第21話 Lonely Laundry――すすぎ
田舎特有である電灯のうっすらとした灯りを頼りに住宅街を自転車で駆け抜ける。左腕に着けた腕時計をちらりと覗いた。時刻は午後の七時四十分。
普段であればそろそろ晩ごはんを食べようかという頃合いなのだが、今日に限って僕はこんな時間に自転車を漕いでいる。
目的地は、僕が昔にハルと探検をしている時に見つけたコインランドリーだ。
一人で晩ごはん仕度をして、丁度食べる頃合いにハルを誘ってご飯を食べる。別にその流れでもよかった。それでもほんの少しはハルの心の支えになれただろう。
しかしどうだろう、本当にハルがしてほしいは何なのだろうか。
僕は考えた。
きっと、あんな風に感傷的になっているハルを一人にしてはいけないのだ。ハルに今寄り添ってやれるのは僕だけで、ハルが今寄り添ってほしいのは、きっと僕なのだ。
こんなことは僕の勝手で傲慢な想像なのだろう。けれども、僕はハルがいてほしいときに側にいると二年前のあの日に誓ったのだ。
それに、ハルが僕に好意を抱いてなかろうが、僕の傲慢な想像であろうが、ハルのことを一番理解できるのは僕だけなのだ。だって僕は二歳の時からハルと一緒にいるのだから。
そう思うと、ハルを一人にしてはいけないと思ったのだ。ハルはきっと僕が想像しているよりも、あの日のことを引きずっているのではないかと、そう考えてしまう。
自転車を走らせて数分後、目的地であるコインランドリーを目視できる距離にまで近づいて僕は異変に気付いた。
「…………」
体が重たい。
気だるげというか、鬱屈としているというか、まるで地球の重力が強くなったかのように体が地面に引っ張られる。
それはコインランドリーに近付くにつれて段々と大きく、強くなっているように感じる。とてつもなく不思議で異常な感覚だ。
しかし、この感覚には見覚えがある。
身に覚えがある。
――リュートを追って向かった廃ビルで。
――好奇心を止められず入った教室で。
化物と出会った時と似たような感覚を僕は今感じているのだ。
だとすれば、この感覚が本物だとしてコインランドリーに化物がいるのだとすれば、ハルは一体どうなっているのだろうか――。
「ハル!」
考えている最中にでも体が勝手に動き出した。
自転車を大急ぎで漕いでコインランドリーへと向かう。その間に僕はポケットから携帯電話を取り出していた。
意識はしていなかった。しかし本能というものなのだろう。
僕はこの状況を確実に打開できる一手を本能的に呼び出そうとする。
電話帳からリュートの名前を見つけ出し、間髪入れずに電話をかけた。四回ほどコールが続いたあとでリュートが電話に出た。
その声はどことなく面倒くさそうに聞こえる。
「はい……どうしてヒロ」
「リュート今から出てきてくれ!」
「……いま世界を救うので忙しいんだ。後にしてくれ」
いつも通りと言えばいつも通りの態度が、緊迫しているこちらの状況とかけ離れすぎていてつい苛立ってしまう。
「どういうことだよ!」
「ゲームの最中だ。スライムが村人を襲っている」
「こっちはリアルなんだよ、化物が現れてんだ!」
僕がそう言うとリュートはようやく僕が置かれている状況を理解したようで、声色が少しだけ重たくなった。
「だったら放っておけ、明日にでも俺が片しにいく」
「それじゃ駄目なんだ。今すぐ来てくれ」
「……どうして?」
「ハルが、巻き込まれているかもしれない」
僕の声はあまりに悲愴だっただろう。普段から冷静なリュートが、息を詰まらせていることが電話越しでも感じられた。
その後にリュートのため息が聞こえた。いつも通りやる気のなさそうなため息だ。
「……わかった。今から向かう」
「ありがとう。場所は――」
言いかけていたがリュートが僕の言葉を遮った。
「大丈夫だここからでも分かる。それほどに強い気配だ、俺が行くまで気を付けろよ」
「リュート……」
「なんだ、他にも何かあるのか?」
「ありがとう」
それだけ言って携帯電話をポケットに入れる。電話が切れる瞬間、微かに聞こえたリュートの鼻笑が僕の心に安心をもたらしていた。
通話が終わって数秒後ようやくコインランドリーの前まで辿りつく。自転車を適当に置き去って扉の前まで駆け寄った。
ガラスの扉から中の様子が少しだけ確認できる。
明かりは付いているが稼働している洗濯機は手前にある一台だけのようだ。
そして壁に沿うように置かれているベンチには誰も座っていない。
しかし、化物がいる感覚は先程から止むことはなく、この中にいることは確実だった。
慎重に扉を開けて中を確認するも、やはりハルはいなければ化物もいなかった。
「見ただけじゃ分からないか」
以前の体育倉庫のこともあり、もしかしたら気付かないだけかもしれないのだ。それにハルがいないことはやはりおかしい。
そう思って中に入ると何かが僕の靴に当たった感触があった。一瞬驚いたが深呼吸をして蹴った物を確かめる。
「これはもしかして……」
床に転がっていたのはハルの携帯電話だった。そして、床を見たことで僕は新たな異変に気がついた。
壁に沿って置かれているベンチの下。僕が蹴った携帯電話が転がった先の床が、円状に一部分だけ異様なまで黒ずんでいたのだった。
ただの黒染みではない。もはやこれは、暗闇。
そう形容するに相応しいほどに禍々しくて、邪悪で、不吉で、不穏な不気味さを周囲に解き放っていた。
一歩また一歩と少しずつその暗闇に近づいていく。
床に拡がる暗闇の真上に来たとき、僕の視界には一つのシルエットが見えた。
暗闇の中からうっすらと見えるそのシルエットを目に収めたと同時に、僕は思わず暗闇の中に飛び込んだ。
「……ハル!」
果たして暗闇の中に入れるのかどうか判断できなかったし、そもそも暗闇が一体何なのかも分からなかったが、これを飛び込まずにはいられるだろうか、いいやできない。
暗闇の中に沈みゆくハルを見たとき、僕は何を置いてでも真っ先に助けに行く。それだけの覚悟が僕にはあったのだ。
――暗闇。
そこは、この世の果てのような黒がどこまでも永遠に続いているような世界だった。
平衡感覚はなく、かと言って浮遊感があるわけではない。あえて言うなら水の中。
しかし呼吸ができるのだから水の中でも、地中というわけでもないようだ。ただ感覚だけで言い表すなら水の中という表現が一番適切なのだろう。
沈みゆくハルを追いかけて。そんな暗闇の中を僕はどんどんと潜っていく。
「ハル!」
その名を呼びはするが反応はない。聞こえていないのか意識がないのか、それでも僕は呼び続けずにはいられなかった。
「……ハル! ハル!」
何度か呼び掛けた末、ハルがちらりとこちらを振り返った。意識はあるし僕の声も聞こえているのだ。
しかしその目は虚で僕を見定めているとは言えない状態だった。それでも必至に手を伸ばしながら、ハルを追いかけてさらに下へと潜っていく。
「ハル! こっちだ手を掴め!」
声だって聞こえているのだ、この手がハルに見えないはずがない。そして見えているのならハルはきっと僕の手を掴んでくれる。僕はそう確信しているのだ。
「頼む」
そう懇願していると、まだ焦点の合ってない目をしたハルがゆっくりと僕の手を掴み取ってきた。
「ハル……!」
しかしハルと繋がった瞬間、僕の頭の中にとてつもない量の何かが流れ込んでくる。
これはなんだ。何か、抑えきれないほどの何かが洪水のように僕の頭を駆け巡る。
「…………!」
これは感情だ。
ずっと胸の内に秘められていたハルの感情が、こうして繋がっている僕の中に流れ込んできている。
寂しさが、悲しさが、虚しさが、憂鬱が、不安が、喪失感が、ハルが持つありとある感情が、いやそれだけではない。
その奥に隠された本当の思いさえも一緒くたになって僕に流れ込んでくる。
これを知ってしまっては。
こんなことを知ってしまっては。
僕はもう――。
「まってろハル。今すぐ救ってやる、掬い上げてやる」
もう一度ハルの手を強く握りしめ、水中から水面に向かうように闇の中を浮上する。
そうして僕はハルを地面へと引き揚げた。
「ハル!」
名前を呼びながらその肩を揺さぶると、虚だったハルの目は次第に光を取り戻していった。
「……ヒロ」
「ハル!」
思わず僕はハルに抱きついていた。ハルはいまひとつ状況を掴めずに呆れている。
いやもしかしたら、ハルは状況を整理しているのかもしれない。ハルは僕が伸ばした手を掴んでくれた。
それはつまり、朦朧としていても意識はあったということなのだ。
「…………」
「ごめん。本当ににごめん」
ハルをさらに強く抱きしめる。ハルはそれに対抗することはなく、むしろ抱き返してきた。
僕の背中に回されたハルの腕は微かに震えている。きっと僕も同じだろう。
「どうして……?」
「ハルが僕に気を使うことなんてしなくていいんだ。ハルの傷も寂しさも悲しさもどんなに辛いことだって、僕が全部受け入れるから。僕が傷付いたっていい、寂しいことも悲しいことも辛いことも全部一緒に分かち合うから、僕がずっと隣にいるから」
考えが纏まらず滅茶苦茶に言っているだけだったし、ハルに僕の言葉が全て届いているのかもわからなかった。
しかしそれでも、抱きしめたハルを二度と離さないという思いだけは持っているつもりだった。
「どうして、どうしてそんなこと言ってくれるの……」
そう言ったハルは泣いていた。きっとあの暗闇の中でハルも何かを感じ取っていたのだろう。
そうこれだ。僕はこれがいいのだ。
どんな感情だって二人で分け合える。そんな二人で僕はいたいのだ。
「ずっと、ずっと一緒にいるって決めたから」
「ひろぉ……」
泣きじゃくるハルをもう一度強く抱きしめた。
「ハル、とりあえずはここから――」
抱いていたハルを離して立ち上がろうとした時、後ろから感じた嫌な気配で現実に引き戻された。
そう、まだハルを謎の暗闇から引き揚げただけで、化物の気配が消えたわけではなかったのだ。
「ヒロ?」
向き合ったハルが涙目になりながら首を傾げている。この反応からするとハルは化物の存在を知らないのかもしれない。
いや知っていたとしても、化物を見つけたときに状況を打開できるのはリュートしかいないのだ。
ならば僕が今するべきことは、まず化物が何処にいるのかを見つけてリュートが来るのを待つことだ。
「よし、ハルはまずここから逃げてくれ」
ハルの肩を持ってそう促した。しかしハルは僕の後ろを見つめて動こうとはしない。
そして、茫然と一点を見るハルが僕の後ろを指さした。その手は何故か震えている。
「ヒロ、あれ……」
嫌な予感がする。
そう考えながら恐るおそる後ろを振り向いた。
「!」
思わず絶句してしまう。
そしてそこにいた化物の姿を視認した僕は、すぐさまハルの手を取って扉に向かって走り出した。
しかし逃げ出そうとした僕らをその化物が行手を阻んだ。横から僕らを追い抜いたのではない。
上から。
天井を這って。
自慢の脚を駆使して。
甲虫のような化物は僕らの前に立ちはだかったのだった。
ムカデのように長い胴体をしているその化物は、僕らを威圧するように鋭い牙を打ち鳴らす。
「……!」
それを威嚇行為だと分かっていても、その行動は僕らを唖然呆然とさせるには十分すぎた。
「ヒロ!」
ハルがすがるように僕の片腕を掴んだ。
考えるまでもなく、僕はハルを守るように化物の前に立ちはだかる。しかし本当に、どうしようという考えがあるわけではない。
とにかく時間を稼がないといけない。リュートが来るまでハルを守りながら。
化物の動きを警戒しながら背中越しにハルに言う。
「ハルは奥に逃げろ!」
「でも、ヒロは!」
「安心しろ。もう少しでヒーローが来てくれるさ」
少し振り返ってハルに笑顔を見せてやる。その笑顔みたハルは、頷いて言われた通りにコインランドリーの奥まで逃げていった。
それを見届けて僕は改めて化物に向き直る。
「よし、こいよ
??????????????
何を言っているのかは自分でもよくわからない。
しかし、軽口を叩けるくらいには余裕が持てていることを実感できたのはいいことだろう。
僕が叫んで威嚇したこともあって、ムカデ型の化物は体を反るように持ち上げはじめた。
そして、化物は僕にのしかかるようにスタンプ攻撃を仕掛けてきた。
「……!」
後ろに体を引いてそれを躱す。化物は虚しく地面に体を打ち付けるだけとなった。
しかし、それで自爆することなどなく、化物は次なる攻撃を仕掛けようと今度は体を縮こめた。
猫が飛ぶために脚を折り畳むようなそんな動きに似ている気がする。
「やばいっ!」
化物は縮めたバネが解き放たれるように、一気に体を伸ばして僕に飛びかかってきた。
咄嗟に横へ移動する。
またも攻撃が空振りに終わった化物は、それを見越していたかのように空中で体を反転させると、地面に着く前からまたも体を縮めはじめた。
そして着地と同時にまたも射出。僕を目掛けてもう一度飛び込んでくる。
「くそっ」
また横へ移動することでなんとかそれを躱した。
「はは、結構弱いじゃねえか」
意思が疎通できるとは思ってはいないが、余裕ぶった表情で化物に向かってそう言った。
余裕ぶったとは言っているが、この化物のことを「弱い」と思ったのは事実だった。
なぜなら、いま対峙している化物から発せられる気味の悪さは、僕が感じた化物の気配と比べて随分と弱いからだ。
僕の五感がそこまで充てになるわけではない。
しかしリュートは僕がコインランドリーの場所を教えるまでもなく「分かる」と言った。「それほど強い気配だ」と言ったのだ。
そんな存在がこんな僕でもあしらうことができていいのだろうか。
そんな疑問の答えを、世界は僕を嘲笑うかのように唐突に僕へと押し付けてきた。
「きゃぁぁあ!」
コインランドリーの奥からハルの悲鳴が聞こえた。
急いで振り返ると、そこには蜘蛛の形をしたもう一体の化物が、鎌のような前脚でハルに襲いかかろうとしていたのだった。
「もう一体いやがったのかよ!」
ムカデ型の化物を無視し急いでハルの元へと駆け寄る。
しかし遠い。
蜘蛛はもう鎌を振り下ろしており、ハルは恐怖で動けない。
飛び込むように、覆い被さるようにハルを守った。
「頼む! 届けぇぇぇ!」
――!!
蜘蛛の鎌が振り下ろされた。
僕の下敷きにされていたハルが、そこから這い出て何が起こったのかという様に周りを見渡した。
そして横たわる僕と目が合うとハルは。
「…………!」
絶句していた。
蜘蛛の鎌を止めるため前に出した僕の右腕は、肘から下が切り落とされていたのだった。
それを見たハルは、ようやく泣き止んでいたのにまた目から大量の涙を溢れさせた。
「……いやだ、ヒロ死なないで!」
泣きじゃくるハルの後ろで蜘蛛がもう一度鎌を振り上げている。
「ハル……にげろ!」
反射的に左手でハルを後ろに引っ張り、僕の後ろへと倒した。
――!!
二振り目。
今度は僕の左腕を、肩からざっくりと持っていかれた。
「ヒロ!」
ハルの悲鳴が聞こえるが応えることはできない。
アドレナリンが出ているのか、切り落とされた両の腕に痛みはない。しかし意識は朦朧として集中を切れば今にも気絶してしまいそうだ。
そんなぼやけた視界の中、コインランドリーの扉が壊されるように激しく開いたのが見え、そこから一人の人影が入ってきた。
それを見て、安堵とも失望ともいえないため息が溢れる。
「……ここでヒーローの登場かよ。ったくよ、かっけーなあ」
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