第三章 奴隷商人
一話 牢獄の輪舞曲(ロンド)
「エルピース、着替えたよ」
シエルは何やら部屋中をゴソゴソと探し回っているエルピースに遠慮がちに声を掛けた。
逃げるのにドレスでは目立つし動きづらいと、クローゼットの奥で見つけた服を着るようにエルピースに言われたのだ。
振り返ったエルピースは「うん、それなら目立たないね!」と笑顔を見せたので、シエルはホッと胸を撫で下ろす。先程まで真剣な表情だったエルピースの発する雰囲気は、どこかピリピリとしているように思えていたのだ。
「やっぱり、その扉から正面突破するしかなさそうだよ」
と、ベッドに乗って窓の柵をいじっていたエルピースは言いながら飛び降りるとシエルの横へと歩み寄った。
ボロボロの色褪せた洋服は、美しい容姿にかなり見劣りするが、逃げるのにドレスは邪魔になる。
シエルもまた、ドレスには執着はなかったようで文句無く着替えてくれた。
「これね」
服をマジマジ見ていたからだろうか、シエルはニッコリと微笑みながら服を優しげに撫ぜる。
「昔、母がくれたの。プレゼントなんて言うほど豪華なものじゃなかったんだけど……どうしても捨てられなくて……役に立って良かった」
少し照れたように笑うシエルに、エルピースはただ微笑み返した。
「なんと無く、分かる気がするな」
そして自分の手に嵌っているホークを見つめながらエルピースが言う。
「私もホークが居て、ヒルデと少しでもまだ繋がってるんだって思えたから」
言い終わって、目が合って微笑み合った。
「さて、と!」
それからエルピースは急に立ったまま構えると、えいやぁとパンチの練習をし始めた。
「エルピース……?」
その余りのへなちょこパンチにシエルが思わず笑みを零すと、エルピースは「でやぁー!」とふざけて扉に向かって拳を突き出す。
ゴチ、とホークと扉がぶつかった音が響くが、特に何も起こらない様子に「そりゃそうか」「もう、エルピースったら!」と二人で笑いあっていた直後である。
ピシリ、扉が軋み歪みが出来たかと思うと突然音を立ててバラバラに砕け地面に崩れ落ちる。
エルピースもシエルも何が起こったのか一瞬理解できず硬直した。しかし、遠くから「何だ今の音は!?」「向こうの方だ!」と複数の声が響いて来たのを聞くと、ハッとしてお互いに向かい合い、頷き合う。
「行こう!!」
エルピースがシエルの手を取り早足で歩き出す。走るとシエルに負担がかかる為、慌てているが走るわけにはいかない。
「エルピース、この先に中庭があるの。そこに行って欲しい」
「う、うん」
幸いな事に兵はこの部屋の傍には居なかったようで、見渡す範囲に姿は見えない。まだ駆けつけて来る途中のようである。
誰も居ない回廊を慎重に進み、比較的すぐにシエルの言う中庭に出た。その中庭の一角にある温室をシエルが指差す。幸いにもこの近くに居た衛兵は先ほどの音でシエルの部屋に集まっており、中庭はがら空きで抜けられそうである。二人は心なしか駆け足で温室の入り口へ向かうと、様子を伺い誰も居ないのを確認し、中へと入る。
「わぁあ」
エルピースはその月明りに照らし出された温室の内部に思わず感嘆の声を漏らした。そこには祖父に聞いた、または祖父の本でしか見たことがない、遠い国の植物や花が咲き乱れ、まるで天国のようだった。
そしてその真ん中にある蓮の咲く池の向こう、少し朽ちた石造りの十字架が月明りで更に白く怪しく佇んでいるのが目に入る。
シエルはその十字架まで歩いて行き、エルピースも慌てて後を付いて行く。すると十字架に何か書かれているのに気が付いて、エルピースはシエルを抜かし十字架に駆け寄った。
「十字架に背きし勇敢な魂、ここに眠る」
十字架の正面、真ん中にはそう古代語で刻まれていた。ということは、これは墓標だろうか。エルピースは更に十字架を調べると、側面にまた文字を見つける。それはナイフで削られたような文字で「開けゴマ」と書かれていた。その筆跡をエルピースは知っている。
「おじいちゃん……?」
「エルピース、この十字架を回して横向きにしてみて」
そのメモに首を傾げていたエルピースだったが、シエルの言葉に頷くと二人で十字架に手を掛け、力いっぱいそれを回す。
すると真横を向いた所で、目の前の池の水が急にどこかへ消えていき、何とそこに地下へ続く螺旋階段が現れた。
エルピースが驚いてそれを見つめていると、シエルは戸惑いなく螺旋階段に飛び込んでエルピースを振り返った。
「こっち!」
暗くて不気味なその階段にエルピースは一瞬躊躇したが、背後に衛兵の声が聞こえて覚悟を決めると一歩踏み出す。
「行きましょう」
シエルに続き階段を下っていく。すぐに月明りは届かなくなったが、ところどころに掛けられたランタンの明かりが、暗く深い階段の行き先をぼんやりと照らし出す。
「足元に気を付けて、ゆっくり下りて」
「シエル、ここはどこなの? ここから逃げられるの? 隠し通路?」
「うん……あのね、エルピース」
恐る恐る階段を下りながら、エルピースはシエルの声が微かにくぐもっているのに違和感を覚えた。
けれど何か隠してはいそうだが騙していると言う雰囲気でもなさそうで、むしろそれはとても悲しげな響きだった。
「私は、一人じゃ逃げられないんだ」
ポツリ、シエルが小さな声で呟いたその真意が読み取れずエルピースは眉をしかめる。
そうこうしているうちに、螺旋階段の終わりが見え、その先にはランタンで心もとなく照らし出された地下室が見えた。
その地下室の入り口で立ち止まると、シエルはエルピースを振り返る。
「あいつに言われたの。もしまた逃げたりしたら、この子達を皆殺しにするぞって……」
エルピースはシエルのすぐ横まで来ると、向けられた視線の先を見て、息を呑んだ。
目の前には陰気な地下室と、牢獄があった。
そこに閉じ込められているのは小さな子供たち。
シエルより少し下の、まだ幼い子供たちだ。
「お願いエルピース……っっ私達を、この子達を助けて……!」
シエルはそこまで言い切ると、目には涙が溢れ出した。急いで両手で顔を塞ぐが、くぐもった嗚咽が部屋に響く。
エルピースは呆然とその光景を見つめていた。ゆっくりと、端から端まで。
やせ細った小さな子供たち、赤子を抱いている子までいる。けれども子どもがこれだけの人数いると言うのに、その牢獄は酷く静かだ。
子どもたちは皆、疲れ切って瞳の輝きもなくただ蹲っている。
「ごはんの時間……?」
ふいにエルピースを見つめ牢獄の中から子どもが手を伸ばした。
「お腹空いたよ……もっとパンをちょうだい……良い子にするから、ちょうだいよぉ」
エルピースに向けて伸ばされた細い腕。
貴族の恰好をしているエルピースを、屋敷の者と勘違いしているのだろうか。
見つめることしかできなかった。その余りの光景に足が軋んで動かない、呼吸すら憚られ知れず息を潜めていた。
シエルだって分かっている筈だ、だから彼女は泣き崩れるしかないのだ。
エルピースは悟った。自分がいつまでも諦めないから、夢物語を言い続けるから、この場所へ連れて来られたのだと。シエルは絶望の沼に沈んで動けない、それはきっと、今も尚。
エルピースの希望に満ちた言葉が、その眼差しが、どれほど彼女に刺さり傷つけただろうか。
何て滑稽だっただろう。
エルピースが思うよりずっと深く、光も届かぬほどの暗闇の中に彼女は閉じ込められていた。
頭が真っ白になる。
今のエルピースに、彼女を、この子供たちを、皆を救う手段も力も。
「俺を選んでよ」
ポツリと、牢獄の一番奥で蹲っていた少年が呟いた。
「何だってする! 俺は病気もないし、見た目だって他の奴よりも良い、ほら!」
少年は言いながらエルピースに近づいて来た。そして柵を両手で掴むと媚びた笑顔で自分を見上げる。
必死な、笑顔。
「いいの、エルピース……誰もあなたを恨んだりしないわ」
泣き崩れていたシエルが、落ち着いたのか静かに立ち上がってエルピースを見つめた。
エルピースは未だ牢の中の子供たちを見つめたまま動かない。
「分かってるのよ、私たち。もう嫌と言うほど……分かってるの。神様なんていない、救いなんてない……だって、私たちは……奴隷なんだもの」
シエルを見た。笑顔だった。泣きそうな顔で眉を下げて、それなのに目と口だけ無理矢理に笑わせた疲れ切った笑顔だった。
『エルピース』
遠慮がちに、ホークが呼んだ。
優しい声だった。
エルピースは許されている。
この場所で、無力で何ひとつできやしない自分を、それでも許してくれる。
何のために、エルピースは今ここに立っているのだろう。諦めるため、許されるためにここに来て、見て、立っているのだろう。
目を閉じた。
大空と、緑の草原。太陽の光を浴びて、清かな風を頬に感じる。
故郷を思い出していた。
そして、微笑むブリュンヒルデを。
目を開けたそこは暗く湿った牢獄だ。目の前には痩せ細った子ども達。彼らはこの世界を享受することすら奪われた、自由を奪われた、哀れな子ども達。
庇護され、育まれ、初めて人は自由という名の幸福を手に入れることが出来るのか。けれどもじゃあ、生まれながらにそうでなかったこの、奴隷と呼ばれる子ども達は?
そうか、この世はこんなにも、こんなにも。
「それでも……」
「エルピース?」
エルピースは顔を上げた。その瞳が真っ直ぐにシエルを見つめる。
シエルは目を見開いた。
「私は諦めない」
エルピースの声は凛としていた。この暗闇と静寂を切り裂くには十分な、この場所で唯一光を帯びた強い声。
「確かに私には何の力もない……でも、最後まで一緒にいる。君達を、絶対に見捨てたりなんかしない。私は最後まで、絶対に諦めたりしない!」
張り上げた声に、子供たちは皆困惑したように、けれど牢獄にざわざわと子供たちの声が戻って来た。
エルピースは真剣な面差しで子ども達とシエルを一人一人見つめて行った。
そして自身の胸の辺りの服を握りしめ、一度目を閉じる。
鼓動を感じる、強く強く自分の中で脈打つ生命の音が聞こえる。
「だって……みんな生きてるんだ」
ポツリ、最後に波紋を描くように呟かれた言葉がシエルと子ども達の心へ波及する。
それはただ子ども達にとってはざわざわと胸を撫ぜるだけの小さな波にしか過ぎなかっただろう。
けれどもその言葉が胸に微かに灯ったように、子ども達は顔を見合わせた。
その様子を茫然と見ていたシエルの口元が、やがて少しずつ弧を描いていく。
「ありがとう、エルピース」
シエルがそう言った直後だった。彼女の背後の階段から騒がしい音が響いて来たと思うと、数人の衛兵が突然現れ瞬く間にシエルを拘束した。
「シエル……!!」
「やぁ、どこへ行ったかと思えばこんなところに居るとは……ダメだろう? シエル」
そして兵士達の後から現れたのは、顔を見るのも憎々しい……笑顔を浮かべたピエール子爵である。
一人の兵士がシエルを取り押さえ、残り二人がエルピースに向けて剣を構える。
エルピースもまた、慣れない拳を構えた。
「剣に素手で対抗しようとは、これは中々面白いことをするじゃないか、エルピースくん」
「名前を呼ぶな、気持ち悪い!」
舌打ちした子爵が指を鳴らすと、兵士は一斉にエルピースに襲いかかった。
何とか拳を入れられればと思ったが、もともと喧嘩も武道もしたことがないのである、見よう見まねだけで訓練している者に敵うわけもない。
エルピースは結局、拳を一発も入れられぬまま地に伏せられ両腕を拘束されてしまった。
『エルピースに何すんのよぉ!!』
と、ホークが一瞬の光と共に鳥の姿に戻ると片翼をばたばた動かして兵士達に抵抗する。
「ホークっ」
しかし、ただの鳥。しかも片方しか翼のないホークは、呆気なく兵士に足を掴まれることで拘束されてしまった。
『キィィ!!』
「驚いたな、何だこれは……古代遺物か?」
捕まったホークをまじまじと見ながら子爵はにやりと笑った。
「それも回収するぞ。何か商売になるかもしれん」
『離せ!! 離しなさい!! エルピース……!!』
「ホーク!!」
しかしエルピースは更に強く拘束され、身動きすら取ることが出来ずシエルとホークをただ見つめるしか出来ない。
「そいつも牢に入れておけ。さぁシエル、戻ろうか」
そして子爵はエルピースの方など見向きもせずに、シエルとホークを連れて去って行ってしまった。
残されたエルピースは衛兵によって牢に乱暴に放り込まれる。
「お前達、今日の夕飯は抜きだ。恨むならそいつを恨むんだな」
そして兵士もそれだけ言うと子爵に続き地下室を出て行った。
子ども達の牢で、エルピースは放り込まれたまま立ち上がることも出来ず、冷たい石の床に顔を付け伏していた。子ども達に責められようが何をされようが、自業自得だから構わないとエルピースは思っていた。
しかし子ども達は何も言わず、何もしては来なかった。誰も何も言わず、動かない。牢獄の沈黙は続き、気づけばよほど疲れていたのだろう、エルピースから何と寝息が聞こえ始めた。
「こんな状況でよく寝られるな、こいつ」
先ほど自分を売り込もうとした少年が言いながらエルピースの体を足でつつく。
子ども達は、皆気になるものの怖さもあるのか遠巻きにエルピースを見つめている。
「こいつもこれで、奴隷の仲間入りだぜきっと」
少年の言葉に答える者は居らず、少年はその侭つまらなそうに壁際に戻ると自分も座りながら目を閉じる。
その様子を見ていた他の子供たちも、それに習うように、空腹を紛らわす意味もあったのだろうか、横になって目を瞑り眠り始める。
劣悪な環境に身を置いてきた彼らの多くにとっては、風雨を凌げ少しだが食料が貰えるこの状況は、こうして眠ることが出来るこの牢獄は、皮肉だが束の間の平穏にも思えるのである。だから何が起ころうと、何があろうと変わらない。少しはマシだと言うだけだ。
彼らはもう、順応することに慣れてしまっている。
やがて皆が寝息を立てる頃、牢獄の灯火が急にゆらゆらとどこからかの風に揺れたのに、気付く者は誰もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます