四話 五年前
いつもと変わらない朝が来た。
パンとミルクと野菜のスープ、食べ終わったら畑仕事へ。とてもよく晴れた空に真っ白い雲が泳いでいくのを、汗を拭いながら見上げる。大きな湖と森の向こうには雪がまだ積もった白い山があって、少し小高い丘からは山の下の街が見える。
山を降りたことは無い。
生まれつき体が弱かったから、街から離れたこの山小屋で暮らさなければならないのだと言われてきた。
大好きなおじいちゃんとブリュンヒルデが居てくれるから、不満がある訳では無いのだけれど……歳を重ねる度に下界への憧れは募っていくばかりだった。代わり映えのない日常に私は大いに物足りなさを感じていた。
もう何度目かの溜息を漏らし、私はもう一人黙々と作業を続ける青年の方を見る。彼の名はブリュンヒルデ、銀色の長い髪を束ねもせずに畑の世話をしている彼は、産まれた時からずっと私の世話をしてくれている兄のようであり母のようであり父のようでもある唯一無二の存在だ。
疲れてしまって既にひと休みを決め込んでいる私とは大違いで朝から休みもせずにせっせと働き通しである。
彼はいつだって涼しい顔で何だって出来てしまうし、そう言えば疲れているところも見たことがない。本当に、私とは大違いな男だ。
「ヒルデー! 少し休もうよー!」
木陰に座ったまま大きく手を振れば、気が付いたのかブリュンヒルデも木陰へやって来た。
「体調は大丈夫? どこか苦しくはない?」
「ヒルデは心配性だよね、少し疲れて休んでただけ、心配いらないよ」
「エルピースは普通とは違うから、無理をしてはいけない」
「もう、大丈夫だってば。いつまでも子ども扱いしないでって言ってるでしょ! 昔よりは体だって丈夫になったし」
頬を膨らませてみたが、ブリュンヒルデはただ困ったように私の頭を撫ぜるだけだった。
「もう少しで終わるから、待っていて」
「あ、じゃあ私も!」
「エルピースはここに居て。そろそろホークが戻って来るから」
立ち上がろうとした肩を掴まれて、もう一度座らされてしまった。
それからブリュンヒルデはその銀の瞳を優しげに細め柔らかく微笑むと畑へと戻って行ってしまう。
その笑顔はとても綺麗で優しくて、だけど嫌いだ。私はその笑顔を見ると、いつだって言い返せなくなってしまうから。
「どうしていつもホークが来るって分かるのかしら」
伝書鳩のホーク、鳩だけれど雨の日も、風の日も、雪の日も、嵐の日も、必ず手紙を届けてくれる強い鳩、だから強そうな名前が良いと子どもの頃に私が名付けた。
彼が言うからにはそろそろ来るのだろう、と空を見上げていたら、遠くに小さい影がこちらに向かって飛んで来るのが見えた。
やはり来た、まっすぐにブリュンヒルデ目がけて飛んでくる。あれはホークで間違いない。
真っ白でとても綺麗な鳩。
生まれつき色素が薄い私に少し似ているけれど、とても丈夫で強いところは全然似てない。
手紙を届ける為だけど、自由に世界を飛び回れるところだって、私とは違う。
そんなことを考えているうちに、ホークはいつの間にかもう私たちの上空までやって来ていた。
ブリュンヒルデが腕を伸ばすと、ホークはその腕に大きく羽根を羽ばたかせながら留まる。
その羽ばたいた風で彼の銀色に透ける髪がふわりと舞って、キラキラと輝くその光景に私はいつも見惚れてしまう。その中性的で端正な横顔は男だというのに綺麗という言葉がよく似合うのだ。
足から手紙を取り外され、ホークは再び空高く放たれた。すると今度は私の方に飛んで来たので、慌てて立ち上がって腕を伸ばそうとした、のだけれど。
「間に合わなかったかぁ……」
ホークは腕を伸ばすより先に、私の頭に着地した。
せっかく朝一番で綺麗に結んだ三つ編みがその衝撃でぐちゃぐちゃだ。渋い顔をしながらもホークを頭から退けもせずその足から手紙を取って、開いた。
月に一度、旅をしているおじいちゃんから手紙が届く。
もう私も子どもじゃないし、別に待ちに待ったとまではいかないけれど、やっぱり読むならさっさと読みたい。
「どれどれー」
クルックーとホークが鳴いて、一緒に私の手紙を覗き込んでいるみたい。
一生懸命手紙を読んでいると、ブリュンヒルデもいつの間にか私の横に来ていて、ホークを頭の上からどかしてくれた。
「ホーク、水場に行っておいで」
ブリュンヒルデのその一声でホークは鳩小屋に戻る。
私の言うことは聞いてくれないのに、全く生意気な奴だ。
「どうだい?」
「まだ帰って来られないって……おじいちゃん、何を探してるんだろう……」
「とても大切な物だよ、エルピース」
言いながら頭を撫でられる。少しだけくしゃりと潰れた手紙をポケットに乱暴に突っ込んで、私はその手を払いのけた。
「子ども扱いしないでってば!」
「あぁ、ごめんね、エルピース」
子ども扱いするなと言っている癖に、なんてガキ臭い八つ当たりだろうか。
けれどもこの気持ちを自分ではどうすることも出来ずに、私は涙を堪えて俯くだけで精一杯だ。
そんな私の頭を懲りずに撫でる優しい手。子ども扱いするなと言ったばかりなのに、全然聞いてやしない。
「そろそろお昼にしようか」
「……うん」
ブリュンヒルデが差し出した手に、自分の手を重ねてぎゅっと握る。
その手はひんやりと冷たくて、泣いた後の目に当てるととても気持ち良い。
別に泣いてなんかいないけれど、半ば強引に引き寄せた。そんな我儘を、ブリュンヒルデは微笑みながら見ていてくれるから。
手を当てて、目を瞑った。
視界が真っ暗になる。
「……っ!! エルピース!!」
ぐらりと。
急に全身に激しい衝撃が走りその激痛に私は足元から崩れ落ちた。
それから頭にとても長い針が突き刺さったような鋭い痛みがして、直後ふわりと体が宙に浮いたような感覚になる。同時に胸が締め付けられて、喉が燃えるような激情が湧き上がってきた。
怖い。
ブリュンヒルデの手はどこ?
怖い、怖い。
嫌だ、助けて。
「―――行かなければ」
それは、ブリュンヒルデの声だったろうか。
気が付けば、視界いっぱいに青空と白い雲が広がっていた。
私は仰向きに倒れこんでいた。世界は変わらず穏やかな風が吹き雲が空を泳いで行く。
何が起こったのか理解出来ず、倒れた時に打ち付けたのか後頭部がズキリと痛んだ。
けれど状況を確認しなければと、上半身を起き上がらせて、私は辺りを見回した。
「ブリュンヒルデ……?」
変だ。どこにもいない。
一体、どういうことだろう。
私はここで眠ってしまって夢でも見たのだろうか。けれども後頭部のこの痛みは、白昼夢では説明が付かない。
「ブリュンヒルデ!!」
立ち上がろうとした途端に、立ち眩む。けれども無理やり立ち上がって再度辺りを見る。
「ブリュンヒルデ!! どこにいるの!? ねぇ!!」
ゲホゲホと咳が出た。大声に慣れていなくて、直ぐに喉が痛くなった。
フラフラしながら山小屋へと歩き出す。もしかしたら先に帰っているのかもしれない。
ここは見晴らしが良いから、辺りにいないということは山小屋に居るとしか思えない。
「ヒルデ……」
何とか山小屋まで辿り着き、寄りかかりながら扉を開く。
狭い小屋だ、声が聞こえない筈が無い。ブリュンヒルデは、必ず返事をしてくれる。
けれども小屋には、静寂が流れるばかり。
私は小屋の中を見て回った、全ての扉を開け、布団の中も見て、けれどもいない。
「そうだ、鳩小屋……」
ホークの様子を見に行ったのかもしれない。
きっとそうだそうに違いない。言い聞かせるように鳩小屋へ走り出す。
まだふらふらしていたから、上手く走れる訳が無くて、足がもつれて倒れこむ。
それでも立ち上がって、外階段を這いずるように登って、鳩小屋のある屋根の上へ。
ブリュンヒルデはいつだって優しかった。
私のことを一番に考えてくれて、いつだって体調を気にしてくれて。
自分のことなんかどうでもいいみたいに、私のことばかりを気にかけて。
絶対に怒らないから、喧嘩だってしたことがない。
彼は困ったように笑うけれど、私を見放したことは一度もない。
そんな彼のことを、自分というものが無いのかと物足りなく思う事もあった。
だから、ブリュンヒルデが、倒れこんだ私を置いて、どこかに消えてしまうなんて――あり得ない。
「ホーク……」
ホークは死んでいた。腹を上に向け羽を広げたままぴくりとも動かない。
恐る恐る触れれば、冷たくて固い。
ホークは死んでいた。
「ブリュンヒルデ……?」
ブリュンヒルデはいなくなった。どこを探しても、見つけることは出来なかった。
私の世界の全てだった、この山小屋と山の上、隅から隅まで探し続けたけれど、真っ暗闇の夜が来るまで探したけれど、どこを見ても見つからなかった。
今日もいつもと同じ朝だった。
私はこの世界を物足りなく感じて、何かわくわくするような事は無いかと、この世界から逃げ出したいと、どこかでそう思っていたに違いない。
見上げた夜空には零れ落ちそうな程の星屑が広がる。
怖いほどに美しい、この満天の夜空が消える頃。
―――いつもと違う朝が来る。
今はただその恐怖と絶望に、私はただ星を見上げることしか出来なかった。
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