雑文

蛙鳴未明

第1話 人間屋

とある秋の日の夕暮れ。私は四日間の出張を終え、久し振りに家へと帰っていた。やっと家に帰れる嬉しさで胸を踊らせながら、徒歩五分の帰り道を歩く。久し振りに見る公園、久し振りに見る八百屋、久し振りに見るティッシュ配りのお姉さん。


何もかもが久し振りで、心は喜びに溢れていた。しかし、帰り道を半分ほど行ったところで、私は目の前の風景に違和感を覚え、足を止めた。しばらく辺りを見回して、やっと違和感の正体に気付いた。この通りには脇道などなかったはずなのに、私の右斜め前に脇道があったのだ。


道がたった四日で出来るわけがない。私は不思議に思って、脇道を覗いてみた。その道は薄暗く、突き当たりに赤い看板が見えた。私は興味に駆られ、脇道に入り店に向かった。


だが、進めど進めど店が近づいてこない私は立ち止まってしばらく考えた末、自分が疲れているせいで、幻覚が見えているのだろうと結論付けた。そして後ろを向いた。すると目の前に赤い看板の店があった。チケット売り場のようなつくりをしたその店には人気がなかった。店の屋根についている赤い看板にはこう書いてあった。


「やんげんに」


どういうことだろうと首を傾げていると、後ろからヒタヒタと足音が聞こえた。私はとっさにそばにあった巨大なゴミ箱の陰に隠れた。しばらくすると足音が大きくなり、店の前に止まった。こっそり陰から覗いてみると、血まみれの大きな足が見えた。


「もしもし、店主はいるかい?」


かすれた声がした。野太い声が答える。


「はいいますよ。ああ、沢野さんでしたか。なにをご所望で?」


サワノと聞いて、いつも真面目に働く仕事仲間を思い出した。確かこの辺りに住んでいると言っていたが、この声の主は彼では無いだろう。彼はこんなかすれた声ではなかった。またかすれた声がした。


「それが…。見てのとおり、血まみれになってしまいまして…。あまり汚さないように狩ろうとは思っていたのですが。」


野太い声が答える。


「で、新しい体がほしいと。」


「まあそういうわけで。…お願いできますか?」


一拍おいて店主が答える。 

「まあいいでしょう。在庫も少ないですが。…それにしてもひどく汚しましたね。」


血まみれの足が、恥ずかしげに足踏みする。


「少々お待ち下さい。」


店主の声がした。どうやら店の奥に商品を取りに行ったらしい。それにしても、新しい体とはどういうことだろう。さっぱり訳が分からない。少しすると店主の声がした。


「こちら、新しい引き換え券です。お好きなタイミングでお使いください。」


引換券?かすれ声が安堵したような声を出す。


「ああ…ありがとう。助かるよ。…今使ってもいいかい?」


「ええ、もちろんですとも。」


すると、何かを破く音が聞こえ、ポンと音がした。そして、何かが私の前に落ちてきた。思わずゴミ箱の陰に頭を引っ込める。くぐもった鈍い音が聞こえた。おそるおそるゴミ箱の陰から頭を出してみる。


目の前に何か丸い大きなかたまりがあった。なんだろうとよく見てみると…それと目があった。沢野の顔だった。


私は思わず悲鳴を上げてゴミ箱の陰から飛び出し、路地を一目散に駆けていった。そこから先はよく覚えていない。


気付くと私は自分のアパートのベッドの上に倒れていた。

その時私はほっとすると共に、もう二度と黄昏時には出歩かないと決心した。


黄昏時はオウマガトキとも言うらしい。魔に逢う時で逢魔時。僕は魔物に会ったのかもしれない。

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