井の中

まあ

✳︎

−−井の中の蛙大海を知らず

という言葉がある。良い意味では使われないことわざだ。

この言葉を聞いて、小さな青いカエルが一生懸命に、井戸の中でチャポチャポと泳ぎもがいている姿が目に浮かんだ。

そのカエルは、古びた汚い井戸の中で懸命に生き続けた。

井戸の外にはもっと綺麗で美しい景色があるにも関わらず。可哀想な話だ。

そのカエルはきっと、透明なキラキラと光るいつでも飲めそうな川の水を知らず、藻がたくさん浮いた触るのも躊躇うような井戸の中の水を、水だ、と言うだろう。

もしかしたら川に堂々と流れるその透明な液体を、同じ水だと分からないかもしれない。可哀想だ。

そのカエルはきっと、ゲゴゲゴと鳴いても、誰も返事をしてくれないことを当たり前だと思っているだろう。

広い田んぼでゲゴゲゴと鳴き合う自分と同じ様な形の生物を、知らずに死んでいくかもしれない。なんて、可哀想なんだ。


でも、そのカエルは古びた井戸の中で懸命に生き続けた。

そのカエルは、水に浮かぶ藻を撫でる時の感触が大好きだった。フワフワとしていた。

水に潜ると前も後ろも分からない、その暗闇でボーッと時を過ごすことが大好きだった。1人でゲゴゲゴ泣いていると、3日にいっぺんくらいの頻度で小さなランドセルをからったやんちゃな男の子が、興味津々なキラキラとした目で井戸の中を、ジーッと覗いてくることを楽しみにしていた。

毎朝、使いもしないのに井戸の横に腰をかけ、新聞を読むおじいさんを眺めることが日課だった。


−−そのカエルは、井戸の外の周りが自分のことを可哀想だ、と思っていることを知る由も無い。そのカエルは、自分の暮らす井戸を愛している。毎日がとても楽しいのだ。

井の中の蛙は、とても幸せな生き物である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る