大きな果実

吹戸ケイジ

大きな果実

 大きな果実は退屈していた。


 うっそうと茂る若葉の雑踏、さんさんと差す太陽の熱気、舞い踊る枯葉の数々、一面の銀世界。それらは彼が枝にぶら下がりながら楽しむことのできる、唯一の娯楽であった。

 しかし、幾度となく繰り返す春夏秋冬は見慣れられ、もはや一分の興味も向けられておらず、ついには彼の退屈を増長させるにまで至っていたのだ。


「何か手はないものだろうか」


 彼は身体を揺らしながら、しばし考え込んだ。だが、大きな身体が枷となり、彼の動ける範囲はさして広くはなく、そうなればおのずと、考えの広さにも支障が出てくるというものだ。

 結局のところ何か思いつくこともなく、彼はいつも通りに若葉たちが青々と茂る様を眺めることに戻った。


「おぉい、ちょっとよろしいか?」


 そのときだった。彼のすぐ傍、枝の先端から、話しかける声があったのである。


 声の主は、蒲公英たんぽぽの綿毛であった。


「恥ずかしながら、兄弟たちとの旅の途中、ここに引っかかってしまったのだ。少しこの枝を揺らして、空に飛ばしていただけないだろうか」


 彼は言葉を返さなかった。永遠に感じられるほど長い孤独と退屈にむしばまれ、完全なる無気力と化していたためである。

 綿毛はその様子を見て、困ったように毛をカールさせた。


「申し訳ない。それだけの体躯を以てしても、この枝を揺らすのは難儀なようだ。ましてや無償では」


 そう言い終わると、綿毛のカールは段々ときつくなり、そして、はじけるように元に戻った。


「そうだ、ここは一つ、私の旅の話を聞いていただく、というので手を打っていただけないだろうか」

「あ、ああ、いいだろう」


 我に返った彼は、まず突然の来訪者に驚き、次に、それのする提案に流れるまま乗っかった。


「そうか。それはよかった。始めるとしよう。思い起こせば、あれは三日前のことだった……」


 言ってしまってから、ああ、面倒なことに。これは無気力のもたらしたことだ。そう彼は小声で嘆いたが、もう話は始まってしまっていたので、再び流れるまま、聞きに入った。

 すると、どうしたことだろうか。話が半ばに達したところで、彼は『友情』を感じていた。


 ましてや話が終わるころには、『友情』からくる喜びが氾濫を起こし、無気力を消し去って、名残惜しさまでも感じさせていたのである。


「これで全部だ。さあ、急かせるようで悪いのだが、枝を揺らしてはいただけないか? 兄弟たちに出遅れるようでは困るのだ」

「待て。今日はもう遅いぞ。日が昇るまで、ここにいてはどうだ?」


 彼は必死だった。春夏秋冬の景色を見ることの数百倍は退屈を拭い去ってくれる友情の根源――隣人を、失うまいとしたのである。


「それはできない。今夜は風が強いのだ。春が終わるまでに目いっぱい移動するには、今夜しかない。そうでなければ、死ぬだけだ」


 その激情と対称的に、彼の引き際は潔かった。綿毛の語気に、生きる世界の厳しさに、打ちのめされたのだ。

 それから彼は約束通り、枝を揺らして、隣人を空へと解き放った。


 時は経って、太陽が本格的に英気を取り戻し、松蝉が愛を叫び始めたころ。彼は退屈からくる無気力に、より深くむしばまれていた。


「どうしたことだろうなぁ」


 言いながら、彼はヘタと枝の繋ぎ目でクエスチョンマークを作らんばかりに身を捩った。彼は隣人――綿毛と別れたあとから、ずうっとこのような調子だった。

 それからしばらくして、彼はこの無気力の原因について考え始めた。答えはすぐに見つかった。


 孤独である。


 その答えに行きついてみて、彼ははっとした。彼が思い返すには、確かに見慣れた景色なれど、枯葉が風に揺られて不規則に舞う様や、雪が形作った銀世界をまったくつまらないと思ったことはない。二度と同じように舞うことはなかったし、形作ることはなかったからだ。


 だがいくらそれらが珍妙なものだとして、話すものがいなかったらどうだろう。自分ひとりで騒いでいても、そのうちにむなしくなり、退屈し、無気力へ至るのだ。


 彼はその持論に納得した。そして、その持論にのっとり、孤独から抜け出そうと、隣人を待ち始めた。

 だが待てど暮らせど隣人は現れず、いたずらに時は過ぎてゆき、ついには松蝉が寒蝉に入れ替わってしまった。


「これではいけない」


 さすがの彼もこれには思うところがあり、何か隣人になるものはいないかと、自発的に行動を始めた。その結果見つかったのは、同じ木に生っている弟たちであった。

 おそれていたことが起こった。そうつぶやくと彼は皮にしわを寄せ、深く後悔した。


 彼には負い目があった。いつまでも旅立つことなく果実のままで、ここまで大きくなってしまった負い目だ。


 きっと弟たちは、身を鳥どもについばませ、その腹の中に自身を宿させて旅立った兄たちを尊敬していることだろう。だが私はどうだ? 兄ではあるが、とてもそんなことを胸を張って言える立場ではない。


 考えるたび、彼はどうにも自分が情けなく思えてきた。弟たちに罵倒され、蔑まれ、ちっぽけな誇りを失うぐらいならば、いっそ死んでしまおうかとも考えた。

 しかし彼は思いとどまった。ここで逃げてはいけない。恐れてもいけない。どうせ失う誇りならば、いっそここで玉砕させてしまおう。そう考えたからだ。


 彼の行動は早かった。


「おぉい! 弟たちよ!」


 叫んだのだ。声高々に、弟たちの方を向いて。


「私は諸君らの兄だ! 諸君らの兄よりもずうっと上の兄だ! 自分の性からおよそ薄暗い生を送ってきたが、このたび一挙玉砕の気持ちでその生から抜け出すべく叫んでいる!」


 彼は自身の持った熱の久しさに涙を流しながら、言葉を締めくくった。


「よろしく頼む!」


 こだまが止むとともに、時が止まったかのような静寂が訪れる。


 やはりだめか。ああ、この誇りは砕け散った。神様。見ておられたのならどうぞご軽蔑ください。このわたしはやりきったのです。後悔などありません。


 彼がそう小さくつぶやき、退屈しのぎに楽しそうに舞う枯葉たちを眺めようかと振り返ったそのとき、静寂が破られた。


「いいえ、まさか。軽蔑などするものですか」


 ほんの一瞬、彼は神が語りかけてきてくださったのかとうろたえたが、すぐにそれが弟の声であると気づき、ヘタをちぎらんばかりに速くふりかえった。


「それどころか我々は、あなたに敬意すら覚えているのです。よくぞ孤独から抜け出す道を見出されましたね、兄上。共に秋の旅立ちを迎えましょう」


 感動のあまり、彼は叫ぶようにして答えた。


「ああ、弟よ! ありがたい! だが、いまの私が旅立てるだろうか」

「なにをおっしゃいますか。兄上の食いでがある身体ならば、鳥どもも喜んで寄ってくることでしょう」


 そして笑った。彼は、この世に生を受けてから初めて、心の底から笑ったのである。


 それからしばらくして、渡り鳥がやってきた。


 次々に弟たちをついばむ鳥たちに彼は恐怖を覚えたが、例年のように追い払ってしまうような真似はせず、大空へと旅立っていったのだった。

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大きな果実 吹戸ケイジ @ninjaphilips12

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