第63話 絶対にゆるさんぞ。
瞼の重さは変わらぬものの、次の目覚めはいつも通りに感じた。それでも手指を開閉したり、頬をつねってみたりして現実味を確かめる。
体は相変わらず熱を持っていて体重が三倍ほどに感じるが、その重みがかえって浮ついた夢ではないと知らせてくれるようで深く息をついた。
「……アルト、いるか?」
<はい、リリアーナ様。おはようございます>
「おはよう。さっきは、ここに侍女やカミロがいたと思うのだが。あれからどれくらい眠っていた?」
<そう長くはありません、普段ですとそろそろ昼食のお時間です>
そう言われてみると腹のあたりが心許ない。少し目が回るのは空腹のせいだろう、せめて朝食を終えてから倒れれば良かった。
横になったまま手を伸ばし、サイドチェストに乗っていたアルトを掴む。綿の中で宝玉の位置が偏っていたはずだが、いつの間にかバランスが元に戻っているようだ。丸々した体をしばらくにぎにぎとしていると、夢で見た無惨な姿の記憶が薄れていくようで心も落ち着いてくる。
<ひどい夢をご覧になられたそうですが、侍女殿も私もこの通り、元気にしております。ご安心ください>
「ぬいぐるみが元気というのもおかしな話だがな。うん、何事もなくて良かった」
角を激しく上下して健在をアピールするアルトを枕元へ置き、ベッドから起きあがった。
ふと視線を上げるとヘッドボードに置かれていたはずの本が二冊ともなくなっている。あの後に移動させたのだろうか。
寝汗で体がべたつくし、髪もひどい状態だ。手を借りて身支度をしたら、ひとまず昼食をとらせてもらおう。
そう思いベルに手を伸ばしかけたところで、寝室の扉が軽くノックされた。耳を澄まさなければ聞き取れないほどの音は、こちらが寝ていると思っての配慮だろう。返事をしようと思った時には扉が開かれ、フェリバが顔をのぞかせた。
「あ! リリアーナ様、お加減はいかがですか、もう起きて大丈夫なんですか、おはようございます、まだお熱ありますよね、痛いとこはないですか、お水飲みます?」
「そういっぺんに訊くな。おはようフェリバ。熱は変わらずだが、汗をかいたから拭くのを手伝ってほしい。それから……腹が空いたな」
フェリバから手渡された水差しで喉を潤している間に、湯を使う準備をしてもらう。続いて姿を見せたトマサへも体調にさして変わりのない旨を伝えると、強ばった顔がいくらか安堵に緩んだ。
朝から騒ぐだけ騒いで意識を失ったのだ、きっとひどく心配させてしまったことだろう。重ねてもう大丈夫だと言うと、「お体が万全となるまではどうぞ安静に」とぎこちなく笑ってくれた。その目尻は少しだけ濡れていたが見なかった振りをする。
朝食を抜いた分、たくさん食べるぞと密かに意気込んでいた昼食はその期待に反し、ボリューム大幅に減らされてしまった。急に腹へ入れるのはよくないだとか、消化の良いものをということで、テーブルに並んでいたのはスープとパンと皮を剥いた果実の小皿のみ。
体の調子を見て夕食の内容も考えるとのことで、夕餉までこんな腹が膨れないものを出されては快復も遅れてしまう。
だが体調を優先するのは仕方ないし、寝ている間に診察に来た医師の指示だというなら反抗するわけにもいかない。
大人しく言うことを聞くべきだろうと、食後の薬を飲んでしょげていると、横からほかほかと湯気をあげるホットミルクが差し出された。
「フェリバ……!」
「花の蜜は体調を崩している時には良くないと言われてしまったので、お砂糖をちょこっと溶かしてあります。結構お腹にたまりますから、お夕飯まではこれで我慢してくださいね」
「いや、助かる。……夕飯までということは菓子も禁止なのか?」
「んー、クッキーをつまむくらいは良いんじゃないですかね、後で確認してきます」
温かいミルクをありがたく頂戴する。ほんのりと甘い味と香りに体中が弛緩しそうだ。
椅子の背もたれに体重を預けながらちびちびそれを飲んでいると、叩扉の音がしてトマサが対応に当たる。
そろそろ来る頃だろうかと予想した通り、姿を現したのは片手に杖を携えた侍従長だった。
「お食事の直後に失礼いたします。リリアーナ様、お加減はいかがでしょう?」
「熱と体のだるさは抜けないな、午後は本を開かず大人しく寝ているつもりだ」
「ええ、そうなさってください」
視線でソファセットの方を指すと、カミロはうなずいて恭しく片手を差し出してきた。
「いや、これくらいの距離、」
「何かあってはいけませんから。もしくは、そちらのカップをお持ちしましょうか?」
本来であればカップを片手に預かった上で手を取るのだと、言外に滲まされれば首を横に振ることはできない。
何だかそれは卑怯ではないかと思いながらも、渋々カップをトマサに預けてから、差し出された手に右手をのせた。ほんの十歩分ほどのエスコートだ。
ソファとローテーブルの設えられた一角へ移動し、深く腰掛ける。フェリバがテーブルを片づける間にトマサは侍従長の香茶を淹れるのだろう。まだ半分ほど残っているミルクのカップを受け取り、その背を見送る。
起きた後に湯を使って、髪もきちんと梳いてもらった。寝間着から軽い室内着へと着替えているし、対応するのに格好は問題ない。瞼の腫れだってもう引いているはずだ。
数えてみれば侍従長に泣き顔を見られたのはすでに三度目。最初は五歳記の執務室で、それから領道の馬車で、さらには今朝と、リリアーナとして物心ついてからの泣いている場面、全てを目撃されている。
こうも重なれば、それを恥と思うより、もう今さらかとどうでも良くなってくる。
そもそも感情の変化に引きずられやすい齢八歳の体がいけないのだ。精神の浮き沈みに弱く、涙腺が感情に反応しすぎるせいなのだから、多少泣くくらい何もおかしくはない。……ない。ないはず。
少しぬるくなったミルクを飲んで、微妙にしかめてしまう顔を隠した。
「栞の件はトマサから伺いました」
声をひそめるように少し前屈みになり、両膝の間で指を組んだ侍従長はそう切り出した。
朝は咄嗟のことで、侍女の目から隠して行動する余裕もなかった。寝起きのリリアーナが突然取り乱した原因があの栞にあったことも知られてしまっただろう。
構成を破壊し穴の空いた栞はどこへやったのか。寝室には見あたらなかったから、本と一緒にトマサが持ち出したのかもしれない。
「体調が優れないことですし、無理にとは申しませんが。少しだけお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「うん、こちらからも調査を頼みたかったから丁度良い。あの栞と本は今どこに?」
「栞は私がお預かりしております。本というのは……レオカディオ様からお預かりした『露台に咲く白百合の君』のことでしょうか? そちらは存じ上げませんが、トマサがお部屋の書架へ戻したのでは?」
確かに、トマサは開いた本を放り出しておくような性格ではない。あの後で二冊とも本棚へ片づけておいてくれたのだろう。
「そうか、ならいいんだ。……あの栞は、描かれた花のような模様に重ねて、微弱な魔法の構成が刻まれていた。精神へ作用する類のものだ。出所に心当たりはあるか?」
「いえ、私も確認の際に初めて目にするものでした。紙もイバニェス領近郊で作られているものではありませんね」
特殊な質感をした薄紅色の紙は、リリアーナも見たことのないものだった。本の表装にでも使用されそうな立派な紙だ。製紙業を行っている領か、その加工を得意としている場所を当たれば何か分かるだろうか。
遠くから取り寄せて独自に加工しているのだとしても、あまり見かけない品なら取引の記録がどこかに残っているかもしれない。……それに。
「紙の作られている場所も気になるが、おそらくあの花の模様は、手で描かれたものではないだろう?」
「ええ、裏側に圧された跡もありました、版か硬い印によるものでしょう。となると量産品かもしれません。一品物より探るのは楽になりますが、出回りすぎているとかえって絞り込みが難しくなりますね」
「そうだな……。だがあれは一度、魔法師の手を介して作られているものだ。その辺を手がかりに追えないか?」
「精神操作の術など今はあまり聞きませんし、栞の出所と併せて探れば何か出そうですね。そちらの調査はお任せください」
そう請け負うカミロは硬い表情でうなずいた。
あえて包み隠さず魔法の構成や魔法師の話を口にしてみたが、それらについて何も聞き返してこない。なぜ栞が原因だとわかったのか、構成の内容をどうやって読み取ったのか、そんなことは報告をしたトマサだって知らないはずだ。
もうカミロには、こちらが魔法を扱えるということはバレていると見て間違いないだろう。
そもそもあの馬車の中での言い訳だって苦しすぎた。他に言いようがなかったとはいえ、何でも精霊のせいにしてごまかしきれる相手ではない。
カミロには聖堂でパストディーアーがやらかした、像の発光現象も見られているのだ。今後はもう致命的なもの以外、下手に隠し立てしないでいるのが賢明だろう。そうした方が話が早いし気楽だという理由もある。
魔法を扱えるヒトは少ないと聞くが、全くいないわけでもない。だから本当に問題なのは幼いリリアーナが魔法を扱える件ではなく、一体
縁の厚い眼鏡の向こう、侍従長の表情はいつも通り硬質なもので、そこから彼の考えや感情を読み取ることは難しい。腹芸をするつもりこそないものの、どこまで知られているのか定かでない不安と、それを探りながら会話をしなくてはいけない緊張感は、あまり心地の良いものではない。
信頼しているならさっさと秘密を全て話してしまえば楽だと思いこそすれ、打ち明けてその楽さを享受するのはリリアーナだけだ。
ファラムンドに対して悩んだのと全く同じことを心中で堂々巡りしながら、とっくに中身のなくなったカップをテーブルの上へ置いた。
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