第54話 令嬢としての振る舞い


 アダルベルトが書斎へ返却してくれた勇者関連の本を開いてしばらくすると、トマサが迎えにやってきた。兄からの手紙にひとしきり騒いだ後であり、迎えは早めにと頼んだこともあってほとんど読書をする時間もない。数頁も進まないうちに中断することになった本へ、お気に入りの栞を挟んで閉じる。

 だが長兄の心遣いのお陰で心は晴れやかだ。これから向かう苦手な礼儀作法の授業も、この元気があれば何とか頑張れる。……かもしれない。


 今にして思えば、歌の授業などまるで温かった。ぬるぬるだった。音程の狂いが何だ。リズム感が何だ。

 そもそも歌唱は技能のひとつ。人生には特に必須ではないため、教師もリリアーナもそこまで深刻に取り組んではいなかったかもしれない。教師に対しなぜ歌を学ばなければならないのか問うた時も、「令嬢として歌が上手いとステータスになる」というふんわりした回答が返ってきた。真剣味が足りないというより、教師自身もリリアーナがあまり歌に乗り気でないことは承知の上だったのだろう。

 ――とある切っ掛けで歌唱下手の件はすでにクリアしており、気質のゆるい同教師は今ではレース編みの授業を受け持っている。


 新たな問題として、今リリアーナの前に立ち塞がっているのは、段階の上がった礼儀作法の授業だ。

 礼節に関する授業というと、以前はテーブルマナーや挨拶など、貴公位の子女として生きるための基本的な作法を教わっていた。そちらは本当に基本的な、マナーとして当然のことばかりで大して困ることはなかった。決められた物事を守り、正しい作法というものさえ覚えれば、生前の知識があるリリアーナならば食事も挨拶も難なくこなすことができる。

 それが最近になると『令嬢』としてふさわしい振る舞いを求められるようになり、教師もふくよかな女性から気難しい老齢の婦人へと入れ替わった。何でもイバニェス家の分家筋にあたる女性だとかで、身分もかなり高いらしい。初日の挨拶に立ち会って紹介をしてくれたカミロすらも、全身に緊張感を伴っていたのをよく覚えている。


 令嬢にふさわしい立ち振る舞い。……ここに来て足を引っ張るのは、生前の体、デスタリオラの性別だ。魔王に生殖機能はないため特に男であると強く意識したこともなかったが、改めて「女性らしく振る舞え」と言われると、不慣れ以上に何かと困ることが発生する。

 まず第一に、口調に関してはことさら厳しく注意を受けた。父親であるファラムンドに許しを得ているからといって、今のままの口調ではイバニェス家の令嬢として失格だそうだ。せめて使用人以外へは令嬢らしい可憐な話し方をするようにとのこと。

 次に、仕草や挙動について。これまでは余程おかしな動きをしなければ問題ないとばかり思っていたのに、この教師から見ると何もかもが令嬢失格だと言う。

 歩く際の足の運び、座った時の角度、会話の最中の視線、優雅さに欠ける手つき、ぎこちない微笑み方などなどなどなど。今まで褒めてもらえた点が見事にひとつもない。

 怒られる、叱られるといった経験があまりないため貴重な機会ではあるが、それらは決して嬉しいものではない。叱咤の非が自分にあるならなおさらだ。



「ごきげんよ う」


「発音がおかしいでしょう、ふざけている場合ではありませんよ、語尾はもっと嫣然と、はにかむような笑みで、歯は見せない」


「ごきげんよう」


「笑顔が固い、声に悠然としたたおやかさがこもっていない、何度も申し上げておりますでしょう、鏡を見なさい、それが笑顔と言えますか、もう一度」


「ご きげんよう」


「言葉は曲線を意識するように、全て流れるように、華麗に、まろやかな波が肝心です、女性らしいなめらかさに欠いていて全くお話になりません、さぁもう一度」


「ごきげんよう」



 ……ちょっと泣きたい。




       ◇◆◇




「リリアーナ様、大丈夫ですか? 起きられますか?」


「む……?」


 やけに重たい瞼を開けると、すぐそばにフェリバの顔があった。見慣れた眼差しと柔らかな声に安堵して、再び意識がずるりと落下していきそうになるのを何とか踏み留まる。

 頭が重い。

 瞼を軽くこすって視界を晴らしても、まだ目の奥がぼんやりしている。


「どうしたのでしょう、わたくし、眠っておりましたか?」


「リ、リリアーナ様、お気を確かにーっ!」


「……ハッ! あぁ、目が覚めた、大丈夫だ。ちょっと休憩するだけのつもりが、すっかり寝入っていたようだな」


 頭を持ち上げるてみると自室のカウチソファの上で、体には厚いブランケットが掛けられていた。ほかほかと温かい。ちょっとしたうたた寝というより、しっかり昼寝をした体感がある。ソファで丸くなっているのを見つけて、しばらく寝たままにしてくれていたらしい。


「何だか、お腹が空いた……」


「おやつの準備はすぐできますよ。でもあとちょっとしたらお夕飯ですけど、大丈夫そうですか?」


「ん、両方食べる……」


 やたらと眠くて腹が減る。何だか幼児の頃へ逆行してしまったかのようだ。寝て食べて寝るだけだったあの頃は楽だった。だがその代わり、本を読んだり中庭を散策したり、他者と色んな話をする楽しみがなかった。

 成長をして得た大切なものは多い。どんなに気楽でも、不自由なあの頃へ戻りたいとは思わない。


 そのままソファの手摺りにもたれて寝起きの頭でぼうっとしていると、すぐに香茶の良い香りが漂ってきた。

 暖かなブランケットを背もたれへ掛けて立ち上がる。すると、少しだけ立ちくらみの気配がした。瞼を閉じて、目の奥の鈍痛が落ち着いてから開く。これまであまり感じたことのない種類の疲労感と空腹と睡魔。もしかしたら、どこか体調でも悪くしているのだろうか?


「リリアーナ様、どうかされました?」


「ん、何だろうな、少しふらつくんだ。寝起きのせいか……?」


「お、ぁ、あわわわ……!」


 ポットを手にしたまま動揺するフェリバの横から、トマサが一瞬で距離を詰めてそばへしゃがみ込んだ。体温の低い手が額に当てられ、ひんやりとして心地よい。全身のだるさがその手に吸い取られていくようで、うっとりと目を閉じた。


「微熱があるようです」


「リリアーナ様が、お熱ー!?」


「食欲はございますね、お飲物は冷たいものの方がよろしいでしょうか?」


「うむ、とても空腹だ……お茶は温かいものでいい。頭が少しくらくらするだけで動くのには大して支障はないし、とりあえずおやつを食べて、もう少し休む」


「左様ですね。食欲がおありなら、できるだけ食べて頂いた方がよろしいかと」


 決して好物を取り上げられるのが惜しいとか、アマダの料理を減らされてはかなわないとかいった意地汚さから来るものではなく、本当に空腹なのだ。朝食の後にも物足りなさを感じたりと、一体この腹はどうしてしまったのだろう。

 それから全身へ薄くのしかかるような倦怠感。少しいつもより体温が高いようだから、それが下がれば回復するのだろうか。丈夫な体だと自負するくらい今まで健康に問題が発生したことはなかったのに、体調不良なんて珍しい。


<リリアーナ様、大丈夫ですか、お辛くはないですか?>


 心配そうに声をかけてくるアルトを撫でようとポケットの辺りを探るが、ぬいぐるみの気配がない。ソファを振り返ってみると手摺りの角にちょこんと乗っていた。寝ている間に下敷きにならないよう、フェリバが移してくれたのだろう。


「レオカディオのように風邪でもひいたかな?」


<季節の変わり目ですし、どうぞお大事になさってください>


「季節の変わり目ですし、どうぞお大事になさってください」


「……っふふ」


 アルトとトマサから全く同じ言葉が返ってきて、思わず噴き出してしまった。

 ぬいぐるみをワンピースのポケットへ突っ込み、目を丸くしているトマサを促して準備の済んだテーブルへ向かう。温かい香茶を飲んでおいしい菓子を食べれば、きっといくらかは回復に近づくだろう。

 朝にファラムンドからも体に気をつけるよう言われたばかりだ。自分を大事にしてくれる周囲の皆をあまり心配させたくはないし、早めに治さなければ。こんな空腹など、アマダの料理がいくらでも満たしてくれる。以前と同じように。


 ちらりと頭を掠めた既視感の正体を掴みそこねる。そうして目の前のお菓子に気を取られたリリアーナは、普段であれば気にするような違和感をすっかり忘れ去ってしまった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る