鬼の彷徨
闇黒のほとりにて
ほどけた心#1
――まとわりつく影の中。
しかし意識の
まとわりつく影が、
圧倒的
――意識が再びまどろむ中。
か細い気流が鼻の奥に届けられた。
豊かな花の香りが脳をくすぐった。
それは鋭く胸を刺した。
「――! っはぁ‼」
安らかに手放しかけた意識とは裏腹に、全身の細胞に
「――――っ‼ っはぁ! はぁ……はぁ……」
心臓が別の生き物になったように激しく打ち鳴らされ、身体が自然と仰向きになった。その勢いのまま、繰り返し覆い被さってくる分厚い睡魔を押し除けて上半身を跳ね起こす。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
両の眼を見開き、深い呼吸を繰り返していると、悪夢から目覚めた直後のように全身が火照り始めた。
熱の
「――はぁ、うぇ、なに……これ……?」
付着した液体を確認しようと右手を上げようとすると、ずっしりした重みを腕に感じた。まるで誰かに腕を掴まれて引き留められているかのような、強い抵抗感があった。
右腕には金属が装着されていた。どこか恨めしそうな表情を湛えた黒い金属だった。手首から肘に至る前腕部をすっぽりと覆った形状は
籠手の外側中央には特徴的な紋様が浮き彫りになっていた。二本の尾が、ひとつの六芒星に絡みついた紋様だ――不意にその紋様に強い既視感を覚えたものの、それが何だったのか、
籠手にも付着していた赤い液体を指で
あらためて肺一杯にその香りを吸い込むと、ふやけた脳が引き締められ、未だ激しく打ち続けている心臓がなだめられていく。
「はぁ……はぁ」
ふと、前方に気配を感じた。顔を上げると深紅に染まった大きな塊があった。目の前には大きな卵型の物体が鎮座していた。それは成人男性の身長よりも大きく、表面には茨の
その様子が、
この塊から噴き出した液体を浴びたのだろうが、そこに至る文脈が意味不明だった。いかに良い香りとはいえども、それを全身に浴びているのは気分が悪い。
「――はぁ」
軽い不快感に嘆息をついて周囲を見渡すと、そこは一言で表せば――薄暗い、枯れた森だった。
周辺一帯が暗すぎてシルエットしか確認できないが、不規則に立ち並んだ木々には葉が一枚もついていない。全てが苦痛に悶え、ねじれ上がり、燃え尽きたように
次いで視線を落とせば、そこには厚く敷き込まれた
「ここに倒れて……なんで……⁇」
頬をさすり、ぽつり――その
上半身だけを起こした寝起きの姿勢のまま天を仰いだ。見上げても空は真っ黒で星ひとつ見えない。この空の暗さは深夜だろう。ではなぜ、薄暗いながらも枯れた森を見渡せるのか――答えは下にあった。
枯枝の絨毯の下に隠れて、うっすら光っている何かが見える。
敷き込まれた枯枝を払い除けると、奥からぼんやりと光る石が顔を出した。周辺にはこの光る石がぽつりぽつりと転がっていて、枯森全体を淡い光で照らし上げているのだ。
下から淡い光を受けて闇の中に浮かび上がる、白くひねくれた枯木の数々。それはまるで闇夜の中に立ち並ぶ亡霊のようで、どこか
この光る石の正体は謎だが、光源として使えそうだったので、手っ取り早く引っ掴んで力を込めると、それは抵抗なく地面から外れた。拳大ほどの光る石の表面はつるつると滑らかで、透き通った八面体の形をしており、全体的にうっすら青みがかった白い光を放っていた。
そんな不思議な光源を頭上高く掲げる。
その明かりは頼りなく、どんよりと闇が降りた枯森を見通すことはできなかった。その代わりに、すぐ近くに立つ一本の木の姿を、闇の奥から浮かび上がらせた。
その木の幹は有機物とは思えないほどの質量感を持った
呼吸を落ち着かせるのに十分な時間、その大樹を眺めていた。不思議と飽きることはなかった。
やがて呼吸も鼓動も完全に鎮まり、大樹に眺めることにも満足すると、次はそれに触りたくなってくる。わくっと好奇心がうずくのを感じ、立ち上がろうとした直後、全身の関節がぎりぎりと悲鳴を上げた。まるで油が切れた機械のような重苦しさだった。接合部の
手に持った光る石を背中に回すと、赤い液体にびっしょりと濡れた長い髪が垂れ下がっていた。本当に長い髪だ。一見して赤く濡れそぼっているものの、よく見ると地の白い色が見え隠れしている。膝裏を通り過ぎて
この長く豊かな毛髪が赤い液体を含んだために、その重みで頭を引かれたようだ。
「――ううっ、最悪……」
それなりに髪の毛にはこだわりがある。そうむっつりと口を結んでから、ふと、それはなぜなのかと眉を
立ち上がってから、そのまま光る石で全身をなぞると、血錆びた
両腕には例の漆黒の籠手が、そして両脚の脛にも同じ黒い金属で出来た
これらの装具を身にまとっている事実に、異郷で古い友人にばったり出会う、そんな不可解な
ひとしきり身体の状態を確認すると、徐々にではあったが混乱し始める。
「……ここ、どこ?」
完全にここはどこ、私は誰。
腕を組んで頭をひねり、「んんー?」と
何か記憶があるはずなのに、それに手を伸ばすと引っかかりもなく
それでも不思議と不安は湧いてこなかった。焦りも怖れもない。寂しさも心細さもない。何も感じない。ただ、そわそわと心が落ち着かない。
ばらばらに、ほどけて散ってしまった心。
しばらくの間、腕を組んだまま眉間にしわを寄せ、ぐるぐると首を振りながら唸っていたが、やがてぴたりとその動きを止め、大きく息を吐き、諦めた。
記憶の切っ掛けがどこかにないかと、付近の捜索をもうしばらく続けてみることにした。
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