第14話
自然を慈しむ心を素直に素晴らしいと感じた。もちろん、授業中によそ見をしていたことに変わりはなく、それがいいこととは思わない。しかし、彼の見ていた景色は自然に対する敬愛や畏怖に繋がっていた。その感情を否定することはできなかった。自然を愛し、寄り添うということ。それはまさに、彼が樹木となり、自身の体で他の生き物を育み、世界の裾野を広げていく姿に繋がっている。そして屍となった後も、次の世代のための肥やしとなり、いつしか森へと成長していく。
私は、イングランド北西部に広がる湖水地方の風景を想像した。そこは童話の世界の雰囲気をそのまま湛えた、かけがえのないイングランドの宝だ。その場所も、最初は何もない場所だったはずだ。何百年、何千年という気の遠くなるような時間をかけて、森と水と動物が一体になった広大な大地を形成したのだろう。
「自然を大切にするのは、すごくいいことです。自然と共に生きているという感覚は素敵だと、私も思います。でも、それは授業中でなくてもできますよ」
「反省してます。あの時は、生意気に英語で受け答えしてしまって、すいません」五十嵐は頭を下げた。
薄暗い教室で五十嵐と向き合っているうちに、五十嵐とは旧知の友人のように気兼ねなく会話ができるような気がした。いつのまにか、私はそれまで瀬川にさえ言えずにいたことを五十嵐に話していた。
「私は、少し不安に思っていることがあるんです。英国人として育ってきて、今は日本で生活をしていて、本当の自分とは何なのか、それをずっと考えているんです」
五十嵐が戸惑ったように首を傾げていた。五十嵐に語るべきことではなかったと気づき、私はその場を取り繕う。「ごめんなさい。あなたにこんなこと言っても仕方がないですよね」
「そんなことないですよ。でも、先生、無理して日本語喋ってますよね。ALTなんだから、授業以外の時間も英語でいいはずなのに、いつも日本語で。俺たち生徒としたら話しやすくていいんですけど、きっとそういうのが歪みになってるんじゃないのかな」
「そう思いますか」言いながら、その一方で、五十嵐の指摘は的を射ていると思った。自分の為にと積極的に日本語を使っていたが、それが反ってアイデンティティーの喪失を招いていたのかもしれない。「無理をしている自覚はないんですけど、違和感はあるかもしれないですね」
「うん。あんまり意識しない方がいいと思いますよ。だって、ここは日本で、先生はイギリス人なんだから、無理してどちらかになろうとすることなんてないですよ。先生が一番楽な振る舞い方を選んだ方がいいかなって思います」
五十嵐の感覚はどこまでもナチュラルだった。周りの変化と自分の変化、そのどちらも真っすぐに受け止め、自分の居場所を見つけるのは大人になればなるほど大変だった。十代のころの柔軟さは、既に私にはない。それでも、私が一番相応しいと思う自分の姿を見つける努力をしていなかったのも事実だった。私は、五十嵐という存在を介して、自分と向き合っていた。それは不思議な感覚だった。
私が一番楽なのは、もちろん英語で会話をすることだ。しかし、それが私にとって幸せなことかと問われれば、答えはノーだった。私は日本語で囲まれた生活に満足していた。そして、日本人と一緒に、この国で生活していきたいと強く願っていた。
「私は、この国が好きです。人の心が本当に温かくて、私もそんな風になりたいって思います」私の言葉に、五十嵐ははにかむように笑った。
「ちょっと気恥ずかしいけど、先生の理想がそこにあるなら、今のままで、先生は十分日本人らしいですよ。日本人らしいイギリス人、それもいいと思いますよ」
日本人らしい英国人、私はその言葉にはっと息を飲んだ。自分らしさというものがどこにあるのか、自分の居場所がどこにあるのか、私はずっと探していた。どっち付かずの自分が不安で仕方がなかった。まさか、それが私だと言われるとは思っていなかった。しかし、それは誰にも真似することのできない、まさに私そのものだった。誰よりも日本人らしい英国人でありたい。そのために、両親の反対を押し切ってこの国に残ることを決めたのだ。そのことに、ようやく気づいた。
彼と過ごした時間は長くはなかったけれど、私はその日のことを忘れたことはない。十代の日本の若者とじっくり話をする機会が持てたのは、後にも先にもこの時だけだった。
廊下の向こう側から、大きな歓声が上がった。拍手が沸き起こり、拡声器のくぐもった声が聞こえた。私と五十嵐は教室から廊下に出て、窓の下を見た。櫓が崩れ、木片が散らばっていた。祭りが、終わってしまったのだ。
「終わっちゃいましたね」五十嵐が小さな声で言った。
「そうですね。後の祭りですね」私は覚えたての慣用句を口にした。すると、五十嵐の笑う気配がした。
「先生それ、ちょっと使い方が違うよ」
「そうですか?」日本語は難しい。日本人らしい英国人への道は、まだ始まったばかりだった。
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