四ッ目と鳥

民家の軒先に腰を下ろし、憎たらしいくらい円満な月を見上げながら鴉太郎は嘆息する。

 野宿である。

 鴉太郎のいた農村からここは割かし近い。子供の足でも一日歩き通せば夜には着く。実際は綾がいたので一晩明かしたのだが、幸いにも野党や獣などに襲われることは無かった。しかしそう考えると昼間は都会と思ったこの町も田舎の範疇であることがわかる。夜になるとあれほど賑わっていた町中は人っ子一人いない。

 野犬のせいかもしれないが。

『夜は町中でも野犬が出るからな、出歩くなよ? 一昨日の夜も大人が大怪我したって話だ』

 そう親切に教えてくれたのはうどん屋で隣の席になった客だ。

 そうは言われても鴉太郎たちは宿無しだ。出歩くもなにもない。季節は夏を少し過ぎたくらいなので寒さに難儀することがないのは運がいい。が、野犬の話を聞くとどうにも不運という言葉が浮かぶ。昼の蕎麦屋のことも考えると鴉太郎たちは相当幸運なのだが。

蕎麦、おいしかったな。

 昼の蕎麦はもう既に胃の中には無いようで空腹を感じる。綾は大丈夫だろうかと視線を腕の中に落としてみれば幼い妹はすやすやと寝息を立てていた。

 あどけない寝顔。

 母が恋しいだろうに、両親が死んでから駄々をこねるような事は無かった。

 ねんねんころりよ、おころりよ。

 母の子守歌がふと脳裏に蘇る。

「坊やは良い子で、ねんねしな・・・・・・」

 口ずさんだ子守唄に合わせて綾の温かい背中に起こさないようそっと触れる。

 自分の声に記憶の中の母の声が重なるような気がして胸が痛くなった。

 強がってはいても鴉太郎はまだ九つだ。親を亡くし、心細い思いをしないはずがない。

 明るい月を見上げてみたが、何故か雲もないのにそれは朧だった。

大丈夫、おれには綾がいる。一人じゃない。だから、大丈夫。

 腕の中の綾を鴉太郎はぎゅっと抱きしめた。

「う、うー・・・・・・」

 腕に力を込め過ぎたのか、綾が不満げに唸った。

「あ、ごめん。起こしたか?」

 鴉太郎の声に応えず、綾は腕の中でもぞもぞと動くともみじのような手で一方向を指さした。

「にぃ、いる。なんかいる・・・・・・」

「えっ」

 咄嗟に綾の指さした方へと視線を走らせ、鴉太郎はそこで引きつった声を漏らした。

 家屋の影の中に光る二対の目。

「あ、あ・・・・・・」

野犬・・・・・・!

『大人が大怪我したって――』

 そんな言葉が浮かぶ。

どうする? こういうとき、どうすればいい?

 必死に頭を働かせる。

逃げる? それとも、このまま隠れてやり過ごす?

 野生の動物には背中を見せてはいけなかったような気がする。

両手で綾を抱えながら向こうの動向を伺う。

「綾、静かに・・・・・・。大丈夫・・・・・・。大丈夫・・・・・・」

 ゆっくり、ゆっくり。

 二対の目玉は緩慢にこちらに歩み寄る。

 やがて、それの頭が月明かりの下に露わになったとき、鴉太郎は息を飲んだ。

野犬じゃないッ。魔物だッ・・・・・・!

「綾ッ! 逃げるぞッ!」

 鴉太郎はそう叫ぶと幼い妹の手を引いて走り出す。

 と同時に四ツ目の犬もその後を追うように影から飛び出した。

 ぎぎ、ぎぎ、ぎぎ。

 背後から聞こえる笑い声に似た唸り声に鴉太郎の背筋は凍る。

 子どもの足だ。犬の魔物から逃げ切るなどできるはずもない。にも関わらず、あの魔物は鴉太郎たち兄妹に追いつく気配がない。

 

遊んでるんだ。あいつ、遊んでるんだ・・・・・・。おれたちが逃げるのを見て、楽しんでるんだッ・・・・・・!

 頭の中が恐怖で真っ黒に塗りつぶされようとするのを、鴉太郎は首を振って払った。

「だれっ、だれかッ! 助けて下さいッ! 誰かッ・・・・・・!」

 苦しい息の中、鴉太郎は必死になって叫んだ。が、家々の戸は固く閉ざされ、ただ沈黙を返すのみだ。

 視界が涙でぼやける。

 一瞬、月が何かに隠れ、鴉太郎の頭上を影が覆った。

 ざっ。

 土埃を上げ鴉太郎たちの行く手を阻んだのは背後にいたはずの四ツ目の魔物だった。

「うぁあああっ!」

 鴉太郎は転びそうになったのを必死に堪え、半ば転がるようにして辻を曲がった。

 もうここが何処かなどわかるはずもない。めちゃくちゃに道を曲がってただただ走り続けた。魔物が追ってきているのか振り向く余裕もない。

「・・・・・・⁉」

 もう何度目ともしれない曲がり角を曲がった時、ついに兄妹は行き止まりに突き当たった。

 振り向いて道を戻ろうとした瞬間。

 がきんッ! 

 巨大な咢が閉じられた。

 間一髪、頭から食いちぎられそうになったのを回避し、鴉太郎は綾を連れて行き止まりの奥へと身を逃がす。

 魔物は道を塞ぐようにして嗤いながらこちらに歩み寄った。

 逃げられない。

 ぎひ、ぎひ、ぎひ。

 魔物の口の端が、まるで嗤うように吊り上げられた。

「にぃ・・・・・・ッ! にぃ・・・・・・ッ!」

 背中に隠した綾がぼろぼろと大粒の涙を浮かべ、鴉太郎の着物に縋りつく。

「大丈夫・・・・・・。大丈夫・・・・・・」

 呪文のように繰り返しそう唱える。

 ぎひ、ぎひ、ぎひ。

 魔物はそれを嘲笑うようにゆっくりと歩を進める。

 ぐあ、と開かれた口は耳まで裂けていた。中には鋭い牙が鱶のように何重にも生えそろい、唾液が糸を引く。

 一飲みだ。

 綾ともども鴉太郎は一飲みのうちに魔物に喰われる。

 全身の血の気が引いた。

 堪え切れず、鴉太郎は目を閉じた。

 強く、歯を食いしばった。

鳶丸とびまる!」

 ふと、遠くの方で声が聞こえた。

 頬を風が優しく撫でる。

「とり・・・・・・?」

 綾が何かを呟いた。

 先程の恐怖に震えた声ではなかった。

 ゆっくりと目を開く。

 見たのは誰かの背中。

 羽織の裾と中身のない左の袖が翻る。

 右手に見えたのは漆塗りの鞘。

 高く結い上げた髪は濡羽色に銀糸を混じらせている。

 見覚えのある背中。

「うえからね、おりてきたの」

 綾が月を指さして言った。

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