約束#2
すらりと伸び上がった瞬きの正体は、まるで銀河を切り取って凝縮したかのような見事なオベリスクだった。
見上げるほど高く、太く角ばった石柱。それは
その金色の粒が光を反射する
オベリスクの根元には緩やかなドーム状の青い丘が広がっていた。その丘もまた同様の瑠璃色の素材で出来ており、オベリスクと一体となってちらちらと
だが、その麗しいスカートは半分しかない。
瑠璃の丘は半身を崖に食われており、オベリスクは断崖絶壁を背にして、その
不気味な
この上なく好奇心をそそられる光景だった。
物音ひとつなく静まり返ったこの祭儀場で音を立てることが、あたかも罪であるような気がして、できる限り音を立てないよう森の際から侵入し、忍び足で中央の瑠璃の丘に近づいていく。
瑠璃の丘の外は地面が剥き出しで、枯木も虫の死骸もなく、そしてなぜかカラフルだった。
見ると、無数の透明な塊が地表から頭を出していた。拳の大きさから岩ほど大きいものまで、大小様々な塊が埋まっていたが、それらは色とりどりで透き通っており、色付き
その中に例の光る石が不規則に散在しており、光がカラフルな硝子を透過して放射状の長い色彩の影を地面に引いていた。その様子が、まるでモザイクランプを地面のそこかしこに設置してあるようで、なんとも言えない寂しげな雰囲気を
そんな異彩を放つ一帯においても、聳え立つ一本のオベリスクはひときわ目を引いた。どう見ても人工物だろう。しかも、土台となった丘と合わせて一枚岩で切れ目がなく滑らか。高度な文明を予感させる出来映えだった。
徐々にオベリスクの姿が大きくなってくると、その
女だろう。一糸の乱れもなく腰元まで流した藤色の髪が線の細い身体に垂れ掛かっており、白い薄絹の隙間から伸ばした両手を組んで熱心そうに目を閉じている。
その横顔は可憐の一言に尽きる。さながらこの世の終りに見つけた一輪の花だ。
ゆっくりと近づいていき、いよいよ瑠璃の丘の端に足をかけた時、金属製の靴が丘の表面を噛んでカチリと硬質な音を立てた。驚くほど周囲へ響いたその音に反応し、はっと顔を上げた娘と視線が交わった。
その様子に構うことなく緩やかな丘を登った。
星空を閉じ込めた瑠璃の丘で膝をつく藤色の娘の姿は、果てなき宇宙空間に漂っているかのように空想的だった。
娘の組んだ両手の中で、
茫然と見上げていた娘の瞳から、不意に一筋の
「――ああ! あぁ……」
娘が立ち上がり、澄んだ声を詰まらせながら胸元に縋りついてくる。
娘の髪からふわりと漂ってきた気流に乗って、仄かに甘みを含んだ香りが鼻の奥に届けられた。洗練された香気が鼻腔から頭頂部へと抜けていくと、うっとりとした感覚を覚え、そして強い既視感を感じ、深い
この娘の感情の
しばらくの間そうしてやりながら、押し付けられた娘の頭越しにオベリスクを見上げていた。断崖の縁に立つ瑠璃の石柱は半身を闇黒に食われつつも、辺りを一望して
――この娘は誰か。独りなのか。何を祈っていたのか。ここはどこか。この柱は何か。あの闇黒の向こうに何があるのか。それとも、何もないのか。
「大丈夫」
結局、口をついて出たのは慰めの言葉だった。
今はこの藤色の娘のために何かをしてやりたい。
胸元から見上げられ、再び娘と視線が交錯する。
「――んー、いい香り」
つい、藤色の髪を手に取ってその香り熱賛してしまう。すぐに、だいぶ気味の悪い行動だったと
だが呼吸のたびに心が
突然自分の体臭について
すぐに娘はぐっと口元を引き締めて続ける。
「時間がありません……どうか、私の願いを聞き届けてください」
「願い?」
「
「約束……」
有無を言わさぬ様子で懇願を始めた娘に当惑するが、特段悪い気分でもなかった。この娘のために何かしてやれることに期待する、自らの感覚に戸惑っただけだ。
「なにを、すればいいの?」
そっと頬を撫でてやると娘は身体を離し、オベリスクの前に立った。
「やがて湧き立つ陽光を
「…………?」
まったく理解が追い付かず、腕を組んで眉を寄せた。ずいぶん古めかしい単語が聞こえた気がした――夜明けの方角に行き、どこかに行き、何かをする。
ちらりと娘に視線を向けると、じっと黙りこくり、祈るように両手を組んで不安げな双眸でこちらを凝視していた。それはお願い事をした子供が親の反応を待っている姿そのものだった。
「夜明けの方角に向かう」
組んだ腕を解いてすっと娘に歩み寄る。
「あらか? に行って、誰かに何かをする」
「はい」
復唱に対して、娘はくすりと愛しげに笑みを浮かべた。
「わかった…………“約束”する」
約束――それは最も価値ある知性の力。本能との決別。自由への翼。
約束は守る。
それでこそ、人としての価値がある。
シンプルなルール、守り続けてきた誇りだ。魂の奥底から湧き上がる鋭気と使命感を感じる。
娘がそのしなやかな指にはまった指輪に手をかけて続ける。
「この指輪は、あなたに必要なものです」
ついっと差し出された指輪を受け取り、つまみ上げ、目線にかざし、眺め、息を飲んだ。
ぱっと見、表面がつるりとした透明な素材のシンプルな指輪だ。だがその内部には計り知れない
如何なる技巧によって生み出されたのか。それは透き通る
瑠璃色の素材はオベリスクと同じものらしく、不透明できらきらと粒状の黄金が輝いていた。一方、紺碧の素材は涼やかに澄んでおり、随所に見られる
それだけではない。それらを包み込む傷ひとつない無色透明な素材さえもが、光を受けて虹色にちかちかと
「すごい……」
人差し指に当てがってみて、まったく入らないことに苦笑する。娘の
人差し指、中指、薬指と試していき、これは小指ならひょっとするかも知れない。そういう予感を感じたその時、娘が何かを呟いた。
「ミスィデレクケニネスヴァーポティスエターニヴェンク」
「……え?」
「ミスヤージョディーヴィレヴィンヨンパ」
「ヌードルパアルミユンローペク、テンガテペアンヴィローンフェオスールラドルボデオーニネ」
胸に顔を押し付けながら、
「それ、なにかの……歌? よく分かんないんだけど――」
パァンという耳をつんざく破裂音が聞こえ、はっとなって見上げると、オベリスクの中心に大きな亀裂が走っていた。同時に離れた場所からドサリという不気味な音が聞こえ、足元から強い震動を感じた。
音がした方向に目を向けると、黒い極太の
それが何なのかまったく理解できなかったが、ひと目見て全身に緊張が走った。よく見るとかなり大きい。黒い円筒状の蛇腹か何か、としか言いようがない太くて長い身体が、毛糸玉のように一塊になって絡みつき、不吉に
それは蛇のようで、蛇ではない。黒く艶めく
しかし、ムカデなどの多足系節足動物でもない。脚が付いていないし、無数に連なった
ミミズのような
ズルズルと
あの存在を的確に表現する言葉が思いつかない。
だが、あれは危険だ。
身体に染みついた闘士の本能が、あの
「ミスロイポルリーソンコジン、ヴィスラーソンコイーリン」
娘は手を取って続ける。
「イーリレブエストスエユツァーレソ」
この異常な状況を尻目に、この娘は明らかに話しかけてきている。
地面を叩いてのたうち始めた射干玉の異形から、ますます視線を外せないでいると、そっと、頬にひんやりとした手が添えられた。
「ルーモメミンムアキヴィスダルガリノンルー」
もっとこの娘と話をしたい。
手放したくない。
胃の入り口を締め付ける焦りに突き動かされ、射干玉の異形から娘に向き直る。
すると娘は口元を緩め、断崖とは真逆をまっすぐに指差した。
娘の顔に
その姿は朝陽を受けた花のように綺麗だった。
その凛として決然とした姿は
娘の指先を追って振り返ると、枯森の奥が仄かに赤く焼け始めていた。水平いっぱいに広がる
太陽の位置は確認できないが、あの方角ということなのだろう。
「エンラローマ、ティクラルシーダローヴェクアラーズラスロトンモラヨンセパアルヴィ」
「――ティクラルシーダ……」
背後から聞こえる娘の言葉を、脳に焼き付けようとおうむ返しにする。
「ルーヴォンボニードシーポンルヘ」
「――ルーヴォン、ボニ……」
口に出してみれば何か分かるかも、と繰り返しを試みたものの、意味の知れないフレーズは後に続くことすら困難だった。
「アルラルテーレプラジョーヴィレンス――」
ガァンと、先ほどよりも大きな破砕音が背後から聞こえ、振り返って目に飛び込んできた光景に全身の血の気が引いた。
「なん――!」
瑠璃の石柱が
「まっ――!」
娘の表情は穏やかだった。何かを信じて疑わない目に柔和な微笑みすらこぼし、落ちていった。
娘の手を掴もうと無我夢中で手を伸ばし――あとほんのわずかのところでその手は空を切った。娘が視界から消えるその時まで、視線は繋がっていた。
「ミスダンテアエントリオ――」
娘の言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。
両手をついて断崖から身を乗り出し、焦燥感に
「――――っ⁉」
“駆け下りれば”間に合う。そう思い、勢いをつけて身を投げ出そうと両手に力を込めた。その時、崖下がうっすら青紫に染まっていることに気が付いた。崖を覗き込んだ前髪が揺れている。先ほど頭を突っ込んだ時は何も見通せなかったはずの虚空から、風が吹き上げていた。
そう感じた瞬間、爆発的に青紫の光が広がり、とてつもない質量が音もなく崖下からせり上がってくることを察知した。
突風となった吹き上げに押し返されて、すんでのところで崖から身を逸らした。その直後、眼と鼻の先に圧倒的質量が立ち現れる。
その時、確かに見た。無数の造形物が不規則に立ち並んで浮いてくる様子を。
建造物のようでも、何かの生物的部位のようでもあった。平面で構成された人工的構造物。
瞬きをする間にそれは頭上に過ぎ去っていき、続けざまに視界一面の壁が現れた。強く発光した壁面が、崖すれすれを凄まじい勢いで昇っていく。指先で触れようものなら、骨ごと削ぎ落とされんばかりの勢いだった。
上へ上へと昇っていく、妖しい
鉛を飲み込んだような冷たい重みを腹の奥底に感じ、溶岩の如き粘ついた
――娘が食われた。
脳裏に生まれた馬鹿げた思い付きが苛立ちと共に膨張して、徐々に思考を染め上げていった。
暗紫色に輝くヴァイオレットの光が脳に浸み込んでくる。
「あのミミズ野郎……ぶっ壊してやる‼」
何の脈絡もなく湧き上がった強迫めいた激情は、いつの間にか“直立”していた、あの巨大な
先ほどまで地面に這いつくばり、惨めにのたくっていたくせに、今ではあの偉大なオベリスクの代わり、とでも言いたげに立ち上がった汚らわしい虚無の
今ここで始末しなければならない。
あの
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