そんなことより、先ずはお出になってください

花るんるん

第1話

 ドアを開けると、美しい草原が広がっていた。

 背景には、巨峰の連なりが見える。頂上は、「永遠に溶けない」といった感じの氷でびっしり覆われている。

 だから、草も高山植物なのだろう。膝程度の高さもない。

 それでいて、ピンクの小花も咲き乱れている。

 草原は天気がよく、陽の光がやさしく辺りを包み込んでいる。

 でも、僕の心中は穏やかではなかった。

 むしろ、ある種の憎しみさえ感じていた。

 小川のせせらぎが疎ましい。

 開けたのが、トイレのドアだったから。

 「なぜ?」と問うより、「とにかく」という思いでいっぱいだった。

 近所のコンビニに行っている余裕は、ない。

 僕は、草原に足を踏み入れた。

 辺りには、誰もいない。動物の気配もない。

 ここなら、軽犯罪法の取り締まりもないだろう。

 自然循環として許される範囲だ。

 そう自分に言い聞かせた。

 ええい、ままよ。

 意を決して行為に及ぼうとしたその時、「あの……」と声がした。

 振り返ると、そこに少女がいた。しかも、美少女だ。

 大きく見開いた眼に、くっきりとした鼻筋。大人びた顔立ちのなかに、広いおでことあどけない唇が、まだ幼さを残している。

 それより僕は、翻訳こんにゃくを食べているか、夢を見ているか、どちらかなのだろう。

 外国の言葉が分かるなんて。

 いや、そもそも、どうしてここが外国だと決められる?

 何も知らないのに。

 ――いやいや、そもそも、「とにかく」だ。

 「こんなところで、そんなことをすると、死罪になりますよ」

 「え?」と僕が驚いた表情をすると、彼女も瞬間、「え?」と驚き返した。

 「そんな訳ないじゃないですか。迷子の観光客だって、そんなこと信じないわ」

 彼女はすぐに、にこにこと笑った。

 「わたしはレナ。わたしの家、この近くなの。トイレ貸してあげるから、ついてきて」

 「僕はミチヒロ。よろしくお願いいたします」

 ほんとに。

 そして、ほんとに、レナの家は近くだった。

 焦っていてよく見えなかったが、草原はゆるやかな斜面で囲まれていた。斜面を少し下れば、レナの家だった。

 僕はレナの家族に、挨拶する暇もなく、トイレに向かった。

 ドアを開けると、美しい砂浜が広がっていた。

 エメラルドグリーンの波のせせらぎ。

 地球が丸いことを感じさせる水平線と、絵葉書のような青い空。

 人の気配はない。無人島のビーチなのだろう。

 足を踏み入れてはいけないと直感が告げていた。

 帰って来れなくなる。

 だが。

 しかし。

 「どうしたの?」

 トイレの前に佇む僕をレナが不思議そうに見つめる。

 「どうぞ」

 レナがトイレのドアを開けると、果せるかな、そこにはふつうにトイレがあった。

 「お借りします!」

 今しかない。

 僕は勢いよくトイレに駆け込んだ。


 ああ。


 僕が十分に用を足して、トイレを出ようとしたとき、嫌な予感が襲ってきた。

 ドアを開けると、やっぱり、無人島のビーチだった。

 見なかったことにして、ドアを閉める。

 もう一度開ける。

 ビーチだった。

 「どうしろって言うんだ?」

 もう少しレナと話したかったなと思いつつ、僕はビーチに足を踏み入れた。

 仕方ない。

 トイレで一生暮らす訳にはいかないから。

 無人島で一生もごめんだけどね。

 僕が先ずやるべきことはもう分かっていた。

 それは、水や食料を集めることではない。

 安全な寝床をつくることでもない。

 ドアをつくることだ。

 それに尽きる。

 それしかない。

 しかも、木を切る必要も、倒れた木を使う必要もない。

 ここは、熱帯雨林だ。

 いくらでも、大きな葉っぱの植物はある。

 実際、大きな葉っぱを採取しようと、葉を掴んだら、ドアをつくる間でもなく、葉の後ろに小窓ほどの空間が開いていた。

 空いた空間を覗き込んでも、真っ暗だった。

 ふだんの僕ならけしてしないのだが、やはり無意識は相当に焦っていたのだろう。

 とにかく、飛び込んだ。

 まさに「見る前に、跳べ」だ。

 そして、飛び込んだ先は真っ暗なままだった。

 空間がひどく狭く、上下左右がすぐに世界の限界にぶつかる。

 息も苦しい。

 もう僕も終わりかと思った。でも、あのまま無人島にいればよかったとは思わない。

 どの道、一日ももたなかっただろう。

 最後のせいか、幻聴が聞こえる。天使のささやき声が聞こえてくる。

 ぼそぼそ、ぼそぼそと何か話している。

 僕は、僕の生きた証として、「おーーーいっっ」と叫んだ。

 僕はここにいるよ、と。

 天使たちが振り向いてくれたのだろうか。

 ぼそぼそ、ぼそぼそとの声が、さっきより大きくなってきた。

 〈何か〉が近づいてくる。

 そして。

 僕の目の前が、パアアアッと明るく開けた。

 「脳が変性意識状態になると、知覚が遮断され、眩いばかりの空間に放り出された感じがする」と、何かの記事で読んでいたことがある。

 これがそうなのか。

 と思っていたら、目が周りの明るさに慣れてくると、そこは「眩いばかりの空間」なんかではなく、教会らしき場所の一角で、僕は数十人の老若男女に囲まれていた。

 「具現化した天使を初めて見る」ような、いぶかし気な表情だった。

 その中にレナもいた。

 「どんな手品?」

 何だか知らないけど、めちゃくちゃ怒っている。

 「一か月前にミチヒロが消えて、村から出いった目撃もないから、村中で探したのよ。でも、手がかりなんかなくて、警察も『崖から落ちたかもしれない』と言うしかなくて、仕方なく、からの棺でお葬式していたのに、どうしてそこから出てくるのよっ」

 「ご、ごめん。出てこない方が……よかった?」

 「ばかっ。そんなこと一言も言ってないじゃない」

 ようこそ、おかえりなさい。

 私はパトリックです。

 私はサラよ。

 「紹介するわ。わたしの父と母よ」

 「こ、こんにちわ。その節は、トイレを貸していただきありがとうございました」

 そんなことより、先ずはその狭いところからお出になってください。

 僕は村人たちに、事の顛末を全て正直に話した。

 信じてもらえようが、もらえまいが、構うものか。

 僕は言わずにはいられなかった。

 そして、「今の僕は、ドアを開けるのがとても怖い」ことも伝えた。

 変人と思われようが、構うものか。

 「どうしてそんなこと言うの? 疑わないし、変人だなんて思う訳ないでしょ?」

 「逆に、どうしてそんなに信じてくれるの?」

 自分から聞くような問いではない。

 レナは、分からないといった表情だった。

 「わたしが、同じ話をしたら、ミチヒロは信じてくれるんでしょ?」

 ああ。

 それはまあ。

 「じゃあ、愚問じゃない?」

 そうかもしれない。

 「それよりも、ミチヒロがいたところのこと、もっともっと話して」

 お安い御用だ。


 教会の牧師は「いつか帰れるときが来る」と言う。

 ただ、今の僕は「そもそも帰らなくちゃいけないものなのか」よく分からない。 

 そりゃあ、家族や友達は心配はしているだろう。

 さすがに無事であることは知らせたいとは思う。

 でも、それと「そもそも帰らなくちゃいけないものなのか」は別の話だ。

 どうして僕がこんなにも村人にあたたかく迎い受け入れられているのか不思議だ。

 「あたたかい? ふつうよ」とレナは言う。

 ふつうって、何だ?

 いい歳して、中二病めいたことを言う。

 「いいじゃない? 中二病だって」と妻は言う。「それが、麗奈ちゃんの名前の由来なのね?」 

 あれからほどなくして、目が覚めたら、僕はふつうにこの世界に戻っていた。

 「絶対信じていないだろ?」

 「絶対信じてるわよ」

 僕は狡い男だ。

 僕はこの世界で妻と娘がいないと生きていけないくせに、レナの村に行ってもいいと思っていやがる。

 レナの村に行きたい。

 レナに会いたい。

 「ミチヒロの話、もっともっと聞かせて」

 トイレに行く度に僕は期待してしまう。

 あの出会いがまた訪れるなら、限界まで我慢するのもアリだ。




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そんなことより、先ずはお出になってください 花るんるん @hiroP

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