族や侍女が大事なら、心配をかけさせないために怪我や病を得るわけにはいかない。危険な場所へ行ったり、食事を疎かにすることはできない」
「……」
「対して、何にも大事なものがなければ身ひとつで自由だ。泥が跳ねても平気だし壁を蹴ってもいい、何に気兼ねする必要もなく好きに振舞える。怪我をしても自分が痛いだけだから、どこへ行って何をしてもいい。それこそ自身の思うまま『自由』に生きられる」
通りから吹いた風に、入口の布がひらりと揺れた。
「生きるのに不足さえなければ、寝て起きて食べて、気ままに過ごして、食べて寝て。その繰り返しだけの生活も悪いとは言わないさ。誰しも、好きに生きるという意思決定の自由はあっていいはずだ」
会計を終えて荷物を鞄に詰めた親子連れは帰っていくようだ。母親に手を引かれる少女が、布をくぐる間際にこちらに向かって小さく手を振って見せる。
ちょっと驚いたが、姿が見えなくなる前に手のひらを振り返す。はにかむように笑んだ少女はそのまま店を出て行った。
「……だが、そんな自由
「……」
「んー……これはわたし個人の考えだから、別にお前にもそうしろとか、考え方を改めろと言うつもりはないぞ。だが、目的や大事なものがあったほうが生きるのは楽しい、というのは本当だ。わたしの場合は、目的はおいしいものをたくさん食べることで、大事なのは家族や周囲の者たちだ。うん、キンケードとポポと、ノーアを含めてやってもいい」
「頼んでない」
「やっと憎まれ口が出たな。まぁ、どうせいつかは死ぬのだ、それなら生きている間を楽しんだほうが得というものだろう。せっかく、こうして生きているのだから」
フードを引っ張った指で前髪をかきわけると、白い額がわずかに汗ばんでいる。
やはり顔色も優れないし、気分でも悪いのだろうか。
「……生きていて、面白いなんて思ったこと、一度もないよ」
「そうか。じゃあ、これから見つかれば良いな」
そのまま頬と首筋に軽く触れてみるが、どうやら熱はないようだ。
だが血色をなくした顔は何か苦痛をこらえるようで、目を閉じると細い息を吐き出した。
「ノーア、体調が悪いのか? マントが暑いなら脱いでも構わないぞ、ひどい顔色だ」
「いや……問題ない。ちょっと、何か、いやな感じがしただけ」
「いやな感じ?」
話すことと、目の前のノーアにすっかり意識を取られていたが、顔を上げたところで覚えのある悪寒に気づく。
寒いわけではなく、体調が悪いのとも異なる。
通りを歩いていた時に感じたものと同じだ、ノーアが言うように「いやな感じ」としか表現ができない奇妙な感覚。
喉の奥が細まる呼吸のしづらさに、思わず自分の首を両手でおさえる。
ぞわりと、刷毛で撫でられたように腕に鳥肌が立った。
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