車輪のアーチと卒業式
飾磨佑都
第1話
登下校に使っている自転車の前輪がパンクした。上手く隠し通そうと思ったのだが、ひょんなことから母にばれ、自転車ショップに行くことを余儀無くされた。外に出たくなかったのだ。
自転車ショップに着き、店の外で何やら車輪をいじくり回している店員が一人いた。そいつを捕まえて故障した箇所を簡単に伝えると、快く修理を引き受けてくれた。「店内で休んでいて下さい。」と言われた。外はまだ夏の蝋燭が完全に消えていなくて、暑さを微かに残している。拒む理由もなかったので遠慮なく従うことにした。
店内に入ると急に地面が柔らかく感じられた。ゴムの匂いと扇風機が吐き出す少し乾いた触感を、鼻と口に嫌という程感じながら周囲を見回す。勿論、自転車が沢山ある。自転車メドレーである。この空間自体が、自転車のUFOキャッチャーみたく感じられたので、思わず見上げるとそこには何もなかった。ただ、しみったれた黒い天井と、チカチカしている蛍光灯に衝突している馬鹿なハエだけである。自転車にはそれぞれ色の違う値札が付けられていて、振り返ってみるとアーチのように見えなくもない。〝爆発ヒット!〟と書かれた文句をぶら下げている自転車が、後ろの方に追いやられていることには少々狼狽したが、これが世代交代というやつなのだと自分に言い聞かせると、対して気にならなくなった。
僕は、ほとんど投げやりな気持ちで、そのアーチに祝されることを望んだ。無論、何を祝しているのかと聞かれても、誰も答えることはできない。ただ首を横に振るだけだろう。
アーチを潜り抜けながら傍の自転車達に話しかけた。「お前は見てくれがいいから男前の主人を選びなさい。」「お前はなんだか古臭いな。老い先短いジジイにぴったしだ。」「お前は塗装が新しい。最近結婚したのか?嫁とは仲良くやってるか?」などと自分でも訳の分からないことをブツブツ言っている。これを僕は、むさ苦しいほど独りで演じていた。大根役者にもほどがある。側からみれば白痴同然である。そんなこんなしているうちに、ふと卒業式のアーチを思い出す。真っ黒な服を着た保護者達が、鼻を啜りながら勿体なさそうにまだ開けたばっかりのようなハンカチで、微かな涙を拭っている。大方、息子の成長に感嘆していたのだろう。あの時、僕はどうしても堂々と歩くことができなかった。昏い三年間が頭を埋め尽くし、その泥はピンク色の脳味噌にじんわりと溶けるように染み込んでいった。そのせいか、成長なんてものを感じる術を得ることができなかった。
ただし、一人だけ僕の卒業を潔く迎えてくれる教師がいた。彼は国語科の教師であった。少し頭の禿げが目立つが、いかにも上品そうな身なりをしていた。その教師の丸メガネには三年間分の身長を伸ばしながらも、姿勢は相変わらず俯き加減の僕がくっきりと映されていた。その教師は、じっくりと煮込むように僕の顔を眺め、こっくりと頷いた。泣きわめきたくなった。普段、授業もろくに聞いていない僕だがもう一度だけこの教師から何かを教わりたいと強く願った。ただ、それはもう叶わないことなのだ。三年間全くこの教師やその授業に関心を示さなかった自分を心底呪った。自分はせめて同じような趣味を持ちたいと思い、本を読み始めた。すると文学に目覚めたわけだ。そんなことを思い返しているうちに、店員の呼ぶ声が聞こえたので、すぐさま声の方へ向かった。修理費は三百二十円だった。なんだか安い。修理されたばかりの自転車に股がり、店から来た時と同じ坂道を帰りは下った。前輪だけが軽くて、後ろに回転してしまわないかが心配だった。太陽は火照ったようなオレンジ色で昼間ほどの活気は見られない。大方、昼寝をしているところだろう。左折をする角に差し掛かった時に、後から来た車が通り過ぎるのを待ってやった。直後、猛烈に湧いてくるなんとも言えない衝動を噛み締めて、高速でこの道を駆ける。それは馬のように。顔に絡みつく秋風を心地いいと思えるくらいに。
車輪のアーチと卒業式 飾磨佑都 @Kuraki0330
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