珊瑚のよびごえ

Hetero (へてろ)

Entry : Disaster Tokyo

――起――

プロローグⅠ - One Day -

――平成30年 03月 30日 金曜日 朝8時30分――


 いつも通り満員電車に揺られていた、春の朝だった。 

 高速で過ぎ去っていく車窓からは咲き誇る桜がたまに見えては通り過ぎてゆく。

 不快な朝の電車の中で、目の前に密着してくる少女の頭部は、丁度彼の胸の辺りの位置にあって、

 ふわふわと、優しい髪の香りがしていた。

 眼下の見慣れぬ制服の黒髪の女子高生はやけにそわそわしているように感じられた――。

 御徒町駅を過ぎて上野駅の構内に電車が入るところで意を決したかのように、すっ――、と息を吸い込む音が聞こえた。


「――この人痴漢です!!!」


 騒音と喧噪を感じる車内にあっても空気を裂くように少女の悲鳴が上がった。

 彼は、えっ、と思い身を堅くしたが時既に遅し。

 目の前の少女は叫びながら男を哀れむ目つきで睨み、下卑たようにも見える年相応には見えぬ視線を一瞬彼へ寄越したが、周囲の大人達が騒ぎ出すと、すぐさまか弱く、今にも崩れそうに泣きだした。

 次の瞬間には彼はがっしりとした手に左腕を捉えられた。

 少女の悲鳴によって沸き起こった異様な気配の車内の中、

 人を押しのけ、ぬっと彼の前に現れたのは恰幅の良い女性だった。

「あなた、ちょっと上野駅の交番まで来てくれる? 被害者の、あなたも、あ、服には触らないでね?」

 有無を言わさぬ迫力で凄んだその人はグレイのスーツのズボンに手を突っ込み、

 黒革の折りたたみ手帖のようなものを取り出し、パタリと彼の目の前に広げて提示する。

 まさか自分がこんなドラマでお決まりの警察手帳を目にする日が来るとは思って居なかった。

 彼は途端にそこで人生が終わってしまった、と痛感せざるを得なかった。

 しかし、そんな彼の横で少女もまた、しまったという驚きの表情をしていたのだった。


 腕をがっしりと抑えられたまま、ホームに降りる。というより降ろされる。連行という感じではないのはまだ優しいのかも知れない。

 上野駅で降りる人の波がすぐに避けたのもあって、朝の通勤時間だというのに、彼と少女と女性警官の周りは割といていた。

 もし彼が冷静な頭で判断することが出来たならば完全黙秘もありなのではないか、

 しかし、圧倒的に不利な状況に陥り、諦めをつけて彼は、

「――あの、その、逃げませんので、掴まないで大丈夫です」

 と、むんずとスーツの二の腕を力強く掴んでいる女性警官の腕に向かって話しかけた。

 彼の言い分を聞き届けたか微妙なタイミングで、女性警官はパッと手を離して、

「あら、お兄さん物わかりが良いのね。助かるわ。駅員さーん! すみません~」

 しかし、体半分を自身の〝間合い〟に入れたままの空気で、

 降りた電車を見送る駅員に声を掛けて、そして次に女子高生の方に首だけをぐるんと向きかえて。

「ねぇ、アナタ、小遣い稼ぎかなんだか知らないけどね、も・し・も、これ、だったらちょっと困ったことになるわよ? 解ってやってるんでしょうけどね……」

 有無を言わさないが、極力優しい声でそう問われ、少女は嘘泣きをすぐさま止め、極限まで困惑した表情になったが、

「――わたし、そ、、その人にお尻を触られたんです!」

 と、声を上げた。

 身長は小柄で、切りそろえられた髪も短い。顔は相当大人っぽく、幼さは感じられない。

 だが明らかに動揺している。

 どうやら女性警官には状況が解って居るようだった。

 だが、彼の方は、

 これからの社会的な影響は、

 会社への連絡は、

 弁護士は、

 起訴は、

 という考えがよぎり、

 顔は青くなっていくより他なかった――。

「とりあえず、交番までいきまっしょっかね」

 女性警官は毅然とした表情で二人にそう宣した。

 駅員も状況を察してこちらに駆けてくる。




 ――しかし、この数十分後に一つの長く続いた平和な時代が終わる――

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