第292話 牧師は熊さん


 杏里の変身中、俺は特にやる事が無い。

浮島先生はずっと杏里に付きっきりで、俺は放置されている。

鏡越しに見える杏里は、何度見ても綺麗だ。


 素のままでも十分可愛いし、それでいいと思っていたけど、化粧の力はすごい。

しかし、そこまで魅力を引き出せる先生の腕も相当なもの。


――コンコン


「はい」


 浮島先生が杏里の瞼に何かつけながら返事をしている。


『熊田です』


「どうぞ」


 お? 熊さんの声だ。

普段は保健室にこもっている事が多いが、何しに来たんだろ?


「お、早速やっているんだね。黒金さんとの打ち合わせが終わったよ」


 俺の隣の椅子に座る熊さん。やや小さめの椅子は悲鳴を上げている。

手にはファイルを持っており、杏里と浮島先生の後姿を眺めている。


「お疲れ様です。どうでしたか?」


 心なしか浮島先生の声色が変わったような気がした。


「無事に終わったよ。まさか、牧師の役をやる事になるとは思ってもいなかったからね。いろいろ話を聞けたし、例の物ももらえたよ」


 今回のイベントで、牧師役をどうするか演劇部のメンバーと打ち合わせをしていた。

演劇だったら生徒でもいいかもしれないが、適任者が中々でなかった。


 そこで白羽の矢が刺さった熊さん。

生徒からの人望もあるし、体格もそれっぽい。

牧師様の服を着せたらそれっぽくなるのでは? と言う事で準備した服を着せてみたらびっくり。

まるで本物の牧師様になった。


 先生に相談し、イベントの重要な役者である牧師様を熊さんに依頼をしたのだ。

熊さんも今回のイベントには結構乗り気で、すんなりと承諾してくれた。


「それは良かった。今、お持ちで?」


 浮島先生は熊さんに問いかけると、熊さんはファイルを開く。

一枚の紙。そこには『結婚証明書』と書かれている。

浮島先生が手を止め、熊さんの方に歩み寄る。


「姫川さん、こっちに」


 椅子に座っている杏里も呼ばれた。

熊さんの手にはシンプルだけど、重みを感じる一枚の紙。


「これが、結婚証明書……。本物ですか?」


「そう、さっき黒金さんから頂いた。実際に式場で使っている物と同じものだよ」


 挙式で使用する結婚証明書は俺と杏里の名前を書く予定だ。

当日まで牧師役の熊さんに大切に保管してもらう。

それこそ金庫に入れてもらいたい位だ。


「本物……。ドキドキしますね」


 杏里の目が輝き、興味津々に一枚の紙を見つめている。

ちなみに、そんな杏里を見ている俺もドキドキ中。

手をもじもじさせながら、頬を赤くしている杏里の仕草が可愛い。


「今から緊張してもしょうがないよ。何回かリハーサルもするし、当日緊張しないようにね。特に天童君は」


「俺ですか? 俺はここ一番に強いんで大丈夫ですよ」


「そうかい? それならいいけど、署名する場所を間違ったりしないでくれよ? 新郎が先に署名するんだからね」


「分かってます。リハーサルでコピーに署名しますよ」


「コピーするの?」


 何となく杏里の顔が曇る。


「ダメなのか?」


「ダメ、じゃないけど。なんとなく、コピーしたくないような気が……」


 なんでだろ? 別にただのコピーなのに。

杏里もたまに変なこと言うよな。


「姫川さん、その気持ち分かるわ。だって、コピーしてしまったら何となく偽物っぽくなるもんね」


「えっと、偽物っていう訳ではないんですけど……」


「ほら、天童さん、ここは男らしくぶっつけ本番で署名しなさい」


 先生に押し切られた。

ま、署名位ぶっつけ本番でも大丈夫ですけどねっ!


「分かりました。杏里、当日本物の結婚証明書に署名をするよ。それでいいかな?」


「うんっ、ごめんね。私の我儘聞いてもらって」


「そんな事無いよ」


「では、結婚証明書は当日まで保管しておくよ。次に見る時は本番だね」


「はい、よろしくお願いします!」


 そう話した熊さんは部屋を出ていく。

そして、浮島先生も熊さんを見送っているが、なんだか表情がさっきと違う?


 なんかポーッとしているような、していないような。

……まさか、そんな事無いよな?


「さ、姫川さん続きをしましょうか?」


「はいっ! お願いします」


 再び化粧台に戻った二人。

本当に女の子って大変だな。

それに比べて男って……。


――


「よしっ! これでいいかしら?」


 終わったようですね。

長い戦いでした。


「先生、ありがとうござます。お化粧ってすごいですね、こんなに変わるなんて……」


 鏡を見ている杏里。杏里を見ている俺。

まったく杏里は俺の心を何個盗めば気が済むんですか?


「どう? 司君。綺麗になったかな?」


「聞くまでもないだろ?」


 笑顔を俺に向けてくる杏里。

もはや言葉はいらない。


「ふぅー、なかなかやりがいがあるわね。次、行くわよ」


 はい?

先生は杏里の手をとり、部屋を出ていってしまった。

ちょっと、俺にも声かけてくださいよ。

一体今度はどこに行くんですか?


 着いた先は手芸部。


――コンコン


「浮島です、姫川さんと一緒だけど、入ってもいいかしら?」


『どうぞー』


 中に入ると、すでに準備していたのか部員達がそろっている。


「姫川さん、綺麗!」


「お化粧してきたんでしょ。可愛い!」


「髪も綺麗に編み込まれているし、準備ばっちりね!」


 部員達の声が響く。

既に俺の存在は無いに等しい。


「メイクと髪、全体的なイメージはこんな感じね。これをベースにお願いします」


 浮島先生の目が、顔が真剣だ。

部員達もさっきまで大騒ぎしていたのに、今はみんな真剣な顔つきになっている。


「天童さん、もういなくてもいいですよ?」


 前回同様追い出された。

まったく、俺の扱いって何なんだよ……。

扉越しにみんなの声が聞こえてくる。


『まずは、着替えからねっ』


『ティアラとアクセサリ、それとベールも準備して!』


『姫川さん、こっち! 早く!』

 

『ご、ごめんなさい。すぐ行きますっ』


『ちょっと待って、先にこっちを!』


『準備はまだなのっ!』


『まって、もう少し。ドレスは二着ともですか?』


『当たり前でしょ! ドレスに合わせて装飾品も変えるのよっ』


『分かりました!』


 な、中からものすごい声が聞こえる。

男の俺はいない方がいいだろう。

しかし、部員達の杏里に対する言葉。


 綺麗、可愛い。俺もそう思うよ。

しかし、俺に対しての言葉は何もなかった。

結婚式って本当に女の子の一大イベントなんだな。


 改めて思ってしまった。

みんな当日に向けて頑張っている。


 残りあと数日。

当日の流れもほぼ決まった。

各部も練習や準備をしっかりとしている。


 きっと遅れる事は無いだろう。

主役は杏里。そして俺。


 俺達のイベントに多くの人が関わり、協力してくれている。

本物の結婚式もきっと、大勢の人達が協力してくれた上で成り立っているんだ。

今、俺達のしている事は絶対に無駄にははならない。


 俺と杏里。

そして、イベントに参加する生徒や先生。

きっと、見に来てくれる大勢の人も何かを感じてくれるはずだ。


 その何かを、テレビを通じて知ってもらってもいいのかもしれない。

自分の中で答えは出た。




 そして、その日の帰り。

俺と杏里は浮島先生に取材を受ける事を伝える。

多くの人に、俺達の想いを届けたい。


 

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