第62話  最悪すぎたから、


 今、この部屋がどれだけ危険だろうと逃げるという選択はない。むしろ狙ってくれるなら好都合だ、標的である自分がここを離れずにいたほうが相手の居場所を特定しやすい。

 これ以上他の者へ被害が出る前に、『敵』を排除する。


 未だ窓の外にいるであろう『敵』の見極めと位置の特定。

 索敵にアルトが使えない以上、何か別の手段で探らなくてはいけない。窓に近づくのも立ち上がって様子を見るのも命取りだ。

 歪んだ窓枠や焦げたカーテンを見る限り、透過するのはガラス窓など透明なものだけ。人体を切断し得る高熱、だが金属や壁までは貫通に至らない。


 ――可干渉性を備え、指向性を与えられた光線。

 対象もしくは軌道上にあるものを超高熱で融解する、明確な発点がわからなければ防ぐのかわすのも難しい厄介な代物だ。それも、放射する相手の動きを見てからどうにかするのが精一杯であって、どこから飛んでくるのかも不明な状態で相手取れる術ではない。

 口惜しいが、万全な状態とは言えない今の自分だけでは太刀打ちできるかも怪しい。

 この一帯が不毛の荒野であればいくらでも無茶をしただろう。だが、まだ自分には守りたいものが残っている。


「カミロ、今この屋敷に魔法師はいるか?」


「……使用人棟に、講師の方がいらしております」


 彼が以前言っていた、魔法の授業を受け持つという新しい教師のことだろうか。どれだけの腕前を持っているか定かではないが、領主邸で教師を受け持つからにはそれなりの力があると見よう。

 カミロにその魔法師を呼んでこさせ、一撃でいいから防護を張ってもらい、その隙に相手を叩く。

 作戦も何もあったものではない力業だが、連携が取れるほど相互の力量を知っているわけでもないのだから手段は限られる。魔法師に対してはカミロから命じてもらえば否やはないだろう。

 問題があるとすればシンプルすぎる作戦なんかではなく、もっと根本的な。


 ……頭が痛い。悪寒がする。

 あの光線の使い手が他に何人もいるとは思えない。もし本当に、襲撃者があの赤い男だった場合、今の『リリアーナ』となった自分などでは一秒も保たせられるかどうか。戦闘行為に入る前、姿を見せた瞬間に屋敷の一角ごと吹き飛ばされかねない。

 それとも素直に姿を現せば、また対話くらいは叶うだろうか。――――いや、相手はフェリバとトマサを殺したのだ。何の関係もない無辜の侍女たちを、無惨に。許せるものか、会話などに応じるものか、必ずこの手で――――


 ……頭が痛い。悪寒がする。

 何だろう、目を開いているはずなのに何を見ているのかわからない。感覚が曖昧だ。あれほど胸を激しく打ち鳴らしていた心臓の音までも遠い。


「……カミロ?」


 ソファの後ろに身を隠していたはずのカミロの姿がない。

 名前を呼んでも返事はなく、寝室の扉からさほど離れていないはずのソファもいつのまにか消えている。

 そんなはずはない、ほんのついさっきまで、部屋の中には丸いテーブルセットがあって、窓と反対の壁際にはソファが、向こう側はファラムンドがくれた人形やぬいぐるみでいっぱいのチェストが置かれていて……


 次第に思考が緩慢になり、手も指も、足も重く、どこもかしこも動かなくなってくる。

 真っ暗で、何もない、身体がない、自分がない。

 暗幕がかかる。何も見えない。


 ……頭が痛い、悪寒がする。


「リリアーナ様」


 誰か呼ばれて、返事をしようと口を開いた。

 はて、どこが口だろう、声はどうやって出すものだったか、手を伸ばしたくても四肢が残っていない。

 耳だけがはっきりとその声をとらえている。

 知っている、優しい声。温かな、いとしいヒトの声だ。


「リリアーナ様!」


 ぐらぐらと脳が揺れて、ぼやける向こうに何かが見えた。

 あえ、そうだ、目を開けば視えるのに、どうして忘れていたのだろう。

 水面のように滲んで掠れて、目の前に何があるのかよくわからない。


 粘土のような口を開いた。乾いた喉から空気が漏れ出る。


「……ぅ、あ……、」


 そうだ、口も目もちゃんとついている、顔がある、体がある。

 それを意識した途端に重力がずしりと襲ってきた。重たい。体中の何もかもが圧し潰されそうだ。

 深い深い澱の中から一気に浮上する。


 喘ぐように呼吸を繰り返し、瞬きをすると滲んでいた視界がいくらか鮮明になってきた。

 眼前すぐのところに顔がある。フェリバだ。フェリバがそこにいる。


「……ん、 ェ リバ……?」


「リリアーナ様っ! よかった、お目覚めですか、み、水っ、お水どうぞ!」


 口に水差しの先端を突っ込まれた。歯に当たって痛いと苦情を言う前に、口の中に清涼な水が流し込まれる。

 一口嚥下するごとに乾ききっていた口腔内が潤いを取り戻す。水の冷たさ、喉を通る感触、頭を支える腕の体温、それらを契機に体へ感覚が戻る。

 もっと、まだ足りないとせがもうとして、うっかり気管に水滴が入り込んだ。


「げっほ、げほげほっ、ごほっ!」


「あぁぁぁごめんなさいリリアーナ様すみませんっ!」


「何をしているのですかフェリバ!」


 涙目になり喉元を押さえて咳込んで、そこでやっと完全に目が覚めた。咽た喉が痛むけれど何とか声は出せそうだ。

 顔を上げるとサイドチェストにはちゃんとアルトが乗っている。青灰色のぬいぐるみがそわそわと、微細に体を揺らしながらこちらの様子をうかがっていた。


<リリアーナ様、大丈夫で、>


「アルト! 周辺にわたしが描いた以外の構成陣があるはずだ。精神操作系のものと推測する、狭い範囲で構わん、精細に探査しろ!」


<は、はいーっ!>


 フェリバの手から受け取った水差しで、もう一口水を含んでゆっくりと飲み込む。

 まだ息は荒いし頭痛はするし心臓はうるさく鳴っている。それでも、そうだ、やっと


 精神へ不可視の触手を伸ばされる不快感。夢の方向性をねじ曲げられる無意識下の疼痛。

 あの眠りと悪夢は自分の内から生じたものではない、外側から何らかの干渉があったはず。

 精神操作には長く耐性があったせいで、予兆や気配を察することに疎いままでいた。わかっていながら方策がないからと放置してしまった。あれだけ何度もパストディーアーが忠告してくれていたというのに!


<……そこです、その上に乗っている本!>


 アルトが両の角を傾けて真っ直ぐにヘッドボードの端を指す。そこに重ねられているのは、ふたりの兄から渡された二冊の本。


「この本の、どこです、中ですかリリアーナ様!?」


 手を伸ばしたトマサは重ねて置かれた二冊の本のうち、上にあった『或る剣士の物語』の表紙を確認してから、その下の『露台に咲く白百合の君』を引き抜いた。すぐに表紙を開いて素早く中のページを捲る。

 中程まで開いた時、その隙間からひらりと一枚の紙片が床へ落ちた。


「あ、何か落ちましたよー?」


「それにさわるなフェリバ!」


「っ!?」


 制止の叫びに侍女が身を竦めて一歩下がる。

 絨毯の上に落ちたのは、片手に乗るほどの細長い紙片。薄い紅色に染められ、織物のような質感に加工された厚紙。中央部には細かな花弁が円を描く、花のような紋様が描かれている。その絵柄へ重ねるようにして刻まれたモノ。


 それは、これまで見たことのない構成陣だった。

 精神操作の術も嗜み程度の覚えはあるデスタリオラの知識を紐解いても、近似の構成に心当たりはない。せいぜい読み取れるのは、精神面に何らかの作用をするもの、固定範囲に影響を及ぼすものである、ということくらいだ。


 背伸びをしてフェリバの髪からピンを一本抜き取る。その切っ先に『解く』構成を纏わせて、栞の中心、構成陣の要を貫いた。

 指を丸めた円ほどの小さな陣だから、破壊しても大した手応えはない。せいぜい突き刺した紙を貫通した感触くらいなものだ。

 穴の空いた栞をつまみ上げ、刻まれていた構成が完全に壊れたのを確認してから肩の力を抜き、大きく息をついた。一気に空気を絞った肺が痛む。


「……はぁ、……朝から、つかれた」


「リリアーナ様……だ、大丈夫ですか、それ、もう触って平気なんですか?」


「フェリバ……」


 近寄ってきた侍女はすぐ横にしゃがみ込み、リリアーナの顔を覗く。

 白い頬も細い首も赤く汚れてなんていない。手を伸ばし、目の前にあるつるりとした頬を撫で、癖のある茶色い髪にふれて、温かい手を握りしめた。少し荒れた指先からとくとくと脈を感じる。生きている。

 こみ上げるものをこらえきれずに、大きく膨らんだ胸元に抱きついた。


「フェリバも、トマサも生きてる……生きてるな、よかった……よかったフェリバ……っ!」


「うわぁアッワワワ? 生きてますよ、私はちゃんとしっかり元気ですよリリアーナ様。大丈夫です、大丈夫ですよー」


 ボリュームのありすぎる胸は、顔をうずめると鼻と口まで埋もれて窒息しそうだった。一度顔面を離してから額を押しつけると、クッションや枕とは全然違う柔らかさが収まりよく受け止める。

 そうして額をつけていると、フェリバの鼓動が直に伝わってくる。今度こそ夢ではない。背中に回した腕に力を込めて、温かな体をかき抱いた。


「怖い夢でも見ていたんですか? リリアーナ様、すんごくうなされてましたよ」


「怖い……、そうだな、あぁ、怖かった。フェリバとトマサの首が切れて落ちた」


「そ、そ、それは、怖いですね、めちゃくちゃ怖いですよ」


「アルトも粉々に砕けていた。もう、みんな駄目かと思った、ぞ」


 声が途中で詰まる。こらえていたものがこみ上げ、喉の奥から震えてしゃくりあげる。

 顔が熱い。眼球の奥がたまらなく熱い。目元に当たるエプロンが濡れてしまう、離れなくてはと思うのに、頭を撫でる優しい手の感触に甘えてそのまま押しつけていた。

 感情は制御できているはずだったのに、止めどなく目と鼻から水が溢れ出る。そうして抱きついて何度も「大丈夫」と繰り返すフェリバの声を聞いているうちに、少しずつ嗚咽も落ち着いてきた。喉と鼻が詰まって苦しい。

 袖で顔を拭おうとすると、柔らかいタオルが押し当てられた。


「リリアーナ様、知ってますか? 怖い夢を見た時の特効薬は、ホットミルクなんですよ」


「……ホットミルク?」


「はい。すぐに用意してきますから、ちょっとだけ待ってていただけますか?」


「ん……。フェリバも、怖い夢を見るのか?」


 腫れて重い目で見上げると、年若い侍女は柔らかな笑みに目を細めた。


「体調悪かったり、疲れてたりすると夢見が悪くなるんですよー。私の悪夢もすんごいですよ、えげつなさすぎてちょっと口では言えないですね」


「そ、そんなにか……」


 一体どれほど恐ろしい夢なのかと戦慄する。

 フェリバはもう一度小さな体を抱き締めてから立ち上がり、軽くエプロンを整えた。そしてその場で振り返って首をかしげる。


「あ、れ? トマサさんは?」


 言われて寝室を見回しても、ついさっきまでいたはずのトマサの姿は室内のどこにもなかった。ちらりとアルトを見れば、角を揺らしてドアの方を指している。

 いつの間に部屋を出ていたのか、開け放たれたままの扉へ顔を向けるのと同時にトマサが半身を現し、そこでぴたりと動きを止めた。


「リリアーナ様、侍従長がお越しです。お通してもよろしいでしょうか?」


「え、ああ。構わない」


 寝室の扉は空いていたのにノックに気づけたのはトマサだけだったようだ。そういえば昨日、朝にまた様子を見るとファラムンドが言っていたのを思い出す。また父と侍従長のふたりで見舞いに来たのかと思いきや、トマサの後ろには杖をついたカミロしかいなかった。

 入室するなり、礼も忘れた様子でその眉間にきつくしわが寄る。


「何かあったのですか、リリアーナ様」


 すぐ手前で膝をつき、白い手袋をはめた手がこちらに伸ばされる途中で躊躇ったように下ろされた。惑うように開かれていた指がきつく握りしめられるまでを眺めて、気づく。

 そういえばフェリバの胸でみっともなく号泣していたばかりだ。タオルを当てていても目元が腫れているのは自分でもわかる。未だに顔面は熱を持っているし、きっとひどい顔を見られてしまった。

 口元のタオルで今さら覆い隠しても、もう遅い。水気をいくら拭ったところで瞼の腫れは引かない。額も熱いし目も熱い。首も、喉の奥もひどく痛むし体の隅々が発熱しているようだ。


 ……ああ、そうだった。ずっと頭痛と悪寒がひどかったのに、目の前のことに気を取られてすっかり忘れていた。

 精神をいたぶられた怒りと元凶の破壊、それからフェリバたちが無事だったことに安堵して、それしか考えられなかった。この重く倦怠感が圧しかかる体でよくあんなに動けたものだと今さらながらに思う。

 感覚の通る全ての部位がひどく熱い。息が苦しくて肺が潰れそうだ。


 頭蓋を絞られるような痛み、背骨がバラバラになるほどの悪寒、それらを思い出した途端、視界がぐるりと回転した。

 体から全ての力が抜ける。


 ――落ちる。



 そう思った一瞬の間に、リリアーナの意識はぷつりと途切れた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る