全てが消える

嘆き雀

短編

 私は幽霊だ。もうすぐ消える。


 透明な体はその証だった。

 元は実体があったときのように向こう側は見えなかったはずだが、徐々に薄れてコンクリートの色まで判別できるようになっている。


 思い返す過去は殆どなかった。

 人間であった記憶は消滅しており、その他の残っているものも不明瞭だ。一時間前にしていたことの記憶はもう朧気になっている。

 それだから時間の流れは狂っており、気がついたら季節が一つ飛び越えていたことがある。


 私がいるのは交通が少ない閑散とする道だった。どこかに通じる近道であろうか、時たまに真っ直ぐに突っ切る車が走る場所。


 質素であるが住宅が立ち並んでいるので、丁度通行人がいた。縋って手を伸ばすが無視される。

 相手が気付くことはなかった。


「……寂しい」


 抱く感情があるせいで未練となり、現世に私は留まっている。唯一私の存在に気付いた霊媒師のお婆さんのその言葉は、胸に強く突き刺さっている。



 私はどうなってしまうのだろうか。

 未練を解消する手立てはない。

 地縛霊であるらしく、死したこの場所から一定の距離内でしかいられない。


 考えたってどうしようもならなかった。その期間は過ぎ、今は時に身を委ねるのみ。

 時間が解決してくれることは、透けゆく体で確かである。


 だが、そうしたら私の感情はどうなってしまうのだろうか。そのままの想いで二度目の死を迎え終わるのは嫌だ。

 だから、簡単に成仏はできない。


 結局は熟考してしまう私だが、突如として睡魔に襲われた。

 現世に留まるだけでもそうであるので、どうやら力を使いすぎてしまったようだ。


 その急激な低下は私を催眠させ、一時の力を回復しようとする。嫌いではなかった。

 長考しないで済むことは、苦衷しないことに繋がる。


 随喜しながら意識を微睡みに移していく。

 迎えるのは純白。

 空白にさせる恐れは直ぐに薄れていった。


 ―――次に目が覚めたら、私に優しい世界になっているといいな。


 希求と共に意識が落ちる。

 白はそれさえも受け取り、消した。


 *



 赤のカーネーションがとても印象的だった。

 路傍に菓子や缶ジュース、花が置かれているのを見て戸惑いが嘆きへと変わる。

 そんなときに鮮やかな供花。


 嬉しさがあった。

 彼を連想した。

 私も会いたかった。

 ……寂しかった。


 最後の感情だけは残った。

 一番想いが強かったからかもしれない。幽霊になっても日々感じる想いだったかもしれない。

 だが私は彼の姿を、声を、匂いを、優しさを、全てを、残したかった。



 *


 深く漂う意識は浮上する。

 世界はまた季節が移ろっていただけで、その他に変化はない。地が私を縛り続けている。


「……三回忌、来てたんだ」


 赤のカーネーションが供えられている。

 なんとなく見覚えがあり、心に灯す仄かな炎が暖かかった。

 幽霊であるが故に勿論通りすぎてしまうが、ちょんと触れる感覚を想像で補う。

 すると、小さな影が過った。


「あ、猫だ」


 カーネーションの匂いにつられたようだった。この人通りが少ない道をよく通る、一方的に馴染みのある野良猫。

 軽い足取りで花の前まで来るとくんくんと匂いを嗅ぐ。


「気に入らなかったの?」


 直ぐに外方を向いたので苦笑すると、「にゃあ」と鳴いた。まるで返事をしているかのようだ。

 加えて、虚空と認識しているはずの場所にいる私を丸くつり上がった瞳がじっと仰視している。


「まさか、見えてるの?」


 問いは逸らされた視線が答えだった。


「……そうだよね」


 見えているのならば、ずっと前から何かしらの反応はあったはずだ。自由気ままにその場から去っていく猫を見送る。

 身勝手な失望が、私を包んだ。



 もやもやとした感情が渦巻いていく。

 赤のカーネーションは萎れかけており、数日も経てば朽ちるだろう。まるで自分の未来を表しているようだ。


 寂しい。

 孤独は嫌だ。

 ここまで堪えられたのは、霊媒師のお婆さんがいたからだ。だが、その方とは「私では未練は晴らせない」と一度きりの出会いで終わっている。


 黒い靄が自分の総身から漏れ出ていた。

 その正体は濁った感情によるものだと、幽霊な私は自然とそう理解できる。

 透明な体は手の端から黒く変色してきていた。


 このままでは悪霊となってしまう。

 だが、それでも良かった。

 そしたら皆、私を認識してくれるかもしれない。霊媒師のお婆さんが、退治しに会いに来てくれるかもしれない。

 私は誰でも良かった。

 ただ、この歪んだ寂しさを満たして欲しかった。


「これまた随分と変わったねえ」

「…………お婆さん?」


 幻聴だ。

 だが咄嗟に声の方へ向けば、巫女姿で遠方に佇んでいる。


「……幻、覚?」

「本物だよ。全く、成仏したか確認しに来たら、随分と黒く変異しているじゃないか」


 幻覚でも自分のことを本物と言うだろうが、それにしてはかなり人間味がある。

 疑うが、そういえばと考え直す。私は誰でも良かったのだ。


「お婆、さん、お婆さん、お婆さんお婆さんお婆さんお婆さんおばあさんオばあさんオバあサんオバアサン! アイタカッタヨ!」

「……哀れだね。割に合わないことはしない主義だけど、仕方ない」

「…………ゥ?」

「暫く、待っていなさい」


 背を向けて置き去りにするお婆さんに、「マッテ!」と走り手を伸ばす。だが、ぐんっと足が地に取られて転倒する。

 地縛霊の障害だ。

 視認できない境界を越えた先には一歩も進めない。


「ヤダ、ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!」


 力一杯に踏み出そうとする。

 地面はそれ以上に頑強で引き剥がせない。

 拳を振り下ろす。

 壁は揺るぎもしない。

 助走をつけて体当たりする。

 反動に加えて跳ね返される。


「ヤだ。いヤだよ。一人に、しナいで……!」


 苦界だった。厭世感が広がっていく。

 一人は、寂しいのは嫌なのに、なぜ誰も助けてくれないのか。


 そんなとき、唸るような低い騒音が響いた。

 風を切り、速度制限を越えて疾走するのはトラックだ。


 迫り来るそれに私は衝動的に飛び込んだ。


 何度か試したことがあった。きっとそれは生前の死因であった。幽霊になって再び死ねないものかと、どうにか楽になりたいと思って繰り返したこと。

 結果は車が透ける私を何事もなく通りすぎて全て失敗しているのだが、今回は違った。


 強打で私は吹き飛ばされていた。

 腕を中心に持っていかれ、激痛が襲う。

 勢いは境界を越えるものであったので、阻む壁がまたもや弾き返してコンクリートの上をごろごろと転がる。


「ア……ゃ…………死にたく、ない」


 涙がぼろぼろと堰を切ったように溢れた。

 痛みは黒くなった部位だけであったが、泣くには十分以上なものだ。幽霊であるか故か、破損してはいない。

 だが、今にもバラバラになりそうな鋭い重苦がある。


 トラックに自ら牽かれに行ったにも関わらず死にたくないなんて、私はどれほど愚かなのだろうか。

 寂しさの感情が強制的に鳴りを潜め、体を侵す黒が涙と共に剥がれ落ちていく。


 私は元の透明な体に戻っていた。ただ存在はこれまでで随一の儚さとなっている。

 そうなっても私は泣いて泣いて膨大な涙を流し続けた。痛みは消えていたが、心が傷付いていた。


 そして、声を聞いた。


「――――愛乃?」


 傷付きたくなくて俯いたままでいると、しゃがみ込んでいた。顔を隠す垂れた髪に触れようとして無駄になったが、それでも通り過ぎた手は頬に添えられる。


「……だあれ?」

「僕だよ、佑斗ゆうと。覚えてない?」

「……知らない」

「そっか」

「でも、なんだか安心する」


 私は笑壷を、佑斗は静かながらも喜びが伝わる微笑を浮かべた。


「ないてるの?」

「……愛乃の方が泣いてただろ?」

「今は佑斗だよ?」

「もう……触れないでくれよ」


 微笑しながら一筋の涙を流している。佑斗はどんな感情でいるのだろう。

 私はとても嬉しかった。


「これ」

「カーネーションだ。これ、佑斗が供えてくれてたの?」

「うん。どうも僕らは運が悪かったみたいだね」

「もっと、早く会いたかった」

「僕もだよ」


 古びたカーネーションと交換で受け取った。


「また、会いに来るよ」

「……ほんと?」

「うん。ずっとはいられないから、その分何回も。これまでは悲しくて、全然来れなかったから」

「ほんとにほんと?」

「心配するなら、約束する?」


 透明な私と実体のある佑斗の小指が絡んだ。指切りげんまんと交わし、ゆっくりと名残惜しみながら離れる。


「また明日」


 何気ないような言葉だが、想いが詰まっていた。

 遠くなる背に不安は抱かなかった。



 誓った小指を眺め、ふふっと笑みが溢れた。カーネーションは心にまで彩ってくれる。

 寂しさはもうない。


 にゃあにゃあと祝福してくれているように鳴く猫にありがとうと感謝を告げる。そして、私は歩き始めた。


 一歩、と足先が。

 二歩、と腰まで長さの髪が。

 三歩、と腕が。

 徐々に煌めく。

 徐々に無くなる。


 そして四、五歩目となったとき、跡形もなくなった。

 私は満面の笑顔と共に、全てが消えた。

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全てが消える 嘆き雀 @amai-mio

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