第57話 おやすみの朝


 目を開けると見慣れた天蓋があった。自室にあるベッドを覆う白い枠組みとレースのカーテン。いつも見ているはずなのに、視界に映るそれと自分の中身が上手くかみ合わない。

 何か、とても懐かしい夢を見ていた気がする。

 頭の奥底にたゆたう寂寥の名残り。

 リリアーナとして生まれる以前のことは夢に出てこないから、懐かしいと言ってもこの八年間の出来事のうちいずれかだろう。誰かと話したり、どこかへ行ったりしていたような。ほんのついさっきまでのやり取りが、もう霞のように消えてしまって掴めない。

 どう頑張っても、寝起きに夢の記憶を留めておくことはできないようだ。


「ん、……んー?」


 空気を吸い込むと喉の奥が少し痛む。サイドチェストへ手を延ばし、銀盆に用意された水差しから一口、水を含んで調子をみる。

 以前にも似たようなことがあった。たしか領道で久しぶりに大がかりな魔法を行使して、体が持たずに寝込んでしまった後のことだ。

 聞けば二日も寝たきりでいたそうだから、喉が渇くのも当然だろう。だが今はあの時ほどの変調は感じないし、気管の違和感も軽微なもの。


<リリアーナ様、お加減はいかがですか?>


「体調はそこそこ良好だと思うが、少しだるくて喉が渇くな。すっきりとした果実水が飲みたい」


 枕元に置いているアルトが角を揺らしながらにじり寄ってきた。まだ枕を乗り越えることはできないらしく、枕の縁に沿ってシーツの上をもぞもぞと動いている。

 当初は宝玉を持ち歩くための方便としてぬいぐるみを選んだため、自立行動が可能な形状という考えはなかった。そろそろフェリバに頼んで脚をつけてもらった方が良いのだろうか。


<昨晩は体調を崩されて、夕飯のあと早めにおやすみになられたのです。覚えておいででしょうか?>


「ん……そうだったか? まだ少し頭がぼんやりとしている、本当に風邪をひいたのかもな」


 自分の額をさわってみても、手のひらが温もっているためよくわからない。代わりに手の甲で首元へ触れると、普段より少しだけ熱いような気もする。寝起きのだるさなのか、体調不良によるものなのか判別が難しい。


<あ、フェリバ殿とトマサ殿がいらっしゃるようです>


「そうか、ふたりに具合を見てもらった方が早いな」


 アルトをつまみ上げて位置を直すと同時に、小さな叩扉の音が響いた。朝のノックはこれから扉を開けるという合図のみで、返答を求めるものではない。ベッドで上体を起こしたまま待っていると、フェリバとトマサが足音を忍ばせながら寝室へ入ってきた。


「あ、リリアーナ様、おはようございます! もう起きてらしたんですね」


「おはようございます、リリアーナ様。どこかお辛いところはありませんか?」


「うん、おはようふたりとも。少し喉が痛むから冷たい飲み物がほしい。あとは、……そうだな、お腹が空いた」


 フェリバが額や首元をさわって体温を確認する間、トマサがそっと部屋を出ていった。ひとまず起きる分には問題ないことを伝えて、洗面などいつも通りの朝の支度を手伝ってもらう。

 だが着替えに向かおうとしたところでフェリバに体を反転され、再びベッドへ戻された。


「着替え……」


「だーめーでーす。今トマサさんが侍従長へご報告してると思いますが、お医者さんが来るのはたぶん昼前くらいになっちゃうので、それまではベッドで安静にしていてください」


「安静ならソファでも……」


「だーめーでーす。一晩寝ても治らないならこれはもうご病気確定です、リリアーナ様は授業とか読書とか毎日忙しくしすぎなんですよ。こんな時くらいもうちょっと休んでください」


 足を肩幅に広げてベッド脇に陣取ったフェリバは、もうてこでも動きそうにない。口を結んで凸曲線にしている顔を見上げながら、降参しておとなしく枕へ頭を沈める。

 それから間もなく戻ったトマサに続き、侍従長となぜかファラムンドまでもがリリアーナの寝室へ入ってきた。


「カミロはともかく、なんで父上まで?」


「ほァァッ! リ、リリアーナ、この場ではこいつの方が不要じゃないかな、お父さんが来るのは当たり前じゃないかな?」


 ベッドサイドへ崩れ落ちるファラムンドの向こうで、トマサが持ち込んだポットからグラスへ薄く色づいた水を注ぎ入れた。


「リリアーナ様、柑橘を軽く絞ってあります。冷えておりますのでゆっくりお飲みください」


「あぁ、ありがとう」


 起き上がって受け取ったグラスは冷たく、火照った手に心地よい。魔法で冷やされた水なのだろう、すぐにガラスの表面が結露に曇った。一口含むと、口腔内の熱と渇きがすっと癒される。

 熱っぽい息を吐きながらそれを堪能していると、カミロが一歩分だけベッドへ近づいた。


「微熱と空腹感があると、おうかがいしております。他に痛いところやお辛いところはございませんか?」


「ん。喉が少し熱を持っていて痛むくらいかな。微熱はあっても、体のだるさはさほどでもない、動くのに支障はない程度だ」


 水を飲みつつそう答えると、カミロは眼鏡の中央を押さえながら軽くうなずく。視界の下の方で「喉! 微熱! だるい! 大変!」と唸っているファラムンドはきっと心配のため混乱しているのだろう、しばらくそっとしておこう。


「朝食はこちらで召し上がって頂き、その後にでもお医者様に診てもらいましょう。先ほど街へ連絡しましたのですぐにいらっしゃるかと」


「あの距離をわざわざ来てもらうほどではないのだが」


「ちょうどレオカディオ様も、病み上がりの確認に診察を受けて頂く必要がありますから」


「む、……そういうことなら」


 この男には、こう言えば反論を封じ込められる、というすべを見抜かれている気がする。あまり余人へ手間をかけたくはないが、体調が万全ではないのは確かだから、ここはおとなしく指示に従っておくべきだろう。

 飲み終わったグラスをトマサへ返すと、その手をファラムンドの大きな手で捕らえるように握られた。


「リリアーナ、本当に辛いのはそれだけかい? 薬でも何でも用意しよう、おお可哀想に、我慢することはないんだよ、欲しい物やしてほしいことがあったら何でも言っておくれ」


「……しいて言うなら、父上」


「な、何だい!」


「あまり大仰にされると、今後、体調不良の自己申告をしたくなくなる」


 呼吸を止めたファラムンドは、目を見開いたまま体の動きも全て停止させた。握られていた手を抜き、自分の倍はありそうな父の手をベッドの上へ下ろす。

 利き手の指の付け根、手の平の皮が厚くなっているのは日頃から欠かさず剣を握っている証左だろう。衣服の上からでもわかる隆起に留まらず、手首にもしっかりと筋肉がついている。意識して鍛錬を続けなければこうはならない。

 執務室へこもって政務に励んでいるイメージばかり強かった父だが、その印象を改める。これは、戦いを知る者の手だ。


「医師の診察は受けるし、ちゃんと指示には従う。だから、喉の軽い痛みと微熱くらいで、他は何ともないというわたしの言葉も信じてほしい」


「し、信じてるとも、リリアーナ……」


「うん。わたしも父上を信じている。心配してくれていることもわかっているつもりだ。だが、過剰なのは、……その、困る」


 父を叱るつもりなんて全くないため、視線をうろつかせ、言葉を探して、結局そんな言い方しかできなかった。

 だが伝えようとするもの、娘の意図はきちんと通じたのだろう。山の稜線のように眉を垂らしたファラムンドはこちらの顔をのぞき込み、淡く微笑んだ。


「リリアーナが元気なら、それでいいんだ。だがどんな病の前兆かもわからない、自己診断だけでは危ないということも賢いお前なら理解できるだろう? お医者様の診察を受けたら、今日は一日ゆっくり休んでおくれ」


「休む……ベッドで?」


「そうだね、今日は授業も書斎での自習も、散歩も全てお休みだ。たまには何もしない日があってもいいだろう?」


 柔らかく笑む父の顔を間近で見返す。

 何もしない日。

 体の自由がなかった赤子の頃を除いて、果たしてこれまでそんな日があっただろうか。

 やりたいことや学びたいこと、試したいことが尽きず、それに比べて時間は有限なため毎日何かしら励んできた。それを、全て休めと言われている。


「……何もしない日は、何をしたらいいんだ?」


「っ」


 くぐもったおかしな声音はファラムンドの向こう、侍従長から聞こえた。

 そちらを見上げるより先に、ファラムンドがまなじりをつり上げてじとりと横目に睨みつける。やや俯いた侍従長は頭痛でもこらえるように片手で額を押さえているが、どこか具合でも悪いのだろうか。


「……失礼いたしました。大変、覚えのある台詞だったもので」


「ダメだぞ、リリアーナ、こんなダメな大人になっちゃダメだからな?」


 『何もしない日』というものを持て余すのは、どうやら自分だけではなかったらしいと理解する。

 毎日忙しそうにしているカミロも、忙しいのが当たり前すぎて何もしないということが想像できない、もしくは実践ができなかったのだろう。何となく生前の自分も含めて、同類意識が芽生える。


 珍しく肩を落とした様子のカミロと視線が合う。この男の方こそ、きちんと休息を取っているのだろうか。

 フェリバたち侍女は交代で休日を設けているのは知っているが、侍従長が休みを取って屋敷を留守にしているなどこれまで聞いたことがない。領主であるファラムンドも同様に。

 ヒトの体でそこまで無理を続ければ、それは蓄積を続けていずれどこかが故障する。不均衡に積み重なったものは、ひとつ折れればたちまちのうちに全体が崩れるだろう。

 ふたりとも一見すると健康そうなだけに、疲労や疾患を抱えても本人が押し隠せば外側からはすぐに見抜けなそうなのが厄介だ。

 本当に休みを取っていない様なら、そのうちダメな大人たちの方こそ指摘してやらねばならない。


 すぐに気を取り直したらしいカミロは、眼鏡の位置と一緒に姿勢を正した。

 その様子を見上げながらひとつ確認を取る。


「せめて、読書だけでも許してもらえるだろうか」


「目の疲れと頭痛の元ともなり得ますから、あまり長時間の読書はお控えください。その点を十分に留意頂けるのでしたら、多少は構いませんよ」


「わかった、約束する」


「日頃から授業や自習などお忙しくされて、常に何か考えておいででしょう。たまには思考を空っぽにして、頭を休ませることも大事ですよ。……先達としましては、水面を眺めるなどお勧めです」


「水面?」


 首をかしげた瞬間、下側から視界いっぱいにファラムンドの顔が割って入った。さすがに驚いてベッドの上を少し後ずさる。


「また午後に様子を見に来るからね、それ以外でも心細くなったらいつでも呼んでおくれ、お父さん窓からすっ飛んで来るから」


「気持ちだけ貰っておく。父上とカミロも仕事にかまけて無理をし過ぎないでくれ」


「あぁ、何て優しい子なんだ、リリアーナ……!」


 そろそろ戻りますよという侍従長に襟首を掴まれながら、父は「何か食べたいものがあれば」「枕元にもっとぬいぐるみを」「お父さんが添い寝を」など様々に喚きながら部屋を出ていった。パタンと扉が閉まった途端に部屋が静かになる。


 あそこまで篤く心配をしてもらえると、さすがに照れる。胸の奥がこそばゆいような、何とも言えない心地がする。

 早いところ体を快復させて、これ以上忙しい大人たちに余計な心労をかけないようにしなければ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る