第31話 惚れた女
「私は、この下宿に残ります」
その一言を聞いた俺は、内心ほっとしている。
自分でもなぜ、そのように思ったのか分からない。
でも、間違いなくほっとした自分がそこにはいた。
「お父さんの事は嫌いではありません。自宅に戻っても良いと思います。でも、自分を変えるきっかけが、新しい環境がここにはあります。きっと今までの自分より、成長できそうな気がするんです。わがままかもしれません、お父さんに寂しい思いをさせるかもしれませんが、私はここに残ります」
少しだけ沈黙の時間が流れる。
姫川の眼に宿った決意はきっと揺るがないだろう。
「分かりました。では、杏里さんは近日中に住所変更など手続きを済ませておいてくださいね」
今井さんは、手元にあった書類をバッグに入れ、新しく一枚の紙を姫川に渡した。
「これは?」
「住所変更とか、この後にした方がいいと思われる手続き関係をまとめました。引っ越しとか、一人ではした事がないと思いまして」
渡された紙一枚を見つめる姫川。
横目でチラッと見たが住所変更や郵便物の転送届など引っ越しにかかわる手続きが箇条書きで書かれていた。
俺もここに引っ越してくるときに親と一緒に役所とか行って、色々とやった記憶は新しい。
「分かりました。早めに対応します」
姫川は二つに折った紙を手元に残し、紅茶を一口飲む。
「では、私の方からは以上ですね。もし、また何かあれば名刺にある連絡先に。できるだけ力になりますよ」
そう話した今井さんは席を立とうとしている。
「もう帰られるのですか?」
「ええ、この後も回らないといけないクライアントが。では……」
「玄関まで送りますね」
席を立ち上がった今井さんの後に続き、姫川も席を立つ。
父さんも席を立ち、今井さんに向かって軽く頭を下げる。
「今井さん、色々とうちの息子がお世話になりました」
「いえいえ、そんな事無いですよ。何かあったら連絡を」
「今井さん。ありがとうございました。本当に助かりました」
俺も席を立ち、今井さんに頭を下げる。
「司君もこれから大変かもしれないけど、頑張ってね」
にこやかに笑みを浮かべながら、俺に声をかけてくれる。
その笑みには優しさも含まれているかもしれないが、目は笑っていなかった。
今井さんを送るために、玄関まで姫川が送っていく。
俺は父さんと二人席に着く。
しばし沈黙が続く。
互いに何か話そうと思考を巡らせていると思われるが、何から話せばいいのか……。
「司。正直驚いたぞ。クラスメイトと聞いていたが、まさか女の子だったとは……」
確か、電話で伝えたような気がするが、言っていなかったような気もする。
まぁ、問題はないだろうと勝手に思い込んでいた俺が悪いな。
「あれ? 言っていなかったけ? 今さらだけどクラスメイトの女子だよ」
「本当に今さらだな。いいか、間違っても間違いを起こすなよ? 言っている意味は分かるな?」
普段から怖い顔つき、そして鋭い眼光の父上は、仁王のような顔つき、さらに目線で人を委縮させるくらいの眼力で俺に向かってその言葉を放つ。
いやいや、やめて下さい。本気で怖いんですけど。
「だ、大丈夫です。問題なんかこれっぽちも起こしません! 父さんとの約束だって、きちんと果たしますから!」
「そうか、それならいいが……。ところで、この最中、もうないのか?」
「ほら、俺の最中まだ手を付けてないから、どうぞ」
「悪いな」
最中を目の前に父さんはニタっと笑みを浮かべ、俺の最中に手を付ける。
どんだけ最中好きなんですか?
父さんは最中を口に運びながら、再び俺に問いかけてきた。
「ところで、姫川さんは随分かわいい子だな? 惚れているのか?」
「ぶほぅっ!」
紅茶を飲みかけていた俺は思わず吹き出してしまった。
俺の聞き間違いでは無ければ、惚れているのか聞かれたと思われる。
「お、俺が姫川を?」
無言でうなずく父さん。無言なのは、きっと口の中に最中が入っているからだ。
俺は姫川に惚れている? 好きなのか? 好きってどんな感情だ?
俺がイライラしたり、ほっとしたりしているのは好きって事なのか?
いや、違う。イライラしたのは自分の力が足りなかった自分に対してだ。
ほっとしたのも、きっと自宅に戻った姫川が一人になるのをただ同情しただけだ。
きっと俺の中にある感情は『好き』ではない。ただのクラスメイトに対する『同情』だ。
「分からん。惚れるとか俺にはまだよくわからないな」
「そうか……。男は惚れた女を守る。そういう生き物だ。司、惚れた女を守れる男になれよ」
「わかった、わかった。そんな惚れた女がいたら守れるようになるよ」
俺は父さんの言葉を適当に流しながら飲みかけの紅茶を再度口に運ぶ。
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