漆鳶と鴉の子
木々暦
温かい蕎麦
幼い妹を連れて、
年の頃は九つほど。その小柄な体躯では歩く巨木の樹海にあって自分がどこにいるのかさえ定かではない。あちらこちらから人の声が飛び交って波のように押し寄せる。がなりや賃金の不平不満、野犬による被害を案じる声が聞こえたかと思えば、巷で流行りの洋菓子の話へと。人の声は渦を巻いて移り変わっていく。耳がおかしくなりそうだった。どこへ行くとも知れず鴉太郎はただ人の波に流され、しかしそれでも辛うじて妹の手は離さなかった。
「にぃ・・・・・・」
手を繋いだ妹から、疲れ切った声が聞こえた。
「どうした、
「おなか、すいた」
う、と鴉太郎は唸った。懐の具合を頭に浮かべる。両親が残してくれた僅かばかりのなけなしの銭。二人合わせて汁物一杯がせいぜいではなかったか。
貧しい農村で生まれ、親を亡くした幼い兄妹は村では肩身の狭い思いをしていた。微かな希望を抱いて村を出てきたはいいものの、農村と違い、都会は何をするにも金が要るのだ。身寄りの無い子供が生きることに苦労するのに変わりはなかった。
ふぅ、と鴉太郎は息を吐いた。
まずは食事だろう。
雀の涙ながら銭はあるのだ。
二人満腹とはいかないが、自分が少し我慢すればいいだけだ。
人の波に揉まれながら道の端に移動すると、ちょうど『蕎麦』と書かれた暖簾の店の前に出た。
暖簾の下から店の中を恐る恐る覗く。だしの甘い香りがほのかに漂ってきて、鴉太郎は腹を鳴らした。
安堵の吐息を漏らしかけたとき、突然あがった怒声に鴉太郎は心臓が止まりかけた。
「てめぇ・・・・・・、ぶつかっといて詫びの一つもなしか? あぁ?」
驚き声の方向へ視線を走らせると、店の中でがたいの良い男が細身の男の胸倉を掴みあげていた。細身の方の男は幾筋か白髪を混じらせた黒髪を低い位置にまとめ、仕立てのいい着物に袴姿。羽織を羽織った背中はその衣装に到底つりあわない心細さだ。対して大男の方は着ているものこそ粗末だが、がっちりとした腕周りは鴉太郎の頭ほどもある。
喧嘩、というにはあまりにも一方的な絵面だ。
が、酷く違和感のあることに掴みあげられた方の男は怯えるような様子がない。自分より大柄な男に胸倉を掴まれ、どすの効いた声で脅されれば誰でも震えあがりそうなものだ。現に当事者でもない客たちは鴉太郎を含め、息を殺すようにして事の成り行きを見守っているのに、当の本人といえばただただ自分を睨みつけている男の顔をぼんやりと眺めているだけだ。
「おい! 何とか言ったらどうだ!」
その様子に大柄の方の男が機嫌を悪くしたのか、更に声を荒げる。
それでも男は動じることなく、微動だにしない。
大男のこめかみが引きつったようにぴくぴくと動き出す。
「なにやってんだいッ!」
一触即発の空気の中、響いた大声は全く別の人物のものだった。
「あたしの店の中で揉め事はご法度だよッ!」
声の主はこの店の主人らしい三十ほどの恰幅のいい女性だった。太ましい身体から発せられた声は凄まじく、鼓膜がびりびりと震えた。
大男は舌打ちを打つと胸倉を掴んでいた手を離し近くの席に不機嫌丸出しで腰を下ろした。
もう片方の男はと言えば唐突に手を離され若干よろめいたが意に介さず、先程のことはまるで無かったように頼りない足取りで鴉太郎の方へと歩いてきた。
男が店を出ようとしていることを察した鴉太郎は邪魔にならないように綾を促し身を引いたが、その足取りのせいか男の腕と肩がぶつかった。
あれ? 軽い?
しかし、ぶつかった筈の肩には布が擦れただけの軽い感触しか無かった。
不思議に思って振り向いたが男は既に人の波の中に消えていた。
「お客かい? 早くお座り」
人混みをぽかんと眺めていると、店の人間らしい女性に声をかけられ鴉太郎は飛び上がりそうになった。慌てて振り向くと、目の前にいたのは大男を一喝したあの女性だった。再び飛び上がりそうになったのをこらえ、はぃ、と小さく返事をすると空席を探し、綾の手を引いて腰を下ろした。足が地面から浮く。
「ご注文は?」
顔を上げると先程の女性がにこりともせずにこちらを見下ろしている。
「あ、えっと、一番安いやつ下さい・・・・・・」
口に出してから鴉太郎は俯いた。二人分の席を占領しておきながら、注文がそれだけとは我ながら情けない。
幸運にも女性は何を言うでもなく注文をとると直ぐに奥のほうへ引っ込んでいった。
意味も無く詰めていた息をほっと吐きだす。
今ので所持金が底をついてしまった。今夜は野宿だ。まぁ、もともと宿に泊まれるような額では無かったのだ。仕方ない。
「にしてもありゃあ誰だよ? あのまだら頭の爺さん」
空腹にぐずる妹をなだめながら己の腹をさすり、鴉太郎が蕎麦を待ちわびていると直ぐ近くの客の話し声が耳に届いた。
「ボケてんのかね? あんな大男に吊し上げられてもぽやんとしちゃって」
件の大男を気にしているのかちらちら視線を向けながら客は小声で連れに問いかけた。
「あぁ、榮屋敷ンとこの・・・・・・えぇと、名前はなんつったか・・・・・・。なんでもそこの若旦那の命の恩人だとかで・・・・・・」
「かーっ。それでこんな昼間っからふらふらしてんのかい。良いご身分だねぇ。俺もどこぞの金持ちに恩でも売って、楽して暮らしたいもんだよ」
全くだと片割れが軽く笑いながら同意する。
「何言ってんのさ。そんな莫迦なこと言ってる暇あったらせかせか働いて、嫁にいいもん食わせてやんな! 身重なんだろ」
二人組の客の話を遮って、やはり同じ女性が現れた。改めて見れば給仕をしているのは彼女だけだ。
「おまちどう」
客たちの話に耳を傾けていた鴉太郎の前に蕎麦の丼が置かれた。二つだ。どうやら彼女は蕎麦を配膳しに来たらしい。
二つ?
「あの・・・・・・」
「ん?」
「すみません・・・・・・。蕎麦、一杯のつもりで・・・・・・」
怖々俯きながらなんとか言葉を絞り出す。恐る恐る顔を上げれば女性と目が合った。怖い。
「あんた、妹に食わせないつもりかい」
「い、いえッ。そんなッ」
声が裏返った。怖い。
「なら、あんたが食わないつもりかい。それで、あんたが倒れちまったら、妹はどうすんだい。あんた、兄貴だろう」
「・・・・・・」
「人はね、食わなきゃ何にも出来ないんだ。食いな。代金は有るときに持ってこればいいさ」
「にぃ・・・・・・」
湯気を立てるうどんを目の前に、お預けを食らった綾が鴉太郎の着物の袖を引っ張った。
「ほら、早く食わしてやんな」
相変わらずにこりともしないで女性はそう言うと、踵をかえした。
「お! お正ちゃん太っ腹!」
「言うことが違うっ! かっこいいっ」
鴉太郎の横で噂話に花を咲かせていた客たちが囃し立てたのを、お正と呼ばれた女性は一睨みきかして応えた。
「あっ、ありがとうございます!」
その背中に鴉太郎は感謝の言葉を投げかけたが、女性は振り向きもせず鼻を一度鳴らして店の奥に消えてしまった。
「坊主、お前田舎辺りから出て来たクチだろう? ちいせぇ妹連れて。よかったなあ入った蕎麦屋がここで」
「他じゃこうはいかねぇもんな」
客たちが陽気に笑うのを聞きながら、鴉太郎は心の中で誓った。
必ずお金は返しに来よう。
蕎麦を一口啜ると、だしの温かさ以上のものが胸に染みわたっていくのを感じた。
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