第25話
あの日のやり取りをぼんやりと思い出しながら、僕の背中を引っ張るハルを見た。
僕を掴むハルの力は衰えることなく、むしろ絶対に逃がさないといったように強さを増しているようにも感じられた。
僕がリュートにこれ以上関わることを、ハルがあまり乗り気ではないことは何となくわかっていた。だからこそ、こうして面と向かって止められるといい加減な返事をしてはいけないと強く思ってしまう。
それに、これは僕だけの一存で決断できることではない。リュートも言っていたが、僕の命は僕だけのものじゃない。僕のことを強く想っているのは僕だけじゃないのだ。
「私はヒロには死んでほしくない……ううん、それどころか、危ない目にだってあってほしくないの。だから、ここがもし分かれ道だとしたら、私はヒロには手を引いてほしい。リュートのことがどうでもいいわけじゃない。それ以上にヒロがどこかに行ってほしくないの」
僕のことを掴むハルの手が小刻みに震えているのが見えた。その手を優しく取って、僕はハルに向き合う。
「ハルが僕のことを大切に想ってくれてるのは嬉しい。だけど、やっぱり僕はリュートのために何かをしたいんだ」
ハルの手を僕の両手で握りながらハルの返事を待つ。
すると、ハルは僕の手を振りほどいて頭を振った。
「誰かのためにじゃない……」
「え……?」
「ヒロは優しいから、いつも誰かのためにって思いながら生きてる。リュートのためにって思ってるその心に、ヒロのことは……自分のことはどれくらい入ってるの?」
「それは……」
僕が応えるよりも早く、間髪入れずにハルがまた話し出す。
「私は、全部誰かのためになんて思えない。だから、今だってヒロのことを、私の勝手な考えで止めようとしてる。でもそれは、リュートが関わるなって言ったからじゃない!」
早口でまくし立てるハル。その口調は言葉を発するごとに強くなっている。
「私は……私のために、私が大好きなヒロのために、ここで手を引いてほしい。ただ、ただそれだけで……ヒロだけが私の大切だから」
加速していたはずのハルの口調は次第に失速していき、遂には弱弱しく俯いてしまった。
「ハル……ありがとう」
「ありがとう……?」
俯いていたハルが顔を上げる。思いを吐き出したからか、その顔は今にも泣きそうで瞳には涙が溜まっている。
「ハルが僕のことをどれだけ大切に想ってくれているか知れた。ありがとう」
瞳に溜まった涙を手で拭い、ハルの顔が少しだけ晴れやかになる。
「それじゃあ――」
「でも、やっぱり僕は手を引きたくない。そこは何が何でも譲れない」
「どうして……?」
「僕にできることがあるから」
「…………」
「ハルは僕が優しいと言ったけど、僕は決して優しいわけじゃない。誰かのために何かをすることは、優しさからできる行動じゃないんだ。僕はただ正しくありたいんだ」
「正しい?」
「いつか、リュートが僕らの前から去った時、僕がそれを心から喜ぶために、僕は正しくありたい。困った人を助けるのは優しさじゃない、正しさなんだ。誰かのためじゃなく、僕は、僕が僕であるために正しくなりたいんだ」
「でも……」
まだハルは納得がいかないという顔をしている。きっと僕らの意見は合致することはない。けれども、僕もここで引くわけにはいかないのだ。
「ごめん、ハルの言ってることはきっと正しい。でも僕は後悔だけはしたくない。あの時こうしていればとか、そんなことは思いたくないんだ」
ハルの肩に手を置きそれだけ残して、点滅する信号を速足で渡った。
後ろからハルが僕を呼ぶ声が聞こえるが振り返らない。ハルと決別したわけではないが、ここで振り返ってはいけないと、そんな気がしたのだ。
信号を渡ってからずっと真っすぐ進んでいく。魔物のいるという感覚は徐々に強く大きくなり、それが確実に魔物に近付いているという確信を実感させる。
どういうわけか、無意識に魔物の感覚を受けると体がだるくなってくるが、そこにいるという意識を持っていれば、むしろ鼓動は速くなり汗が溢れてくる。まるで緊張しているかのようだ。
いや、これは緊張と言うよりも好奇心に近い。
今まで自分が知らずに通り過ぎていた存在を認識できたことによる高揚と、それがまるで神秘的な何かと思ってしまう感覚。これはきっと好奇心なのだ。
どれだけ危険なものだと分かっていても、自分の命が脅かされることだと分かっていても関わらずにはいられない。やはりそんな心が僕の中にはあるのだ。
僕のため、リュートのためと言うのはもちろんだが、僕の行動原理は――深層心理は止められない「好奇心」というものなのかもしれない。
何度か曲がり角があったが、ずっと真っすぐ向かって行く。距離的には曲がって言った方がそれに近付きやすいという実感はあったのだが、まっすぐ進みたかった。
すると突き当りに直面した。魔物の感覚を頼りにそこを左に曲がって進んでいく。まもなくして魔物の発生源と言えるのであろうその建物に辿りついた。
だが、それと同時に僕は驚いた。
よもやこんなタイミングでもう一度来ることになるとは。
まさかこんな状況でまた出会うことになるとは。
僕が魔物を探してたどり着いた先は――例の廃ビルで。
僕の目の前で立っていたその人物は――ハルだったのだ。
僕の方は驚きを隠せずにいるが、ハルはというとそんなこともなく僕を見据えるばかりだ。
偶然、と言うことはないのだろう。それに、ハルをよく見ると頬を紅潮させていて息も荒く肩を上下させている。
どうやら僕を追いかけてきたようだが、僕と違う道を行ったせいだろう。僕とハルは向かい合うように対面した。
しかし、ハルは僕に「人の顔は正面から」とか言っていた。もしかしたらハルはあえて僕と向かい合うように道をたどってきたのかもしれない。
もしそうだとすれば。
「…………」
「…………」
ハルの呼吸が落ち着いてきたのを見計らって僕が言う。
「どうして、ここに?」
僕を見るハルの眼は何度か戸惑うように迷走していたが、少しして今度はしっかりと僕のことを見定めた。
「私、やっぱりヒロのことは放っておけない。だから……だからこれが最後」
「…………」
「ヒロはそれでもリュートを助けたいって思うの?」
「……ああ。それでも僕はリュートを助けたいって思ってる」
「そっか……」
緊張が解けたようにハルの肩が下がった。廃ビルへ向かうためハルの横を通り過ぎる。
しかし、その時みたハルの目に僕はつい足を止めてしまった。
「ハル……?」
ハルは僕と意見が合わなかったことを失望するでもなく、悔しがるでもなく、涙を浮かべるわけでもなく、ただ――何かを決意したような強い炎を目に映していた。
「だったら……」
立ち止まった僕の方を振り向いたハルが、僕の両腕を強く掴んだ。
「だったら私も助けたい。リュートを」
「それは、どういう……」
意外だった。と言うか論外だった。
ハルは僕がリュートに関わることを反対していたし、当然ハル自身も関わろうとは思っていなかったはずだ。
そんなハルが助けたいと言うなんて、そもそも考えてもいなかった。むしろ好都合だと思っていた。ハルが危険に晒されないのなら、それが一番なのだから。
「そりゃあ、ヒロには危険なことはしてほしくないけどさ。でも……分かっちゃったから」
「分かった?」
「ヒロがリュートを助けたいって気持ちはきっと、私がヒロを止めたいって気持ちと一緒なんだ。自分の何を投げ出しても力になりたいって気持ち、それを知ったら私にはヒロを止めることはできない。だからせめて、私もヒロの力になりたい!」
「でもそれだとハルも危険な目に――」
言おうとしていた僕の言葉はハルが強引に遮った。
「ヒロがリュートのために止まらなかったように、私もヒロのために止まらない!」
ハルの視線が僕に突き刺さる。そして僕は理解した。
ハルの決意の正体はこれだったのだ。誰かのために自分を投げ出してでも力になること。それを決断したからこその覚悟だったのだ。
だけどそれは並大抵のことではない。自分が死んでしまう可能性だってあるのだから、簡単に決断できるわけがないのだ。それがどれだけ難しいことか、同じ決断をした僕には理解することができる。
ああそうか、ハルが言っていたのはこれだったのだ。誰かの力になりたい。そんな純粋な思いを知ってしまえば、僕にも今のハルを止めることはできない。
だけど。
しかし。
それでも。
やっぱり。
「僕はハルを止めはしない。だけど危険なことだけはしないって約束してくれ」
ハルに向かって手を伸ばした。
いくらハルの気持ちを尊重したってこれだけは譲れない。ハルが危なくては全くの意味がないのだ。
「わかった、そうする。でも私にも約束してほしい……危険なことだけは、しないで」
そう言ってハルは僕が伸ばしたよりも高い位置に手を伸ばした。
「……わかった」
僕が答えると、僕らはどちらからでもなく互いの手を取り合った。
少しして僕らは隣に佇む廃ビルを見上げた。
「ほんとに行くの?」
廃ビルの入り口を前にして、ハルが僕の袖を引っ張った。
「うん。リュートに会えるかもしれない。けど、もしリュートがいなければすぐに引き返す……それでいいか?」
顔だけハルに向けて訊く。互いに危険なことはしないと決めたのだ、無力な僕らが魔物と出くわすわけにはいかない。
「まあ、それならいいけど……」
「よし。それじゃあ入るぞ」
ハルの了承を得て僕らは廃ビルの中へと入っていく。
相変わらず廃ビルは暗くて、割れた窓から入る光だけが光源になっている。そして撫で回すような嫌な感覚をもたらす風。この廃ビル独特の空気感が全身を身震いさせる。
いつかリュートを追いかけて入った時と同じ感覚だ。
一度ここに入ったことのある僕ですら悪寒を感じるのだ。初めてのハルなんて当然。
僕の腕にしがみついていてもおかしくはない。
「ハル、大丈夫か? なんなら僕一人で」
「大丈夫。足手まといにはならないから」
僕の腕から手を離したハルは、威勢よく前を歩き出した。
その後ろ姿に僕は満足して、辺りを見渡す。
廃ビルの中は以前に来た時となんら変わっておらず、相変わらずの殺風景だった。
「ハル、二階に行こう。こっちだ」
先を行くハルに声をかけて僕はエスカレーターの方へと向かう。
エスカレーターも当然ながら動いていることはなく、僕らは動かないエスカレーターを自分の足で登っていく。
ハルがエスカレーターを登り切り、二階に足をつけた時だった。
強い振動とともに大きな音がビル全体に響き渡った。それも一度ではなく、その音と振動は連続的に何度も発せられている。
何かが崩れ落ちるような重たく激しい音。その音に僕らは身をこわばらせるが、すぐにその音がどこから聞こえたのかを探った。
「上の方から聞こえる。それもすぐ近くで」
ハルが耳を澄ませている。たしかに音は上から聞こえる。それもハルが言う通りすぐ近くに。
「すぐ上、三階だ」
ハルと互いに頷き合って僕らは三階へと駆け上がっていく。そういえばリュートを追ってこの廃ビルへ来た時も、リュートと会ったのは三階だった。もしかしたらこの廃ビルの三階には何かしらの縁があるのかもしれない。
三階へと登った僕らは、すぐに音のする方へと向かっていく。廊下を渡りいくつもある小会議室を通り過ぎると、まもなく一本の長い廊下を抜けた。
そこからは今も先程ではないが音と振動が絶え間なく響いている。
「リュート…………?」
勢いよく叫ぼうとした僕の声は、僕の目の前に映る光景とそこに佇む二つの影を見て、どんどんと小さくなっていった。
僕の眼前では西側の壁が大破していて、西日が何にも遮られることもなく部屋の中に入り込んでいる。
そしてその光に照らされ、リュートではない他の二人の人間のシルエットが僕の視界に入り込んだ。
一人は大きく空いた壁の穴から吹く風にトレンチコートを
ハルよりも断然小さな、子供のようなシルエットをしているもう一人の人影は、
「誰か来たと思って音立てたのに、うちの期待とは全然違うやつが来たって感じやな」
と、僕らのことを凝視した末、顔に笑みを浮かべながらトレンチコートの方へと話しかけていた。
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