世界五分前仮説

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第1話

世界五分前仮説というものがある。平たくいうと「世界は五分前にできたのかもしれない」という仮説である。有名な思考実験の1つだ。この話を最初に聞いた時、誰もが「いやいや私は五分以前、十分前だって1時間前だって十年前の記憶だってある。世界が五分前にできたわけないじゃないか」と言うであろう。しかしよく考えて欲しい。例えば十分前、一時間前、十年前、あなたたちが生きてきた全ての記憶をあらかじめもった状態で、五分前にあなたがパッとできてしまったらどうだろう。五分前に植え付けられた十年前の記憶と、本当に体験した記憶をあなたは見分けることができるのか。答えは否であろう。記憶なんて全くあてにならない。それでは何があてになるだろうか、と考えても、あてになるものなんて全くないのである。あなたの思い出がたくさん詰まったアルバムや、顔から発火しそうなほど恥ずかしい体験が赤裸々に記された日記帳、あなたの生きてきた全ての証だって、五分前にそのままの状態でできて仕舞えば関係ない。この仮説の怖いところは、反証が存在しないところだ。世界が五分前にできたという可能性は、そうではない可能性と同じくらいあるのだ。

さて、ここまでの話を踏まえた上で今の状況を鑑みてみよう。

ここはある部活の部室である。そこまで大きくない。八畳あるかないかの広さである。それなのにやけにものが所狭しと置いてあり、人間が入り込むことを部屋が拒否しているようである。

入り口から右手側には古ぼけた本棚がある。老朽化が進んでいて前を通るだけでぎしぎしと音がする。その音は何も知らずに入ってくる哀れな高校生の上にバタンと倒れ、スライスチーズのごとくぺしゃんこにすることを虎視眈々と狙っているように聞こえるのは私の妄想だろうか。自爆テロ的本棚にはおよそ勉学と無関係と思われる漫画がぎっしり詰まっており、老いぼれの住処が生徒へ倒れかかってくるのを身を呈して防いでいる。

本棚の前には木製のロッキングチェアがある。外国の漫画でよく老人の老後とともにゆったりと揺れるロッキングチェアが確認される。しかし、そのイメージを夢見てこの椅子で編み物でもしようものなら椅子の足がバキバキ折れて、とてもゆったりまったりなんてできない。この椅子、実は相当前に足の部分が壊れていて、人間で例えると骨折しながら足踏みを続けているようなものなのである。そんなやつの上にドカンと座ろうと言うものならそれはただの拷問だ。私は常々この椅子を、校舎裏のゴミ置場に輸送し楽しい老後を過ごしてもらいたいと主張しているのだが、顧問の「誰が運ぶの?」と言う言葉にいつも撃沈する。

東側にも西側にも、大きな棚がべったりと設置されていて壁を覆い尽くしている。棚には段ボール箱がぐちゃぐちゃとやりかけのジェンガみたいな体勢で並んでいる。整理をしようとすれば雪崩が起きるため、触らぬ神に祟りなしという具合にこれもまた放置されている。勇気を出してその中の段ボールを1つ開けてみると、狐面にサルノコシカケ、原人の頭蓋骨模型、全円分度器、藁人形というイマイチ何に使うかわからない、わかってはいけないようなものがわんさか出てきた。たまにごそごそと何かの生命を感じる(そう、例えばあの茶色くて油っぽくて素早い人類の敵の生命)音がすることがあることもあり、私は戦々恐々としている。

中央には職員室にあるような引き出しがいっぱいある机が置いてある。中はクリップ一年分、ハサミ五年分、ペン十年分が入っている(1日の消費量はイマイチわからない)。一番下は引いても押しても叩いてもビクともしない開かずの引き出し。部員の中で実はタイムマシンの入り口で、中に入ってひらひらした絨毯のような機械を操縦すれば未来のロボットに会えるのではないかと囁かれている。

そんな地震が起きた時に居たくない部屋堂々の一位に輝く部室で、私は机の前の椅子に腰をかけている。これも職員室にありそうなくるくる回る椅子である。小学生に座らせたらつむじ風が起きそうなレベルで回転するやつ。しかし私は高校生のため考える人の像みたいに大人しく座っている。

私の向かい側にもこれまた教室にあるような椅子が設置されている。その上には気泡緩衝材を潰す子供のような、なんとも言えぬ楽しそうな顔をした私のただ一人の後輩が座っていた。しかしさっきから停止ボタンを押されたかの如く喋りも動きもしないから、もしかしたら等身大の後輩人形かもしれなかった。藁人形があるくらいだし、そんな気色の悪い人形があってもおかしくないかもしれない。もしくは私の後ろにメドゥーサの首が出現していて、哀れな後輩を石にしてしまったのかもしれない。どっちにしろどうでもいい話だった。

さて本題だ。先程からダラダラと部室を説明していたのはこの現実を直視できなかったからである。いきなりこれを直視するのは、準備体操をしないで水温0度の水に飛び込むようなものだった。

机上には一個のカップやきそばと一冊の本が置いてあった。1つは元凶。もう1つは犯人。

私は職員室の顧問からお湯を借りて、いそいそと袋を開けたりなんだりしてカップやきそばのお湯を注いだ。黙々と湯気が立つ光景と、やきそばのソースの香りに胸を躍らせながら、蓋をきっちり締めて3分待とうと放置した。そして待機時間を有効に使おうと持参した小説を開いた。

これが、私のスマホが狂っていなければ30分前のことである。

怖くて蓋も開けずお湯も出していないけれどもう、このカップの中に夢見た彼はいないだろう。香ばしいソースに絡んだホクホクのコシのある麺は存在しない。あるのはただメタボリック症候群のようにだらしなくお湯で肥え太った長い何かであることは容易に想像できた。しかも明らかに冷めている。パッケージに書かれた華々しい彼のイラストはもはやプリクラ写真並みの詐欺である。彼は変わってしまった。歳月とは悲しきものかな。

彼をこんな風にしたのは一体誰であろうか。お前だろう!というあなたの声が聞こえる。確かに、私は彼に湯を入れ、放置したまま30分間小説を読みふけった記憶がある。タイマーをころっとかけ忘れた覚えもある。

しかし、ここで冒頭の世界五分前仮説を思い出して欲しい。私の記憶は本当にあった出来事であろうか。彼をこの姿にしたのは間違えなく私か?彼は元から、このような手遅れの姿で小説を読みふける私や老いぼれ本棚に骨折ロッキングチェア、ジェンガの段ボールや開かずの引き出しとともに、五分前に生まれたのではないのか?その可能性を誰が否定できよう。そう。つまりこの眼前の哀れなカップやきそばに対し私の責任は一切ない…

「わけないじゃないですか先輩」

向かい側から声がした。どうやら向かい側のにこにこ野郎は人形でも石でもないらしかった。人間だった後輩は口を尖らせて話し出した。

「罪を償ってください。日々ダイエット中とのたまわっていたくせにカップやきそばというカロリーの化け物を食そうとした報いです。その上このようなおぞましい姿のまま残したりすれば地獄に落ちますよ」

「今から蜘蛛助けてくる」

「あれは元泥棒だからできる芸当です。先輩のインドアボディでは糸が降りてきたところで登れはしません」

私は自分の体を見回す。もやしを連想させるへなちょこアームが制服の袖からのぞいていた。

「だいたいそこにいるなら教えてくれてもいいものを」

私の愛しいカップやきそばがこのような状況に陥るまでお行儀よく沈黙を保っていたこいつにはたして人形・石以上の価値があろうか。ああ神様教えてください。

「いやいつ気づくかなあって思いまして。まさか30分後とは思いませんでしたけど。気づいて絶望して必死に現実逃避する先輩は実に面白かったです。言わなくてよかったと心から思いました。思わず声を出すのも表情筋を動かすのも忘れて鑑賞にふけってしまいましたもの」

「この悪魔!地獄に落ちるのはおのれじゃっ」

神様、こいつは人形・石未満であります!私が地獄行きならどうぞこいつも道連れに。

私はほとばしる怒りのエネルギーを動力源にカップをがっつり掴み、立ち上がった。予想はしていたが、カップは悲しくなるほどぬるかった。

「お湯捨ててくる。というか水か?地獄に堕ちたくはないからね」

勿体無い精神はびこるみみっちい貧乏人の私は、この哀れな麺を捨ててしまうほど非道にはなれなかった。お腹も空いていた。もう少しで背中とお腹がらぶらぶとくっつき婚姻届を出しそうである。

何より、後輩の前で食べ物を粗末にすることはできまい。今終わらせてやろうじゃないか。

「いってらっしゃい」

ひらひらと手を振る後輩を一睨みして、私は流しに向かう。流しに熱湯をそのまま流すのはよろしくないが、今回に限りその心配は杞憂と思われた。

生徒をいつか押しつぶす本棚と骨折中のロッキングチェアの前を通りかかった時、私は30分前のカップ焼そばを思い描く。机の開かずの引き出しが、タイムマシンならば、私は未来のロボットにではなく30分前のカップやきそばに会いに行くだろう。あの時の彼は私の希望と夢と美味しさの可能性に満ち溢れていた。元気のいい湯気に、まだ乾燥しているもぶよぶよしていない麺、香ばしい匂い…ん?香ばしい匂い?

そんなバカな。

私はある恐怖に駆られて駆け出した。流しに到着し、麺を流さないように慎重にお湯もとい水を流す。

出てきた水は茶色かった。

私はがっくりと膝をつき真っ白に燃え尽きた。どうやら私は、先に液体ソースを入れてしまったらしい。




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