第58話 おやすみの昼



「……旦那様、ちょっと雰囲気が変わられましたよね」


「雰囲気?」


 部屋に残ったフェリバとトマサを見上げると、揃ってどこか温い表情を浮かべていた。


「以前は……五歳記の前までは、お土産のぬいぐるみを私たちへ預けるだけで、リリアーナ様とお話しもして下さらなかったので。こう、すごく良かったなって、思いますよ」


「ん……今は父上や兄上とよく話せるようになって、わたしも嬉しく思う」


「レオカディオ様、やっと体調が快復されたそうですからね。また楽しくお茶でもできたらいいですねー」


「あ。あぁ、そうだな」


 思い浮かべたのは別の兄だったため、フェリバの満面の笑みにぎこちないうなずきを返す。

 そういえばアダルベルトとのやり取りはまだ誰にも話していなかった。別に隠しているわけでもなく、何となく言うタイミングがなかっただけなのだが、実は書斎で会って度々話しているなんて今さら打ち明けにくい。

 まぁ食事の席では顔を合わせているし、廊下ですれ違うこともあるのだ。書斎で会話をしているくらい不自然ではないだろう。


 短時間でも読書を許されたから、今日は書斎から借りてきた長兄お気に入りの物語を読んでみようか。読了まで数日はかかりそうな厚みだが、目次を見ると五章仕立てになっていた。今日のところは切りの良いところまで読み進めればいい。

 本の感想を誰かに宛ててしたためるなど初めてのことだから、若干緊張する。最後まできちんと読み込んで、気合いを入れて兄への手紙を書かなくては。返信では兄の感想も聞かせてもらえるのだろうか、そちらも楽しみだ。



「さて、ではリリアーナ様のお休みの日ということで、まずはこちらへ朝食の支度ですね」


「量は減らしてくれるなよ?」


「はーい。ただ食後はお茶をやめて、温かいミルクにしてもらいましょう、甘いシロップも落として」


 それは喉にも良さそうだ。

 病人なりかけだからといって、食事の量を減らされたり粥になったりしてはたまらない。アマダの料理を食べられないなんて、その方がよっぽど快復が遅れてしまう。

 ひとまずその心配は無用のようで、支度を待つ間に休んでおこうと体を横たえ、再びふかふかの枕へ頭を沈める。眠気がないのに寝るなんて不思議な心地だ。

 フェリバたちは天蓋のカーテンやずれた毛布を直すと、礼をして寝室を出ていった。


 お休みの日。何も考えないというのは逆に難しいような気もするが、この機に試行してみるのも悪くない。

 頭の中を無に、何も考えず、思い浮かべない。……本当にそんなことができるのだろうか。

 そこでカミロのアドバイスが蘇る。


「水面、だったな。あとで水を張った盆か皿でも用意してもらおうか」


<あの眼鏡野郎め、また格好つけて、なーにが先達としては水面を眺めるなどお勧めですだ気障ったら、>


 文句を垂れるアルトを指で弾くと、丸々したぬいぐるみは横倒しの状態でシーツの上をころころ転がって、そのままベッドの端から落ちていった。






 久しぶりに部屋で用意された朝食をとり、ホットミルクを飲みながら一息ついていると、すぐに街の医師がやってきた。

 連絡を出した時間からの往復を考えればかなり早い到着だ。聞けば馬車ではなく、自身の所持する馬を駆って屋敷まで来ているらしい。運動不足解消にも役立つと、老齢の医師は朗らかに笑って見せた。


 診察の結果は、「軽い風邪と疲労だろう」と予想した通りのものだった。じめじめとした気候の影響もありそうだが、しっかり栄養を取ってしばらく休めばすぐに良くなるとの言葉に、緊張気味だった侍女たちの顔も綻ぶ。

 その「しばらく」という言葉が気がかりではあるものの、きちんと医師に診断をしてもらえたのはリリアーナとしても助かった。どうやら重篤な病の前兆というわけではなさそうだ。


「お部屋をもうちょっと温かくした方がいいですかね?」


「室温を上げると湿度も上がるのでは? それよりもう少し厚手の寝間着をお召しになって頂くか、毛織物のストールを出してきましょう」


「あ、そのストール、クローゼットの一番下の段に入れておきましたよ。淡い色の二層になったやつですよね」


「ではフェリバはそちらをお出しして、私は冬用の寝間着を探してきます」


「はーい!」


 医師が退室した後、てきぱきと相談や支度を進める侍女たちをベッドから見送った。食べる寝る以外リリアーナにやれることもないため、へッドボードにクッションと枕をあてた楽な姿勢で本を手に取る。


 最近の勇者関連の本ということだが、タイトルや冒頭を見る限り、主に語られている対象は勇者本人ではないようだ。長年に渡り読まれてきたせいか、背表紙ともに掠れているその本の題名は『或る剣士の物語』という。

 これまで読んだ勇者の本は全て歴代勇者たちの華々しい活躍や、困難に打ち勝ち、長い旅の果てに凶悪な魔王を討つ、という流れを描いたものばかりだったため、意外にも思うし目新しい。

 自伝なのか、想像を交えた物語なのかはまだわからないが、二代前の勇者と共に旅をしたひとりの剣士の人生を綴ったものらしい。


 立てたクッションへもたれた姿勢で、足の上に本の重みを預けて表紙を開く。

 そう古い本ではないため、表紙と本文を繋ぐ色紙もまだ鮮やかだ。だが、用いられている紙や表装は他の本と比べればやや品質に劣る。主題からして、あまり金をかけずに発行されたものなのかもしれない。

 さてどんな物語が詰まっているのかと、しとしと降り続ける雨音を供にして最初の頁をめくった。






 軽いノックの音に顔を上げる。

 すっかり読書へ没頭していたようだ、一度昼食のための休憩を挟んでからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 毛布の上にはいつの間にか肩を覆うストールの色違いがかけられていた。あまり覚えがないが、そういえばフェリバがやってきて二、三言、何か言葉を交わしたような気がする。

 そんなことを思い返していたため遅れた返事をすると、扉の向こうからはファラムンドとカミロとトマサという、朝と全く同じ面子がぞろぞろ入ってきた。

 

「リリアーナ、お父さんだよー。体調はどうだい?」


「うん、朝よりは喉も楽になった。明日には快復していると思う、父上にまで心配をかけてすまなかった」


「なに、娘を想うのは親の仕事さ。明日の朝も様子を見るから、元気になったからといって無茶はいけないよ?」


「わかった」


 素直な返事を返すと、ファラムンドの大きな手が頭を撫でてくる。慈しみのこもった優しい感触。未だに慣れないが、悪くはない。

 そこでふと、藍色の視線が手元の本へ落とされているのに気づく。


「その本、アダルベルトが特に気に入っていたやつだな」


「父上も読んだことはあるか?」


「ああ、もちろん。ちょっと風変わりな内容だが面白かったよ。アダルベルトはそういう冒険の物語が大好きでね、小さい頃なんかペーパーナイフを片手に名乗り上げのシーンとか部屋でこっそり練習していたんだよふふふふふふふ可愛いだろう?」


 でろっと表情を緩める父は、過日の幼いアダルベルトの姿でも思い返しているのだろう。

 こっそり練習と言うからには、どこかに隠れてその様子を見ていたに違いない。あの実直そうな兄は気づきもしなかっただろうし、聞いたことは自分の胸に秘めておこう。


「起きていると肩を冷やすだろう。あまり読書に没頭しすぎないようにね」


「わ、わかった、気をつける」


 朝も同じことを注意されたばかりなため、何となくカミロの方を見てしまう。

 まだ読みふけるというほど時間は経っていないはずだが、そろそろ休憩を挟んでおこう。言いつけを守らずにいて、本や書斎の鍵を取り上げられては敵わない。

 そんなリリアーナの警戒心を見通したのか、カミロは無表情の中に苦笑じみたものを滲ませながら、杖をつくのとは反対の手で一冊の本を差し出した。


「リリアーナ様、こちらはレオカディオ様からの差し入れです」


「差し入れ?」


 受け取った本の表紙には、礼服を纏った男女が向かい合うシルエットと大きな花の絵が刷られていた。

 タイトルは『露台に咲く白百合の君』。

 作者の名は初めて見るものだし、これまで書斎で手に取った読物語の類とはいささか趣が異なるようだ。厚みはあまりなく、刷ってまだ間もない新品の本に見える。


「そういった俗なものは、まだリリアーナ様のお目に入れるべきではないとも思うのですが。一通り読んでみたところ内容に問題はなさそうでしたので、レオカディオ様なりのお気遣いも含まれるかと判断いたしました」


「はぁ……」


 あまり意図を汲めずに生返事を返す。ファラムンドがなぜかとてつもなく苦い顔をしていた。

 俗な内容というのも気になるが、レオカディオからの気遣いとは一体何を指すのだろうか。読んでみないことにはわからないし、とりあえず本を与えてもらえるなら何でも嬉しい。今読みかけのものが終わったら手をつけてみよう。


「リリアーナには、まだ早い!」


「旦那様も中身は確認されたでしょう」


「愛だの恋だの、はれんちだ!」


「ではレオカディオ様へ本を突き返しますか? ご自身でどうぞ」


「ぐぐぐぐぐ……」


 ベッドに顔を伏して歯ぎしりする父の頭がすぐそばにある。事情は未だ把握できないが、とりあえずそっと撫でておく。ぴたりと歯ぎしりが止まった。

 やはり家族に頭を撫でられるのは心地が良いものなのだろう。こしのある黒髪は自分の細い毛とは手触りが異なる。少しだけ香る木のような匂いは整髪剤だろうか、嗅いだことがない種のものだ。


「父上は不思議な匂いがするな」


「エッ、……く、くさい?」


「いや、くさくはない。そういえば柑橘の香水もたまに使っていると聞いた、興味あるから今度それをつけてきてくれないか?」


「もちろんだともー!」


 叫びを上げ、急に起きあがったファラムンドにきつく抱き締められる。

 胸元へ顔を押しつけられると、吸い込む空気と共に、体臭に混じった香水の匂いが鼻腔を満たす。体温に揮発する匂いは髪を撫でていた時の間接的なものとは段違いだ。

 ……さすがにこれは、濃い。くさいとまでは言わないが、男の匂いだという忌避感じみたものが突如湧いてきて、両手で広い胸を押し返した。


「旦那様、そういうのは一番娘に嫌われる父親の行動ですよ」


「貴様に何がわかるー!」


 ファラムンドが勢いよく振り返った先で、侍従長は涼しい顔をしながら眼鏡のブリッジを押さえる。


「私は抱き上げても抱きつかれても、押し返されたことなどありませんから」


「ムッキー! この野郎ちょっとリリアーナと接する機会が多いからって調子に乗るなよこの野郎ぜったい父親の俺の方が愛されてるんだからなこの野郎!」


<ウッキー! やっちまってください父君ー!>


「おう! …………ん?」


 背に敷いていたクッションを引き抜いてぬいぐるみを圧し潰した。


<ぺぎッ>


 ひとつ咳払いなどしながら、乱れた毛布と枕の位置を直す。すぐにトマサがそばに来て、肩から落ちたストールをかけてくれた。二冊の本は横にどけていたからベッドの下に落ちたりしないで何よりだ。


「旦那様、侍従長、ここはリリアーナ様の寝室ですよ。騒がれるのでしたら今すぐご退室願います」


「あ、うん……すまなかった」


「失礼いたしました、リリアーナ様」


 ぴしゃりとしたトマサの叱咤を受けて、大の男ふたりは揃って頭を下げる。

 もう一方にも深く反省を促すため、クッションの上に『或る剣士の物語』と『露台に咲く白百合の君』を重ね、どさりと乗せておいた。


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