第64話「さっぱり」

「お帰りなさいませ、坊ちゃま」

「今戻ったぞセバスチャン」


 玄関口の大階段の前ではいつもどおり一部の隙もない着こなしのセバスチャンが出迎えてくれた。


「まずは旅塵を落としてくださいませ。それから茶と軽食を用意させます」


「頼んだ」


 セバスチャンはリン・グランデで起こった事件をああだこうだと根掘り葉掘り聞かないのでカインは大変助かっていた。


 チラと周囲を見回すとアイリーン以下のカインがよく知るメイドたちがうずうずした様子でこちらの様子を窺っている。


(小雀みたくぴいちくぱあちく鳴かないのがこの男のよいところだ)


 もっともセバスチャンほどの男ならば独自の情報網で事情を把握しているので聞く必要もないのだろう。


 アイリーンが頬を紅潮させながらカインにジッと見入っている。私室において余人をまじえないのであらば、もう少し優しい言葉をかけてやれるのだが、使用人がほぼすべて集まるこの場で特別扱いをすると彼女自身にも今の段階では差しさわりがあるであろうし、カイン自身もそこまでする決断はまだ下せていなかった。


 ――彼女を愛妾扱いするのであらば、数年以内に責任を取らなければならないだろう。


(すまない。今はまだやることがあり過ぎる上に、そこまでの余裕がないのだ)


 屋敷には祖父が作らせた浴場がある。長らく使用はしていなかったのだが、カインが領内を討伐している間、密かにゼンに命じて改修を施させてあったのだ。


 近場にある天然の湯を苦心して引き込み湯が満ちた浴槽は疲労した身体にはこの上ない馳走だった。


 浴場の外には屈強な騎士が侍っているので、この状況なら心からリラックスできた。


「ふぅー。やっぱ湯に浸からないと疲れが取れないな」


 引き込んだ源泉の量には限りがあった。


 なので足りない量は沸かした湯をマンパワーを駆使して埋めさせたのだ。


 これだけの量の湯を沸かすには相当な木材を使用するので心がわずかに痛んだが、カインはどうしても湯に浸かりたい気分なので今回だけはワガママをいった。


 ほろほろと湯の中に疲労物質が溶け出してゆく。


 熱で頭がくらくらするほどになると汗が滝のように流れ出し、浴槽から上がったときは気分爽快だった。


「とはいってもささやかな広さだな、ここは」


 源泉の湯自体の温度は高くないので沸かした湯が冷めれば、熱い湯の好きなカインは半ば酔いが醒めたように上がらずにはいられない。


「ゼン。残り湯で悪いが、女どもに使わせてやってくれ。それと湯を汲んでくれた村人たちには賃金に色をつけてやってくれ」


「若さまはおやさしい。もっとも村人たちは銅貨なんぞよりも腹に溜まるもののほうがよろこぶと思いますがね」


「そのことも含めて考えがないわけじゃないんだ」

「これは……皮肉をいったわけじゃありませんよ」

「わかってるって」


 カインは廊下を歩きながらサッパリした頭でカルリエ領内の治世について思いを巡らせていた。


 反乱をほぼ収めた今となって領主代行であるカインが一番に考えなければならないことはなにかと問われれば答えはひとつしかない。


「農業改革か。やっぱり」


 獅子身中の虫であるパラデウムに蚕食された西部地域の領地や、未だカルリエの財政を圧迫し続ける死病のような大借金、それにカインを若年とみてまつろわぬ名士など挙げればキリがない負債の中で喫緊の課題として立ち塞がっているのが領内の食糧問題とそれを改善するための農政だった。


「ボヤボヤしているうちに春の作付けが終ってしまう。今、もっとも大切なのは時間だ。まず、領民たちの腹に入るものから改善しないと」


 カルリエの領内は険しい山が多く広がっており、耕作地にそれほど余裕はない。


 おまけに折からの内戦や反乱で田畑は荒れ切っていた。


「まず、投資できるだけの金を農地に叩き込まなければ、飢餓をさけうることは完全に不可能になる。食糧援助を何度も依頼することは難しいとなると、これはもう是が非でも自力でなんとかせにゃならん」


 知らず、ブツブツと呟いていた。ゼンはカインが思考の沼に没頭しているときは、阿吽の呼吸で距離を置いてくれるが、今の喋り方は少年のそれではなく完全に中年男のボヤキだ。カインも自分のこの悪癖を理解しているので、他者がそばによればスイッチを切り替えるのだが、それは完全なものではなかった。


(とはいっても、農業に関していえばおれは完全に素人だ。どうやってこの危機的状況を回避すればいいものやら)


 いくらF世界とはいえ、耕作地の取れ高を指一本で増大させる術など存在しえない。


 執務室の大きな椅子に座るとようやく人心地がついた。


 ゼンが黙ったまま部屋を出てゆく。


 ようやくカインはひとりきりになれたことで、両手を膝の上で組み己の思考に深く沈み込んでいく。


 借金はこれ以上できない。可能だったとしても、形代なしに大規模な金子を融通してもらえる知り合いも魔法のような手立ても現状考えつかない。


 領内すべての民を救おうとするならば、まず、普通のやり方を考えていてはダメだ。


 常識や倫理を超越する視点から、善悪を考えずに方策を立てねばなるまい。


「おれにできること……やはり錬金術しかないのか」


 カインが今まで器用に立ち回って来れたのはその場限りの思いつきに過ぎない。


 農地を改良して、田畑から永続的に収穫率を上げようとするのであれば、これはもう素人の力が及ぶところではないのだ。


「相談役が欲しいな。それこそ、森羅万象に通じたおれだけの軍師が」


 頼りになる豪傑や、細かいところに気を配る執事、忠実に仕えてくれるメイドはいる。


 だが、カインはなんでも相談できる、知識と経験を持った老練な参謀を心の底から欲していた。


 ――それにしても疲れた。


「ぐう」


 戦闘の怪我や気苦労でカインの痩身は心底参っていたのだろう。温浴の心地よさもあってか、とろとろとしているうちに、カインは座ったまま夢の国に旅立っていた。


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