約束#1


 その森は生命の気配がまったくない、まさしく枯れた森だった。


 光る石が地表の所々に顔を出して弱々しく光を発し、閑散とした木々や枯藪かれやぶを地面から照らし上げていた。光る石の間隔が広いため、深夜の闇がまさって暗く、光の円よりは黒く塗りつぶされた箇所が多い。


 地面には枯枝かれえだ枯葉かれはが落ちていて、それらを踏みしめるたびにパキパキと乾いた音がやけに大きく周囲に響いた。そんな空間の至るところに転がっている巨大節足動物達もまた、皆一様に死骸だ。


 地面から光を受けて闇の中で不気味に浮かび上がった死骸は多種多様。蜘蛛だけではない。アリや甲虫の類が多いが、似たところでハチ、クワガタなど馴染み深い種があり、更にはムカデ、カマキリ。変わり種ではハンミョウ、カミキリムシなどなど、視認できるわずかな範囲でも相当な種類が確認できる。


 森なのだから虫がいるのは当然だろう。ただ、いささか大きすぎる。大人の身長を優に超えるサイズの個体もあった。これら死骸の大きさと密度が、木々のサイズ感とまったく釣り合っていない。


 死骸の状態はさまざまだ。損傷がなく、寿命を迎えたように静かに脚を丸めて転がっている個体の他、大きな穴が開いた個体、引き裂かれた個体、身体からキノコを生やした個体、バラバラに飛び散っている個体、溶剤の匂いがする黒い液体に半分溶けて沈んでいる個体。それらは全て激しい戦闘の跡を思わせるものだった。木々に叩き付けられて、へし折れた幹に潰されているカマキリなど、その最たる例だ。


 そんな死骸の大半は断崖に頭を向けていて、彼らは何かと戦って共に果てた、そんな風にも思わせる。


 この枯森は、さながら虫達の古戦場だ。


 右手に虫達を、左手に断崖をのぞみながら枯森を進んでいった。左手の崖からはできるだけ距離を取りたかったが、遠くの光を目印にまっすぐ向かうと自然と崖を左手にして進むことになるのだ。


 枯木の隙間に覗いた弱々しい明滅は、まだまだ遠くに感じた。地面に横たわった朽ち木を乗り越え、高い枯草かれくさやぶを籠手で振り払い、転がった死骸を避けつつ一直線に前へ。光る石をランタンにして闇を払いながら歩いた。時々足元に転がった小さめの死骸をうっかり踏みつけてしまうと、そのたびにセミの抜け殻を踏みつけたような乾いた音を立てて呆気あっけなく砕けた。


 そんな具合に様々な音を立てて枯森を進んでいくと、より一層存在感を増すのは左手にある断崖と、今にもこちらに手を伸ばしてきそうな闇黒くらやみだ。あの闇黒に、どこか得体えたいの知れない雰囲気を感じる。


 試しに、足元にあった光る石を放り込んでみたがなしつぶて。それはあっけなく境界線の向こうに落ちていって、それきりだった。壁に当たる音、底をつく音、水面に飛び込む音。想定されるありとあらゆる音というものが帰ってこない。


 そこで、思い切って崖の縁に両手を掛けて下を覗き込んでみたが、落ちていったはずの明かりは見当たらず、闇黒の中に何ひとつ認めることはできなかった。しかしその時、この境界線の向こうに頭を出してみたことで、偶然にもこの不可解な気配の正体を理解できた。


 無音なのだ。


 崖の向こうからは一切の音が聞こえない。こちらで音を立てても返ってこない。空気の流れすらもない。境界線から出した頭に、真綿で締め付けられるような圧迫感を感じる。


 よどんだ無響空間。それは途方もない空虚。


 いったいどれほどの空間が広がっていれば、こんな事態になるのだろうか。自然界では存在し得ないその異常に、身体が勝手に警戒感を覚えていた。


 ふと、闇黒を見つめる視界の端で何かが動いた。


 崖の一部が音もなく落ちていったようだ。まるで限界まで耐えていた手を、ついに放してしまった哀れな犠牲者のように。悲鳴も上げず、静かに、ゆっくりと。


 ――この崖は崩れる。


 そう認識を改めると、断崖から更に数歩距離を取った。


 断崖と闇黒を油断なく見つめていると、またしても手に持った石の光が弱々しくなった。そんな不思議な石を何度も取り換えながら歩みを進めると、体中に付いていた不快な赤い液体がいつしか乾き始め、あかが落ちるようにぼろぼろと剥がれ落ちていった。


 そうしてあらわになった籠手や脛当は傷ひとつなく滑らかだった。光沢のないマットな質感がどこか冷たく、両手両脚にずっしりとした存在感を伝えてくる。


 この装具のことをよく知っている。これは最も優れた装具であり、酷く恐ろしい品であり、相棒のようなものであり――名前が出てこない。


 頭をきながら髪に手を差し込んでいてやると、乾いて固まっていた毛束がパリパリと小気味良い音を立ててほぐれていく。その感触がどこか楽しくて、歩きながら何度もそうしてやると、こびり付いた汚れをずいぶん落とすことに成功し、やがて雪のように白い毛髪が露わになった。


 こうして髪の毛を触っていると妙に落ち着く。この白い髪も、髪留めも、馴染み深いものだ。そして不思議とそれがずいぶんと昔のことにも感じられた。


 晴れない思考に苛立ちを覚え始め、八つ当たり気味に地面の光る石を蹴りながら進んだ。するとこの石蹴り遊び、転がったところが明るくなって見えるので、足元をあらためるという観点で実は有効だということが分かった。


 “蹴り”はお手の物だ。歩きながら金属の靴で石を小突いて器用に前方に蹴り転がす。子供じみた単純な行為だったが、これがなかなか病みつきになる。


 そんなことを繰り返しながら進んでいくと、やがてハンドボール大の光る石を見つけ、勇んで勢いよく蹴り飛ばした。弾丸のような勢いで直線的に飛んでいった石は、前方の高い枯藪かれやぶを突き抜けて視界から消えていった。


 それを追いかけて藪をかき分けると、突如視界が開けた。


 断崖に沿って枯森を切り開いた半円状の広い空間が目の前に現れた。

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