第46話「繁華街」
夕刻――。
日が落ちて乾いた冷たい風が頬を撫ではじめたとき、カインはようやく物陰から身を起こした。
リューイ公の屋敷を脱出してから、早朝にこの物影に逃げ込み、周囲を探索していた気配がなくなるまでひたすら身を潜めていたのだ。
「あ、あぢぢ。身体が、痛い」
全身の関節に鉛を埋め込まれたようだ。カインは立ち上がると腰に手をやって身体を反らした。筋肉が引き延ばされていく感覚は心地よかった。
「カインさま、今しばらくのご辛抱を。追手を完全に撒いたとは思えません」
メイドのリースが腕を引っ張る。ほんのわずかな力であったが、窮屈な姿勢を保ったまま長時間いたせいでカインは身体のバランスが取れずにコロンと転がって後方の塀へと強かに頭を打ちつけた。
さすがに逃亡の身の上だ。大声を出すことはさけたが、その分痛みのフラストレーションをこらえたことで痛みが倍加した。
目の前で星が散るような衝撃を歯の間に噛み殺しながらカインは痛みに耐えた。
「申し訳ございません、お怪我は――!」
「し、しーっ」
寝転がりながらもカインは唇に人差し指を立てて声を殺すように指示するが、やがて今の時刻の濃い暗がりではなんの意味もないことに気づき自分を自分で殴りたくなる衝動に駆られた。
「姉さま、なんということを――あるじさま、痛い痛いはどこですか? ああ、今すぐこのライエが痛みをお鎮めいたしますゆえ」
「いや、今はいいから。ライエ舐めるな。舐めなくていいから。ライエ、ストップ。シッダウン」
カインは顔を寄せて長い舌を出すライエを思わず犬扱いして命令を出し、あまりに無礼な過ぎることに気づいた。
「ともかくだ。いつまでもここにいたらマズい。リース、とりあえず城内に隠れられる場所を知らないか。今の状態で安易に囚われたら本気でタダの愚か者だ」
「そうですね。二、三は心当たりがないわけではないのですが。いざというときはカインさまだけでも逃げられるよう心の準備をお願いします」
「ああ、悪い。それと、もし追手に見つかったときは私に無理やり脅されたといえばいい。大叔父上の家人を貴族の争いに巻き込んだ上、これ以上迷惑をかけられない」
(おれより地理に熟知しているふたりを失うのは正直不利だが、これ以上子供を大人の喧嘩に巻き込めないのも事実だ)
カインとしては至極当然のことをいったまでであったが、リースとライエはその言葉を年下の少年の精一杯な強がりと取ったのか、ふるふると顔を震わせて小さく小首を振って否定の意志を露にしていた。
「先ほどわたしがいったことをお忘れですか。血の繋がりは薄くともわたしとライエはカルリエの一族です。あなたさまをひとりで忘恩の輩たちに手渡すなどできませぬ」
「あるじさま。ライエも姉さまと同じ気持ちです。二度とそのようなことをいわないでください。ライエは、寂しくなってしまうのです……」
感極まったライエは「ひぐっ」と小さくしゃくり上げ出した。こんなところで泣かれても困るのでカインはとりあえずこの話を保留にし、リースの先導の元、夜の街を歩きはじめた。
「意外だ。結構栄えているんだな」
カインはリースに連れられてリン・グランデ中央部の繁華街に足を踏み入れていた。
「それはそうです。特にカインさまが領内の賊徒を討伐し終えてからというもの、賑わいはより大きなものになっています。これもすべてカインさまのご功徳でございます」
神妙な顔をしてリースが両手を合わせ祈るような素振りをする。ライエも慌てて真似をするが、彼女は姉が冗談でやっているということが理解できていない様子だった。
「やめてくれ。私は当然のことをしたまでだ。本当に難しいのはこれからさ。っと」
「おい、ガキ。こんな夜更けにウロウロしてんじゃねぇぞ!」
「そうだそうだ。とっととウチに帰って母ちゃんのオッパイしゃぶってな!」
カインとぶつかった酔漢がそんな声をかけて千鳥足で遠ざかってゆく。
「――少しここでお待ちいただけますかカインさま。あの男たちに礼儀というものを教えて来ます」
今しがたまで普通の娘のようにコロコロと笑っていたリースの形相が般若のような険しいものに変化した。
見ればすでにナイフを抜き放っている。刃渡りは二〇センチ程度のものだが彼女の腕前なら人ごみの中余裕で刺し殺すことは可能だろう。
(やっば、コイツなんちゅう二面性持ってるんだ。止めねば)
「ちょっと待った。今はどんなちっぽけな騒ぎも起こしたくない。人目につきたくないんだ。わかってくれるか」
「――はい。カインさまがそう仰られるのならば」
「頼んだぞ」
「あら、こちらカワイイ坊やじゃない。どう? お姉さんとお店で遊ばない?」
カインがリースに気を取られていると、不意に背後から夜の店の女に声をかけられた。
キツめの香水の匂いに、まず頭がノックアウト。
それから胸がほとんど見えてるんじゃないかと思われる強烈に性をアピールしたドレスに肉の乗ったデカい尻にカインは思わず目を奪われた。
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