第103話 甘く、満ちて、おやすむ


「魔王って……。お嬢様はそんなご本も読んでいらっしゃるんですの?」


 聞こえてきたカステルヘルミの声に、思考の淵へ落ちていた顔を上げる。

 ほんのわずかな間だが、ぼんやりとしていたようだ。頭の芯が鈍く重い。ちゃんと昼食を終えるまでは、まだ寝落ちるわけにはいかない。


「ん……、魔王の本か。勇者の冒険譚などは、アダルベルト兄上が好んで読んでいるようだ。ここの書斎にもいくらか置いてあるのだが、だいぶ古いものも混じっている」


「まぁ、ではきっと歴代のご領主様たちも読んでいらしたのね。ファラムンド様も手に取られたのかしら?」


「確かめたことはないが、軽く目を通すくらいはしたことがあるかもしれないな。あの手の物語にはお約束という流れがあって、案外面白いぞ?」


「魔王のお話なんて、怖いものだと思って避けていましたけれど。それならわたくしも今度何か読んでみようかしら……」


 ここ数百年のうちの『勇者』と『魔王』を題材にした本であれば、魔物の討伐や傷つくシーンなどの描写はあっても、そう怖いということはないだろう。

 ただ、書斎の蔵書には含まれていないが、聖王国の内部まで攻め入った『魔王』の時代のものだけは、やめておいたほうが良いかもしれない。


 年代によっては相当凄惨なことが書かれているとも知らないカステルヘルミは、頬に手をあてながら上の空で幸せそうな顔をしている。一体何を想像しているのやら。

 その姿を改めて見つめて、何か、足りないような気がした。一体何だろう。時間を遡るように記憶を辿る。

 ……そういえばついさっき、裏庭では何か持っていなかっただろうか?


「……あ。思いだした、お前、熊と首飾りの塊はどうした?」


「熊と首飾り……? あぁ! 申し訳ありません、裏庭へ置き忘れてしまったようですわ!」


 ぽん、と手を叩いてから、カステルヘルミはソファの上でそわそわとしだす。互いにすっかり忘れていたようだ。


「いや、いい。わたしが眠ったりして世話をかけたせいだな。明日も裏庭へ行くのだから、その時に回収してこよう」


「ええ……。では明日はわたくしも、またご一緒させて頂きますわね」



 そんなことを話していると、間を開けて二回ノックの音が響く。

 侍女たちが行き来するときの合図としている叩扉音だ。応対に出たトマサと共に、ワゴンを押したフェリバが戻ってきた。

 こちらへ一礼を向けてから配膳に取り掛かるフェリバは、もうすっかり落ち着きを取り戻したらしい。トマサと手分けして素早くカトラリーなどの準備をしている。

 そそっかしく慌ただしく騒がしい性分ではあるが、仕事はちゃんとできるのだ。

 今日はふたり分ということで椅子などの支度も増えてしまったが、普段からそうしているかのように手際よくテーブルが整えられていく。


「先生にも、リリアーナ様と同じお食事をご用意してもらえました。たまたま今日は作った量に余裕のあるメニューだからって、デザートまで一緒ですよ~」


「まぁ、それはとても嬉しいのですが、……本当によろしいのかしら?」


「せっかくだから、味わって食べていけ。アマダの料理はすごいぞ」


 テーブルに移動し、用意された椅子へとカステルヘルミを促す。

 そういえば、誰かを部屋に招いて共に食事をするのはこれが初めてだ。兄たちを招待するよりも先に、家族以外の者を招くことになるとは。

 まぁ、今日は行きがかり上なのだから仕方ない。レオカディオあたりは後で知ったら何か言ってきそうだから、このことは黙っていよう。


 席につくなり良い匂いが漂い、空腹をこれでもかと刺激してくる。

 濃密な甘い香りだが、果物や焼き菓子の類とも異なる。これはたしか、煮込んだカボチャの匂いだっただろうか。

 小皿に取り分けたトマサがそれぞれの毒見を済ませ、テーブルへと順番に皿が運ばれる。


「裏庭でお茶を戴いた時もそうでしたけれど、やはり貴公位のご令嬢ともなると、お食事ごとにしっかりお毒見がされるのですねぇ」


 カステルヘルミが何やら感心したように小声でささやく。

 食事ごとの毒見はいつもお付きの侍女たちの持ち回りで、食堂で食べる時にも、運ばれる前の皿からそれぞれ取り分けて安全性の確認がなされる。

 リリアーナとして生まれ、状況を理解してすぐ後、離乳食の段階からそうしているのを見てきたため、ずっとこれが当たり前のものだと思っていた。

 日頃の習慣として定着しすぎて、今まで特に疑問に思ったこともない。


「中央では、こういった確認はあまりしていないのか?」


「あまりというか、普段のお食事からお毒見をされるなんて、それこそ王族くらいなものではないかしら? いえ、ごめんなさい。貴公位のお屋敷でどうされているのかなんて、わたくしも詳しく知りませんから。もしかしたら当たり前のことなのかもしれませんわね」


「そういうものか。いつも侍女たちに面倒をかけているが、食事の際の決まり事だとばかり思っていた」


 ファラムンドをはじめとした領主家の者が口にする食事に対して、より慎重だということだろう。

 形骸化した慣習というものは、生活のそこかしこに潜んでいる。

 食事毎に毒見という形式を挟んではいても、誰もアマダや厨房で働く料理人たちを本気で疑っているわけではない。スロープを降りる時に手を差し伸べられたり、食事の際に椅子を引かれるのと同じようなものではないだろうか。


「私も、大きなお屋敷ではこういうことするのが当たり前なんだと思ってました。でもリリアーナ様の安全と安心のためなら何も面倒じゃないですよー、おいしいですし!」


「こら、フェリバ」


 いつも通りの他愛ないやり取りを挟みつつ、テーブルの上が整えられた。

 今日の昼食のメニューは、カボチャを使ったシチューと、チーズが練り込まれ程よく焼き色のついたバゲット。瑞々しい野菜が盛られたガラスの小鉢。ワゴンにはもう一品、デザートも冷えた状態で用意されているらしい。

 シチューの皿には、カボチャの皮を彫って模られた動物たちが添えられている。深い飴色をしているから、鍋で一緒に柔らかく煮込まれたものだろう。

 猫の形をしたものをスプーンで掬って口へ運んでみる。皮の程よい歯応えと、苦み混じりの濃厚な甘さがとても好みだ。

 シチューの中に浮かぶ根菜類も、それぞれが花弁や五芒星の形をしていた。角がシャープだから、煮た後に取り出して個別にカットしたのだろうか。相変わらず芸が細かい。


「おいひい……っ!」


 シチューを一口食べた後の、スプーンを持ち上げたままの格好で固まったカステルヘルミが思わずといった感想を漏らす。


「お嬢様はいつも、こんなにおいしくて可愛らしいお食事を召し上がっていらっしゃいますの?」


「ああ、厨房長のアマダのお陰だ。勤勉な男らしく日々腕を磨いていてな、手先も器用だからこんな細工物までつけてくれる」


「さ、さすが、領主様のお屋敷へ勤める料理人は違いますのね……素晴らしいですわ」


 感動した様子でそう呟きながら、せっせとシチューを口へ運ぶカステルヘルミ。

 さすが所作は洗練されていて、自分にとっても良い手本だ。


「うんうん、どんどん褒めるがいい」


「うんうん、どんどん褒めてください!」


 フェリバと共に上機嫌になりながら、こちらも空腹を満たすべく食事に取り掛かった。

 煮込まれてとろりとしたカボチャ、歯応えを残して存在を主張するニンジン。根菜たちの溶け合った甘いシチューと、塩気のあるチーズのバゲットがまた恐ろしいほどに良く合う。

 口の中が甘くなりすぎれば、小鉢の水菜やトマトがそれをリセットしてくれる。

 胃の腑の容量さえ無限であればいくらでも食べていたい。

 口が忙しいため余計な会話を交わすことなく、互いにマナーの範疇から逸脱しない程度に、手を休めず用意された食事を口へと運び続けた。

 そうして腹が満ち、体中が温まるにつれ多幸感とともに激しい眠気が押し寄せてくる。


 うとうとするのを堪えながら食後のお茶を啜っていると、デザートの小皿が提供された。

 銀皿の上に、白いつるんとした半球状のものが乗っている。果実を刻んだらしい淡い色合いのソースがそれを囲む。


「ええと、こちらは、海藻とミルクで作ったなんか、何だったかな、何かに、桃のジュレをかけたそうです〜」


「フェリバ……」


「ご、ごめんなさい、さっきは急いでいたので! あと、これ今朝届いた瓶詰めの桃なんですが、リリアーナ様がお好きなアレは明日作るそうですよ、仕込みが要るらしくって」


「そうか、では明日のデザートも楽しみにしておこう」


「何かとかアレとか……ちゃんとお品の名前を覚えなさいフェリバ」


「はいー!」


 再びいつもと変わらないやり取りを交わすフェリバとトマサの声を背に、添えられた小さなスプーンで端を掬いあげる。

 意外と弾力のある手応えだ。桃のジュレとやらもつけて一口。

 向かい合うカステルヘルミと共に、瞠目しながら顔を見合わせた。……おいしい!

 蒸したプディングや以前に食べたミルクの菓子よりもだいぶ固いが、舌の上でその弾力が踊るのだ。つるりとした舌触りのそれは、ほのかなミルクの風味と甘さを備えている。そこへ桃を刻んだジュレの甘酸っぱさが加わり、噛むたびに全てが入り混じる。

 鼻腔を通りぬける香りの何と快いことか。ミルク味の白いものが、あえて固めに作られているのが良い。冷たさと甘さと酸っぱさと歯応えを楽しむうちに、あっという間に皿は空になっていた。

 余韻を楽しみながら、残った香茶を流し込む。


「はぁぁ……。お嬢様には感謝を、とてもおいしゅうございましたわ。わたくし今日いただいたお食事の味は一生忘れません」


「……ん、わたしよりも、アマダに感謝せよ……」


 カップを置き、椅子の背もたれに寄り掛かる。

 満足の息をつくと、それまで体を支えていた何もかもが一緒に抜け出ていってしまうようだった。

 とても眠たい。

 目蓋があまりに重くて、一回のまばたきが長くなる。

 思考まで段々、緩やかに、沈んで……


「リリアーナ様、お疲れなんですね。少しお休みになられますか?」


「ん……」


 何とか返答らしきものを口から出したが、もうそれきり体のどこも動かすことができない。

 いつの間にか目蓋はすっかり閉じてしまっていた。

 緩慢に落ちていく意識。

 すべての感覚が遠のく。

 人の声がそばで聞こえても、もう会話の意味は捉えられない。


「朝から色々とございましたから、わたくしよりもお嬢様こそゆっくり休まれてくださいな。……運ばれるのでしたら、お手伝いいたしましょうか?」


「大丈夫ですよ、リリアーナ様は軽いですから。このまま抱っこして寝室まで行ってもいいですか、トマサさん?」


「そうですね、ゆっくりと……ああ、扉は開けますから」


「お嬢様も、こうしていとけない表情だけを眺めていると、年相応なんですけれどねぇ」


「うふふふ、口元がむにゅむにゅ動いてる、リリアーナ様かっわいぃ~!」


「フェリバ静かになさい。ああ、ポケットにアルトさんが入ったままでしたね、申し訳ありません。こちらの上でよろしいですか? はい、ではリリアーナ様をよろしくお願いいたします」


 ひそひそと交わされる親しい者たちの声は、もう遠く。

 疲れに引きずられるまま直下へ落ちるように深く、深く、――眠りの底へと沈んでいった。



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