第10話

 西仲通りは「壱」から「四」まで四つの区画に分けられている。笹本の店は「参」区画目の中程から、横幅が一メートルもない細い路地を分け入った先にあった。

「ここを入るの?」瀬川は信じられないといった感じで、大きな声を上げた。

「そうですよ。ちゃんと看板も出ているじゃないですか」私は瀬川の足下に置かれた、店の在処を示す小さな立て看板を指した。

「大丈夫なの? こんなとこでお客さんなんか入るの?」

「いいからいいから、続きはお店に入ってからです」


 私は瀬川の手をとって、路地に体を滑り込ませた。ただでさえ狭い路地の脇には鉢植えが置かれ、細長い葉を伸ばした背の高い植物が視界を塞ぐように茂っていた。私は左手で葉を避けて、道を進んだ。

「やあ、いらっしゃい。今日はお友達も一緒だね」店の前で笹本が待っていた。笹本は恭しくドアを開けた。

「はい。一緒に仕事をしている瀬川さんです」私はそう言って瀬川を紹介した。瀬川は笹本に軽く会釈をして、私の背中を押した。先に入れということだろう。私と瀬川は予約席という案内板が置かれた席に通された。私が最初に店を訪れた時に座った場所だった。

 四人がけのテーブルが三つとカウンター席が三つしかない小さな店だったが、その時は奥のテーブル以外すべての席が埋まっていた。最後の一つを二人で使うことに少し気後れしてしまった。


「いい匂い」店内は肉の焼けるふくよかな香りで満ちていた。胸いっぱいに空気を吸い込んでも嫌な感じはしない。豊かな風味が嗅覚を優しく刺激し、素早く伝達され、胃の平滑筋が収縮する。端的に表現すれば、腹が鳴ったのである。私は腹を抱えるようにして押さえ、ごまかそうとした。

「ねえ。何がお薦めなの?」瀬川は既にメニュー表を広げ、思案している様子だった。

「そうですね」私は、腹が鳴ったことを悟られないように、平静を装った。「私的には照り焼きバーガーですけど、チーズとかアボカドとかも美味しいですよ」私は覚えたての「〜的」を使ってみた。それまでは使いどころが分からなかったが、そうか、こうして言葉を使って身に付けていくのだと思うと、やはり語学の勉強は楽しいと感じた。正否はともかく、日常会話を円滑に行う手段としてのこの曖昧さが、日本語の奥ゆかしさだったり儚さだったりするのかもしれない。


「私は照り焼きバーガーにします」

「もう決めちゃったの? そうだな。じゃあ私も照り焼きにする」彼女はそう言ってメニューを片付けた。「すいません。照り焼きバーガーを二つください」

 笹本は伝票にメモをすると、厨房で作業に取りかかった。

「素敵なところだね。雑誌でもんじゃ焼きの特集はたまに見るけど、月島にこういうところがあるだなんて知らなかった」瀬川は壁に埋め込まれた棚に陳列されたブリキのおもちゃを指先で突いていた。薄化粧の瀬川の横顔は、いつもより幼く見えた。


「路地裏にも色々な表情があって、月島は面白いところです。また一緒に来ましょう」

「サラに案内される日が来ようとはって感じだけど、楽しそうだ」

「もんじゃ焼きも食べましょう。私はまだ食べたことがなくて」

「そうなの? そう言うのを本末転倒っていうんだよ」

「転倒? 転ぶんですか」

 瀬川が笑う。

「まあね。本っていうのは、本当とか本質とか、要するに大事な部分で、末は終わりの部分、つまりあんまり重要じゃない部分ね。それが転倒、つまりひっくり返るってこと。全体で、大事な部分とそうでない部分があべこべになっている状況を表しているの。この場合だと、せっかく月島に来たのに、もんじゃ焼きを食べないっていうのはもったいないってことよ。まあ、それは私も同じだけどね」


「四字熟語は難しいです」会話をしている時、四字熟語がもっとするする出てくれば格好いいのにと常々思っていた。私が覚えている四字熟語といえば、切磋琢磨と天真爛漫くらいだった。たまにテレビのクイズ番組を見ながら勉強をしていたが、なかなか意味と用法が身に付かなかった。

「使いどころを間違えると恥ずかしいからなかなか使う機会ないけど、日本語の意味を勉強するには大切な関門だよ」

「漢字とアルファベットは本質的に違いますから、英語にはない考え方ですよね」


「漢字は表語文字っていって、文字それ自体に意味を持たせることができたけど、アルファベットは表音文字だから、単独では意味を成さない場合がほとんどだし。ことわざに近いんだろうけど、限られた文字数で多くの事柄を表現できるっていうのは、表語文字の優れた部分の一つかも知れないね」

「日本語は奥が深いです。でも、勉強していて楽しいですよ。そう、勉強は楽しいものです」なのに、授業中の五十嵐はどこか遠くの世界を漂っている。

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