第36話 崩落②
別邸を発ち、道ゆく人々が慌てて左右へ避ける通りを駆け抜け、キンケードが手綱を取る馬は到着した時とは別の門から街を出た。
ナポルの報告では西の領道と言っていたから、今抜けたのは街の西門なのだろう。リリアーナは聞き知っている範囲でイバニェス領とその近隣の配置を思い起こす。
聖王国の南東端に位置するイバニェス領は、西にサーレンバー領、北西をクーストネン領と接している。それぞれの領の中央街を結ぶ形で『領道』と呼ばれる主要道路が整備されており、旅の行き来や交易などはそこを通ることになっているらしい。地理上ではコンティエラの街から北にクーストネン行き、西にサーレンバー行きの領道が通っているはず。相互に領兵や自警団などが警邏に当たっていると聞くから、わざわざ警備の手厚い道を狙って強盗を働く馬鹿もそういないだろう。安全で整ったなだらかな道。イバニェス領のような辺境にとっては物流を支える要だ。ファラムンドが政策の内で道を重要視するのもうなずける。
街を出た直後までは比較的平坦な道が続き、これが領道なのかと風を避けるため薄目を開けて観察していた。
……だが、今リリアーナたちを乗せた馬がひた走っているのは、どう見ても馬車が通行できる道ではない。むしろ、道がない。
「こんな岩場を駆けるのか、馬は大丈夫なんだろうな?」
「うちのじゃじゃ馬はこの程度なんともねぇよ! それよか迂闊にしゃべるな、舌噛むぞ!」
頭のすぐ上でキンケードが叫ぶ。指摘されずとも、必要がなければ口を開きたいとは思えないほど激しい揺れが続く。
辺りは赤茶けた岩ばかりで道らしい道はなく、馬は人足で踏み固められていると思しき線を追うように駆けていた。時折行く手を塞ぐような大岩と遭遇しても、迂回することなくそのまま跳び越える。その都度キンケードが頭を押さえて衝撃を和らげてくれるが、それがなければ頚椎をやられそうだ。
「あっちは馬車だから大回りの領道を通ってったんだ。境坂までならココを突っ切って行けば二十分もかからねぇ! もうすぐだ!」
ひとり生きて戻ったトジョもこの岩場を通ったはずだと、そう苦い声を漏らしながらキンケードはたまらず歯ぎしりをした。
崖崩れも山の崩落も、乾いた岩山の多いこの辺りでは決して珍しいことではない。崩れた岩や倒木で道が通行困難になるくらいのことはよくあるため、その度に自警団から人手が駆り出されて事後処理に当たっている。
よく崩れるからこそ、長い年月をかけて領内の道は整備されてきたのだ。だから近年ではよほど無茶な道を選ばない限り、人が犠牲になるような事故などそう滅多に起きたりはしない。
……だというのに、よりにもよって、領主たちを乗せた馬車が
五年前のサーレンバー領での悲劇はキンケードだって知っている。まさか、それと同じことがこちらにまで降りかかるとは。こうして駆けている今この瞬間だって質の悪い嘘としか思えない。
道の整備に力を入れるファラムンドにより、特に領道は以前よりも安全面が強化され、そう簡単には崩れたりしないよう随所に楔も打ってあった。道幅自体を広げて安全策を取った場所もある。それなのに、護衛ごと巻き込まれて下敷きになるほどの崩落が領道で、それもファラムンドたちが通るタイミングで偶発的に起きるとは到底――……
「……クッソ!」
余計なことを考えそうになる頭を振って疑念を払い、馬を鼓舞するべく手綱を鳴らす。まずは現場に辿り着いてから。何を考えて、何をするかは、それからだ。
「すまねぇけどな、嬢ちゃん、……くれぐれも期待はするなよ」
「期待?」
何を思い、何のためにキンケードについて来た……いや、本人曰く『キンケードが連れて行く』ことになったのかは分からない。父親の安否を気にしてか、もしかしたら生きているかもしれないという可能性にすがりついているのか。何も確かめないうちから、父を案ずる娘に対し「諦めろ」なんて残酷なことを言えるほど、キンケードも落ちぶれてはいない。
だがそれでも、崩落に巻き込まれ、その下敷きになったと現場に居合わせたトジョがはっきり報告をしている以上、生存している確率はゼロに等しい。それくらい山や岩場で起きる崩落はどうにもならないのだ。起きてからどうこうできる種類のものではない。
――天災だ。
予兆はほとんどなく、それは唐突に起きる。崩れてなだれ込む岩や樹木に耐えられる馬車などありはしない。運良く大きな石などの陰に入り込んで命拾いしたとしても、土砂に埋まっては掘り返される前に窒息死を免れない。崩落の衝撃で起きる地割れに巻き込まれることもあるだろう。……そんなもの、遭遇してから一体どうしろというのか。自分たち人間には、ただ運が悪かったと天を仰いで嘆くことしかできない。
「期待も何もない。父とカミロの死体はこの目で直に確かめる、それだけだ」
「それだけって、嬢ちゃん……」
「命が、ないと。心臓がもう動いていないと、自身で確かめたら、我はそれで気が済むと言っている。後は好きにすれば良い、お前たちの邪魔はしないと約束しよう」
生きているなんて期待はしていない、その死を確かめたいだけだと、腹に括り付けた幼い少女は言う。一体どんな覚悟があればそんなことを平然と言えるのか。……否、ついさっきまで顔を真っ白にして震えていたのを自分は知っている。平気なわけがない、父親の死の報せを受けたばかりで、その心が何ともないわけがないだろう。
今だって馬のたてがみを握り締める手は真っ白だ。震えるその小さな手を握って温めてやりたい思いをこらえ、手綱へきつく爪を立てた。
ただ真摯に現実を受け止めたいのだと、真っ直ぐ前を見ながら言ってのける娘の言葉と有り様に、キンケードは言葉をなくす。口調だけでなく内面まで剛胆なものだと、今日の短い触れ合いで思ってはいたが、この少女は自分などが想像するよりも遙かにとんでもない子どもなのではないか。あのファラムンドの愛娘だと思えば納得できなくもないが、この先どんな人間に成長をするのか末恐ろしくもある。苦いものを飲み込み、代わりに息をついて自分を落ち着かせる。
「……一体誰に似たんだかな」
「何だ、父上には似ていないか? ……そうか、まぁそうだろうな」
馬の駆ける蹄の音にかき消されそうな声音で消沈するリリアーナに、うかつな言葉を漏らしたキンケードは慌てた。父の生死に直面している最中だというのに何てことを言ってしまったのか。動揺しながらも大急ぎで取り繕う言葉を探す。
「いや、あの、似てるとこもあるぜ、えっと、あー……、人の言うこと聞かねーとことかな!」
「そうか、それなら良かった」
「え、嬉しいかこれ?」
キンケードは自分がひねり出した言葉に自分で首をかしげる。
リリアーナの中で、父ファラムンドへ対する評価は異常に高い。その思想にも職務への姿勢にも、深く尊敬の念を抱いている。
だが、その娘でありながら自分は魔王の眼と精神を引き継いで生まれてしまったため、父親と似ていないと評されるのも無理はないと思っている。髪や目の色だって異なるし、似ている部分など全くないかもしれない。だからこそ、敬意を向けている相手にどこかひとつでも似ている部分があると言われれば、素直に喜ばしい。
……父を、慕っているのだ。カミロのことも同じくらいに。どちらも大切な相手だと思っている。これからもずっとリリアーナを導いてくれる大人だと思っていたのに、目を離した隙に、こんなにも簡単に失われてしまう。
視えていないものは、護れない。
ずっと知っていたはずなのに、駄目だった、守れなかった。奪われてしまった。命を失ったものは、たとえ今の自分が魔王であったとしても『生き返らせる』ことはできない。
〘諦めてしまうの?〙
諦念は知っている。慣れている。起きてしまったことはどうしようもない。
〘ワタシなら、まだどうにかできるかもしれないわよ?〙
大精霊の力は借りない。ヒトにはヒトの命運というものがある。死んでしまったのなら、そこでお終いになるべき人生だったということだろう。生物に訪れる死とはそういうものだ。
たとえどれだけ短くとも、その者の生きるべき道程を終えたのなら、……それを個人の感情で身勝手に歪めるべきではないと。デスタリオラであった頃よりその考えは変わらない。
命とは繋がるもの。ひとつを終えても、その後を追う者、継ぐ者たちがいる。リリアーナやふたりの兄、屋敷に務める皆、領に生きる者たちが。次の命を生きて繋いでいく。サイクルの短いヒトの生命は、そうして回っている。
……ならば、仕方ないだろう。
〘本当に?〙
無くすことには慣れている。問題ない。全てが無となるわけではないのだから。
父の体温を、あの執務室で抱きしめられた際の温かさを、その声を、覚えている。失われてしまったとしても、一生忘れない。
父を、カミロを。
死んで、しまった、ふたりを。
「――――……」
視界が薄くなる。また頭の芯が冷えていく感覚に耐えながら、深い呼吸を繰り返して意識を保つ。
精神が揺らぐと思考がしづらい。
よくヒトは、こんな脆い心と体のまま生きているものだと思う。
パストディーアーがぬるく耳打ちしてくる甘言を切り捨て、余計な考えを削ぎ落とし、ただ前だけを見つめる。
時折低木が生えているだけの乾燥した地帯、砂利道の急勾配を越え、一際大きな岩を迂回して、そこでキンケードが一旦手綱を引いて馬足を弛める。
「見えた! こりゃあ……」
頭の上で息を飲む音が聞こえた。
馬がひとつ鼻を鳴らして嘶き、その場で数度の足踏みをしてから止まる。
切り立った岩場から見下ろす位置に伸びている道はよく均されており、馬車同士ですれ違うことができるくらい道幅が広い。これが領道なのだと一目でわかった。その大きな道は本来であればこの位置からも、延々と隣領まで伸びているのが見渡せたのだろう。
今、その道は、眺める半ばで完全に途切れている。
横倒しになった樹木と巨大な岩と土砂。山を構成するそれらが、平らであるはずの道を破壊し、その上に新たな山を成していた。
もはや人力でどうにかなる類のものではない。地形自体が変わっている。それは崩れたなんて生易しいものではなかった。
見上げてみれば、領道からは幾分離れているはずの峰が中程から抉り取られたように削れていた。むき出しになった岩と土が見える広大な範囲すべてが、大質量の濁流となって道と馬車を襲ったのだ。
「なん、で…… なんてこった、こんな……」
言葉を涸らし、絶句するキンケードはそれでもすぐに気を持ち直す。握り締めた手綱を振って怯む馬を何とか奮い立たせ、崩落地点へ向かうため岩場を下りようとする。
「待て、キンケード!」
「待てねぇよ! あんなの、あんな……!」
「止まれ、命令だ」
「……っ!」
急な指示の変更に馬が高く嘶く。伸ばした手でその首をさすって落ち着かせてやりながら、リリアーナは視線を上げた。
形を変えた山、積もった岩と土砂の塊。破壊された道と、そこで途方に暮れる馬を連れた男たち。おそらく先に到着した自警団の者だろう。
「嬢ちゃん、邪魔はしねぇって言ったはずだよな!」
厳しい声音で怒鳴りながら、それでも肩を掴む手の力は加減がされている。感情だけに振り回されない、心根の完成した
肩に置かれた手を軽く叩き、頭上にあるその顔を振り仰いだ。
「紐を。体を固定している紐を外してくれ」
「ここで待ってるってことか?」
「いや、違う。……キンケードよ、我はお前の精神性を信じることにした。お前は我を信じられるか?」
「は?」
何を言われているのか理解ができないといった顔で呆ける男は、それでも説明を求める前に、リリアーナの要望通り固定された紐を解きはじめた。
キンケードが固く結びすぎた紐をほどくのに苦労している間も、異層を透かす視線は削れた山と積もった土砂へ。その下に父とカミロを押し潰したものを、視ている。
紋様の浮かぶ眼が、赤く、赤く、無二の虹彩に陽光を反射し輝く。
構成の痕跡、未だ舞い散る光の残滓、層の歪み、汎精霊たちの軌跡。
……リリアーナの眼に映るすべてが物語っている。
――――誰がやった?
腹の内側で内臓がすべて沸騰しそうな感情を、ひと握りの理性で留める。
湧き出す熱量は、怒り。
ヒトとしての生を受けてからこれまで、こんなに大きな感情を抱いたことはない。猛り、憤り。身体の容量を超えて破裂して今にも全てが噴出しそうだ。
――――誰が奪った?
呼吸を、際限なく荒くなる息を意識して整える。心臓は早鐘を打つ。先ほどまでの血を凍えさせるような拍動ではない。ドロドロに溶けた激情が、赤憤が、血流に乗って全身を隈なく駆け巡る。
熱く、熱く、赤い。憤怒の熱情が震わせる指先を、爪が食い込むまで力いっぱい握り締めた。
――――誰が殺した?
「……誰かが、仕掛けたんだ。父上たちが乗った馬車を狙って、山を崩した」
「ンな馬鹿な話があるか、あれだけの崩落を人の手で起こせるもんかよ。いや、できたとしても狙ってなんて、自分も巻き込まれるだろ」
ようやく外れた紐を手に、キンケードが重い嘆息を落とす。
「オレだって嬢ちゃんのこたぁ信じてるさ。だから、オレを信じてくれるってんならココで大人しく待って……」
「汎精霊たちが舞っている。何者かが大規模な魔法を行使した直後だ。土着の精霊を動かして、ここで土砂崩れを起こした者がいる」
「……なん、だって?」
「これから目にするもの、耳に聞く音を、決して口外するな」
命運などではなかった。
仕方がないなどと、諦めようとしていた自分が愚かしい。
決してこんなところで終わるはずではなかったファラムンドやカミロたちの命を、不当に奪った者がいる。
もっともっと生きてたくさんのことを成すはずだったのに、その生命を半ばで踏みにじり、死へと追いやった誰かが。
許さない。
自分から奪った者を許さない。
父とカミロを殺した者を絶対に許さない。
必ず殺してやる。
瞼を見開き、馬の鞍に立ち上がって一帯を見渡す。道の先、山々の麓、岩場の果て。視界に入る限りを。燐光が舞う。無限の穴へ差す光景に歓ぶ小さきものたちが舞い踊る。回れ回れ、簒奪者を決して生かしておくな。
眼球への血流と圧迫感が増大した。ひどい熱と痛みが生じるが、それが一体何だというのか。眼さえあれば他の部位が多少損傷しようと構わない。虹彩へ刻まれた紋様、かつて魔王として受諾した権能のすべてを、赤い精霊眼の持つ力のすべてを、
<警告:それ以上の行使は肉体へ修復不可能な損傷をもたらします>
「構わぬ。父とカミロを殺した者は、今ここで殺す。まだそう遠くへは逃れておるまい」
<警告:損壊した肉体では今後の生命活動の継続が困難となります>
「構わぬ。それでも構わない、許さない、絶対に、殺してやる……っ!!!」
その叫びの最後は悲鳴に混じって喉の奥で掠れた。熱い滾りも湧きやまぬ怒りも、この手で犯人を処断するまでは決して冷めることはない。内側から塞き止めきれない情動があふれる。脳を焼くような激墳。どれだけ抑え込んでも襲ってくる感情の波、今にも意味のない叫び声を上げてしまいそうで唇をきつく噛んだ。
痛みが、全身の熱が、溶ける。熱い、痛い、苦しい。憎い。憎い。この眼に映るすべて、何もかも、諸共、この大陸から消えてしまえ。
アルトバンデゥスからの警告を振り切り、赤い視界を見定め、全力を注いで構成を回すため両の手を高く掲げた。
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