ハンナ・ルー 王立空軍第3飛行隊の魔女

新巻へもん

北部戦線 ヘドセンバーク近郊迎撃戦

第1話 空を飛ぶ

 ふう。ハンナは念入りに床を箒で掃いていた手を止める。黒い細かな毛や埃を塵取りに集めて隅の箱に捨てた。ベッドの上のゲオルグに視線を送る。ゲオルグは丸くなってスヤスヤと寝息を立てていた。穏やかな呼吸に伴い胸腔が膨らみ縮む。視線を動かすと壁につるされた時計はまだ朝早い時間であることを告げていた。同時に司令部に出頭を命じられている時間までそれほど無いことも示している。


 ハンナは小首を傾げると笑顔を見せる。まあ、いいでしょう。昨夜は疲れたでしょうから、もう少し夢を見させてあげます。その思いが通じたのか、ゲオルグの顔に大きな笑みが浮かぶ。ハンナは体を傾けると相棒のほっぺに振れるか触れないかのキスをした。


 ドアの前の姿見で服装をチェックする。全身真っ黒でだぶつき気味の服装をした鏡の中の自分が見つめ返しており、にっと笑うと向こうも笑い返してきた。短くした髪の毛のせいもあって少年のようにも見える。首にかけたゴーグルと空気吸入器の管を確認し、壁から大きなツバを持つ三角形の帽子を手に取って被る。帽子の色も新月の夜を思わせる漆黒だ。


 部屋を出て扉を閉めると似たような扉の並ぶ廊下を右に進み出口に向かう。皮のブーツで可能な限り足音を立てないように歩いた。途中の部屋からは誰も出てこない。きっと皆最後の僅かな時間も睡眠を貪っているに違いなかった。ハンナも疲れを覚えてないわけでは無い。ただ、その賦活の方法が違っていた。眠りよりももっと気持ちのいいことがある。


 両開きの外への扉を開けると早朝の冷たい空気が全身を包む。想像以上に冷たい空気に思わずクシャミが出そうになりハンナは顔をしかめてこらえた。先ほどから手にしたままの箒を横たえて、呪文で仮初の命を与える。使い慣れたトネリコの箒から微かな震えが返ってきて自分の一部となった。


 地下と上空の魔力線からそれぞれ赤と青の魔力を引き出して、その力で箒を胸より少し低い高さで固定する。

「マグレブ!」


 ハンナはポンと箒の上に飛び乗って横向きに座った。司令部まで行くだけで戦闘機動するわけではないだから力場の展開はいいだろう。少し風を感じたい。右手で柄の前方を握り、左手で帽子を押さえるとほんの少しだけ下向きに青の力を向けてやる。ふわりと箒が空中に浮かび上がった。


 使い慣れた箒は感度がいい。たちまちのうちに木の上の高さまであがる。遠くの空の地平線が白みを帯び始めていた。頭上を見上げると多くの星がハンナを呼んでいるように瞬いている。いつか、私たちの元にいらっしゃい。そう囁くかのような瞬く光を浴びてハンナの体は活力に満ちた。


 空の端の方にはレムルスが全体の3分の1ほどの部分を白と緑色に輝かせて浮かんでいる。ハンナの住む星と似たような星。すぐ近くにあるように見えるが、そう簡単には到達できない世界が中空に浮かんでいた。あそこにも私と同じように空を見上げている人がいるのだろうか、幾度となく感じてきた疑問が浮かぶ。


 意識を目の前の物に戻した。上空と地下からの魔力の流れをせき止めていたものを開放すると対流が生まれ、その渦が箒の柄を中心に回転を始める。その渦にちょっと力を加えてやると箒の穂の先端から勢いよく力があふれ出す。ぐんと加速し、ハンナは右手に力を込めて体が置いていかれないようにした。


 気の赴くままハンナは箒に腰掛けて空を駆ける。急上昇、急降下、旋回、そして自由落下。全身で風を受け体を大気と一体化させる。服は風を受けてバサバサと音をたてた。ハンナはこのひと時を楽しむ。何の目的もなく、ただ、ただ、自分の為にだけ空を飛ぶ。自由を謳歌していたハンナだったが、使い慣れた箒が僅かな抗議の声をあげているのを感じた。


 すっかりハンナになじんだものとはいえ、元は掃除用のただの箒だ。箒の素材のトネリコは弾力性に優れる素材だったが、印も刻んでいないし、魔力強化も施されていない。ハンナは暴れ馬のような動きを止めてゆっくりと司令部に向けて進路を取る。自費でこの箒を強化してもいいかな、と思いながら滑らかに司令部前の空き地に箒をつけた。


 地面に飛び降りると箒との紐帯を解除する。穂を上にして肩に担ぐと司令部への入口へと歩みを進めた。先ほどまでの高揚感が消えた反動でひどく落ち着かない気分になる。入口で歩哨に立つ兵士の魔法銃にチラリと視線を向けてから歩哨の敬礼に対し空いた手を帽子のツバに当てる。


「ハンナ・ルー中尉よ」

 歩哨の間を通り抜けると廊下に歩みを進める。早朝だというのに司令部の中は多くの人が活動していた。皆一様に厳しい表情をしている。司令部で雑用をしているギルクリクトじいさんがカタカタと義足の音をさせて近寄って来るとマグカップを差し出した。


「ハンナ。あんたには不要じゃろうが、ワシの自慢の一杯飲んで行きな」

 ギルクリクトじいさんは左手の親指を下に向け目玉を天井に向けてみせる。どうやら、司令官はご機嫌ナナメらしい。

「精神を爽やかにし、心を落ち着ける特製のハーブティだ」


 ハンナはニコリと笑って受け取るといつもの軽口を言う。

「その自慢の一杯はさ、司令官に差し上げるといいんじゃないかな?」

「ワシも勧めるんじゃが、勤務明けのビールが不味くなるんだとさ」

「残念」


 上空で冷えた体がハーブティの温もりで内側から満たされる。ぐいっと一気にあおるとハンナはマグカップを返した。熱すぎず、ぬる過ぎず、この辺の温度のさじ加減は絶妙だ。

「もう一杯どうじゃ?」

「ブリーフィング中にトイレ行きたくなっちゃったら困るから止めとくわ。大佐の血圧が上がりすぎちゃって、脳の血管がプッチンしちゃったら寝ざめが悪いでしょ」

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