みかんせい

白瀬直

第1話

 普段から連絡は取っているけれどさくらが会いに来るのは久しぶりだったので、家では珍しく風流なイベントが起きていた。中秋の名月。夏の暑さを残す夜に見える満月を、お団子を食べながら眺める。わたしも夏の間には一度も着なかった浴衣に袖を通して、甘ったるい団子をお茶で喉奥に流しこんでいた。

「風流……ねぇ」

 ここのところ秋口になっても気温は下がらないので、油断すれば汗が滲んできそうだ。両手で抱えた湯飲みも汗をかいている。季節の行事だからと言ってそれを日付通りに実行することは、季節を楽しむという目的からは乖離しているような気もする。

「あー、疲れる」

「お疲れー」

 さくらが、リリを抱えながら戻ってきた。風流の欠片もなく庭を走り回っていた我が妹は今は体力が切れてしまったらしく大人しく寝息を立てている。たまに会いに来ては妹の世話係になって疲れて帰っていくさくらだけど、それでも毎度楽しそうではある。

 走り回っていたリリの相手をしていたさくらは、頬から顎にかけて一筋の汗が流れていた。抱えたリリを畳の座敷に放り込んでタオルケットを掛けてくれる。電池の切れたリリは、多少雑に扱っても日が昇るまで起き出すことは無い。

「お茶いる?」

「欲しい」

 冷蔵庫から出していたピッチャーは結露で滂沱の様相だったけれど、中身はまだ十分に冷えていた。持っていた湯飲みを一旦空にして、改めて注いでやる。

「はい」

 さくらは寝そべったリリを眺めながら湯飲みを受け取る。冷たさに驚いたか、ほんの少しこちらに目を戻して改めて湯飲みに口を付けた。さくらの、汗の筋の残る顎と一口二口とお茶を飲んで喉の動く様を眺めていると、芸術品みたいだなという感想が脳裏に浮かぶ。

「限界ってさ」

 湯飲みを持った右手を下ろし、息を吐き出しながら、さくらが小さく呟いた。

「うん?」

「限界ってさ、大人になると下がってくるよね」

 さくらはそんなことをつぶやきながら寝っ転がったリリのほっぺたをつつく。柔らかな頬肉はつついた指が離れる度、弾力良く膨らんだ。あまりの柔らかさでつつかれたことを認識していないのか、リリは寝返りも打たない。

「限界とは?」

「まぁ、体力の限界とかもさ。子供って限界まで遊べるじゃん。というか、リリちゃんとか多分、限界超えるまで遊べるじゃん」

 右手に湯飲みを持ったまま、左手だけでリリに掛かったタオルケットを器用に直す。リリは慣れない夜更かしに興奮して走り回っていたので、着ていた浴衣もかなり崩れてしまっていた。夜空をあしらった紺の浴衣がはだけて、健康的に膨らんだ太ももが見えている。ふくらはぎに土が跳ねているあたり「お転婆」の称号は免れまい。

 確かに、リリは体力の限界まで遊ぶことができる。限界ギリギリまで元気なままを維持して、限界を超えてもまだ少しは元気で、そして唐突に電源が切れたように眠りに落ちる。危なっかしく感じる体力の使い方だけれど、家族全員それを理解した上で遊ばせている。そして、それはさくらも知るところだ。

「体力が切れるまで遊ぶってさ、大人になっちゃうともう難しいよね。というか無理でしょ」

「ふむ」

 まぁ、さくらの言ってることは分からなくもない。誰かが、今のわたしにリリと同じように限界まで遊べなんて言ってきたとして、それを冗談だと思わない方が難しい。

 座敷から縁側に戻ってきたさくらが、浮かぶ月を眺めながらわたしの隣に座る。熱帯夜手前の気温なので、縁側のひんやりとした板張りが心地よいのだ。

「ほい」

「ありがと」

 受け取ったタオルで汗の跡を拭い、湯飲みに残っていたお茶を一息に飲み干す。

「そんな風に、自分の限界まで全部出し切るってのは、難しくなるわけですよ、」

 さくらは自分の胸に痞えるものを取り出すように、一つ一つ慎重に言葉を吐く。湯飲みを置き両手を後ろについて、夜空に浮かぶ満月に目掛けてゆっくりと言葉を投げる。

「大人になるとさ」

 さくらが投げた言葉には感情が乗っていて、それがわたしに纏わりついた。甘く、粘着質な言葉。秋らしからぬ気温も相まって、いささかの鬱陶しさがある。そんな風にわたしに話すとき、さくらは甘えたがりなのだ。

 投げられた言葉を一つ一つ受け取って、纏わりついているさくらの感情だけをはがして、飲み込む。「大人」という言葉に張り付いた甘ったるい感情は前向きなものじゃなかった。ついさっきお茶で流し込んだ団子の甘さを思い出して唇を舐める。まだ、団子の方が飲み込みやすかった。

「仕事、上手くいってないの?」

「……そうじゃないけど」

 そう言うさくらの横顔は何も変わらなかった。頬にわずかに滲む汗も、薄く吹く風に揺れる柔らかな前髪も、いつだって自分を信じてわたしの前を歩いていた「望月さくら」そのものだった。

 多分、わたしの言葉は核心をついている。さくらがわたしに会いに来るとはそういうことだ。さくらが甘えたがるのは、その生き方が揺らいだときで。それは大体、まっすぐ生き過ぎているからこそ生まれた軋轢が大きくなってしまったときだ。まっすぐだけれど、割と柔らかい部分のあるさくらは何かあるたびにわたしに甘えに来る。

 そしてそんなとき、私はさくらの「おねえちゃん」になる。

「じゃあ、何かしたいの?」

 上を向いたまま、さくらの感情が和らぐのを感じる。月明かりに照らされる顔がほんの少しだけ柔らかくなって、さっきまで感じていた甘ったるさも不快なものではなくなって。表情も、他の人から見て取れるほど楽しそうになったわけじゃないけど、ほんの少し明るくなったようには見えた。そんな、少し明るくなった「さくらちゃん」が言う。

「膝枕、かな」

「え、暑くない?」

 思わず突っ込んでしまう。滲んだ汗が一つ粒になったのを感じた。秋らしくない気温も、気持ちよく冷える床に触れていれば凌げるけど、人肌に触れたらもっと暑くなりそうだ。

「大丈夫大丈夫、ちょっとだけだから」

 そんなことを言っていそいそと上半身を倒してくる。お尻を動かしてちょうどいい距離を確認して、わたしの太ももにさくらの頭が乗る。さくらはわたしの膝を緩く掴んで、のそのそと位置を調整して、

「うぬ」

 髪を巻き込んでしまったので一旦頭を上げて払い、また下ろして庭の方に視線を投げた。

 太ももに、さらさらした髪の質感と頭の重さを感じる。膝枕をするのは初めてだったけれど、いざ枕側をやってみると手をどこに置けばいいのか悩んだ。右手はまぁ床につくとして、さくらの体側にある左手が特に。

「寝ないよね」

「寝ない寝ない」

 見上げられて目が合うのも気恥しいので、

「じゃあこう」

 左手でさくらの目を覆うことにする。

「うぇ」

 前髪を少しだけかき上げて、掌をほっぺた薄くに当てながら指で蓋をして。せっかくの満月も夜空も見えないようにして、音だけを届ける。緩く吹く風が葉を揺らす音。鈴虫か蟋蟀か、暑い夜でも几帳面に鳴く声。少し離れた国道からたまに聞こえる車の音。全て薄く聞こえるその音の群れの中に、自作の音を混ぜてやる。右手の指で床を叩いて、ゆっくりと、リズミカルに、さくらの頭にだけ響くように、子守歌でも聞かせるように、音を響かせる。

 タタタン。タタタン。

「さくらちゃんは大人でしたか」

「今は、ちょっと、判んないけど」

 子守歌の態勢である自覚はあるようで、ちょっと拗ねたような返事が返ってきた。

「判んないか」

 思わず笑みが出てしまった。口元を隠そうと手を探したけど、両手ともそれぞれ仕事中で、抑えられなかった口からほんの少し息が漏れた。

 タタタン。タタタン。

 いつの間にか、風も虫も鳴き止んで、指が鳴らす音だけが大きく聞こえてくる。

「判んなく、なっちゃったか」

「うん」

 二文字に乗り切らないくらいの感情を乗せて、だけど声は震えのないまっすぐな声で。自分の中に文字以上の何かがあるんだってことをわたしに伝えながら、さくらは話す。

「前はね、もっとできた気がするんだよ。限界って、もっと上にあった気がするんだよ」

 タタタン。タタタン。

 さくらは、初めからまっすぐだったわけじゃない。強くあったわけでもない。

 まっすぐであろうと決めて、それを実践しているだけの、柔らかいほっぺたと、サラサラな髪を持った、女の子だ。

「今はね、判んなくなっちゃった」

 タン。

 床を叩いていた指を止める。

 さくらはまっすぐだけど、何かの拍子ですぐに曲がってしまう。曲がってしまったのを自覚したとき、さくらはわたしに会いに来る。そしてわたしは、それを直してあげるのだ。刀鍛冶みたいにカンカンと。

 いつ頃からそうし始めたのかは判らない。何がきっかけだったのかは覚えていない。でも、そうやって前に進めているのなら、今のところはそうしていっていいんだろう。

「さくらちゃんさー」

「うん」

「限界とか、なんとかさー」

「うん」

「そんな簡単に見えるもんなの?」

 虫の鳴く声も、風の音も聞こえない静寂。

 さくらは割とすぐに曲がってしまって、曲がってはわたしに会いに来る甘えたがりだけれど、甘やかされたいわけではないのだ。

 さくらはわたしに打ち直されに来ている。

 だから、ちゃんと叩いてあげるのだ。

「限界決めるの、早いんじゃないの?」

 後ろ手に、柱の裏に隠すように置いていたものを手に取る。

「何これ?」

 目を覆っていた左手を開けてさくらに渡したのは、現代アートの巨匠「望月リリー」の最新作で、まだ青い蜜柑に割りばしを一本突き刺して台に立ててあるだけという奇妙奇天烈なオブジェだった。

「リリが自由研究、というか、工作で作ったやつ」

「斜めに立ててるのも何かあるの?」

「23.4度になってる」

「あー、地軸なのかこれ」

 意匠をすぐに察するさくらは、リリにとっては良き理解者なのであろう。

「さくらに見せたいってずっと言ってたよ」

「ふーん」

 さくらは、しばらく持ち上げて矯めつ眇めつしていたけれど、ふと何かに気付く。

「タイトルは?」

「“みかんせい”だって」

「……」

 黙った。聞いただけで思うところはあるようだ。

 ダブルミーニング。いやしくも物作りの端くれであるわたしたちの頭にはいつだってそういうものが渦巻いてる。

 蜜柑の星、未成熟で、未完成。

「刺さるねぇ」

 顔を歪めて笑うさくら。芸術品のように思えたその顔が端正なまま人間味を得る。

 誰からの指摘であれ、自らの未熟を受け入れるのは難しい。誰だって。

「さくらさぁ」

「うん」

「何があったかは知らないし、聞かないけどさ」

「うん」

「多分、あってると、間違ってないと思うんだよね」

 自分達が完成してるとは思えないし、正しいかなんて判らないけど。

 自分くらいは自分が正しいって思ってあげていいんじゃないの。

 そういった甘さを自分には向けてあげてもいいんじゃないのと、そう思う。

「それで、そのままでいいんだと思うよ」

 そう、伝わっているだろうか。

 この言葉で伝わるだろうか。

「やりたいことやっていいんじゃない?」

 考えてることを全部載せきれるとは思ってないけど、言葉を一つ一つ丁寧に選ぶ。

 自分の言葉以外に、音も景色も、渡したいもの以外の何もかもが溢れる世界で、自分の想いを伝えるために。

「うん」

 さくらが選んだその二文字には、十分な感情が乗っていた。

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みかんせい 白瀬直 @etna0624

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