第9話

 月島まで車で行くとなるとどのくらい時間がかかるのか分からないが、そこまで遅くはならないだろうと思った。

「もんじゃ焼き?」

「いいえ、ハンバーガーですよ。とっても美味しいんです」

「月島でハンバーガーか、うん。じゃあ、決定」瀬川は運転席のドアを開けてシートに座った。私もそれに倣う。座るたびに思うが、シートの位置が普通の車に比べると非常に低い。瀬川の車は、軽自動車では珍しい二人乗りのスポーツカーだった。どうやら天井が開く仕様らしいが、埃や排気ガスが入ることを嫌って、瀬川は一度もそうしたことがないようだ。居住空間が狭い日本では、移動手段である車も小さいものが人気なのだろうか。


 ギアをドライブに入れ、車を発進させた。車高が低いため、地面を滑るような錯覚に襲われた。車の回転が直接体に伝わる。目の前の景色が素早く切り替わった。すぐに学校の敷地を離れ、道路に飛び出した。エンジンの回転音が低音から高音に連続的に変化する。

 瀬川は東京の道に詳しかった。大体の場所にはカーナビを頼らずとも行けるようだったし、方向感覚にも優れていた。「このまま新宿を抜けて、内堀通りから晴海通りに入って、勝鬨橋を渡ればすぐでしょ? 一体どこに迷う要素があるの」瀬川はわずかに首を傾げ、そして右車線に入った。再び加速をして、トラックを追い抜く。


「そうやって、通りの名前がすらすら出てくるのを、みんな不思議に感じるんですよ、きっと」

「そう? 毎日乗っていればそのうち覚えるって。サラは国際免許取らないの?」

「いいえ、アパートに車を止めるスペースはないですから、今のところそのつもりはありません」東京で生活する上で、車の必要性を感じたことはなかった。電車とバスがあればどこにでも行けたし、そして時間に正確なものだから、私はいつも頼りっぱなしだった。


「そうなの」瀬川は少し残念そうな声を出した。「車も捨てたもんじゃないよ。荷物は乗るし、行きたい場所までダイレクトに行けるっていうのが何よりの長所じゃない?」瀬川は得意げだった。荷物のくだりはこの車に乗っている時点で説得力はなかった。しかし行きたいところまですべて自分の意思で直接的に進みたいという気持ちは私にも分かった。少々極端ではあるけれども、それも好ましいと思った。

「それはそうですけど。イングランドにいた時は、これでも結構乗っていたんですよ」

「何に乗ってたの?」

 私は、小型車の名前を出した。最近はドイツのメーカーから出ているが、私が好きだったのは、英国で生産されていた懐かしい顔の方だ。東京の道でもたまに見かけることがある。日本での人気は高かったらしい。あの車には数十年たっても色褪せない魅力というものがあるのだろう。


「いい車に乗ってたんじゃない」瀬川も嬉しそうだった。「迷ったんだ、そっちも好きだったし。でも、日本車の方がいいかなって、最終的には」

 日本人だから、最終的には日本車を選ぶ。それはアイデンティティーの一つの発露だと感じた。アイデンティティーの持ち方は人それぞれ違うだろう。何をベースに自己を形成するのか、ということだ。愛国心かもしれないし、生まれ育った街の風土だったり、知り合う人々の心だったりするだろうか。瀬川も私も、お互いの民族に誇りを持っていた。それは尊重されるべき、もっとも大切な感情だ。

「そうですね。この車は、瀬川さんによく似合っています」

「そう? 可愛らしいところとか?」

「そうですね」私は、瀬川の天真爛漫なところが意外と好きだった。




 月島に着くころにはすっかり日が落ちていた。フロントガラスから前を走る車のテールランプが差し込む。他の車よりも低い分、近くの風景がより近く、そして遠くの景色は見えなかった。その時の自分と重なる部分があった。明日の自分は想像できた。一ヶ月後、一年後の自分となると、まったくイメージが湧かなかった。漫然と過ごす日々が続いていたのだ。私は日本に来てから成長できているのだろうか。ただ、アイデンティティーを失っているだけではないのか。

 瀬川は適当な有料駐車場に車を停めた。その場所は西仲通りから道路を一本隔てたところにあった。瀬川と私は車を降りて、横断歩道を渡った。


「初めて来たかも、私」瀬川は、通りの両側に広がるアーケードに目を奪われていた。商店の軒先にずらりと提灯がぶら下がっていた。アーケードの入り口に漢字で大きく「壱」と書いてあった。

「月島はいいところですよ。これから行くお店も、きっと気に入ると思います」私は念のため、車の中から店に電話をかけていた。数回のコール音の後受話器を取った笹本は、待っていましたと言わんばかりに、席を確保してくれた。


 瀬川を連れて、アーケードの左側を歩いた。もんじゃ焼き屋が何軒も連なる様子は異様な光景だったが、たまにスーパーやパチンコ屋があるのもまた面白かった。もんじゃ焼き屋の前には椅子が並べられていた。順番待ちをしているのだろう、その椅子に客が座っていた。邪魔にならないように素早く歩道を歩いた。

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