プロローグ1 想いの果てに

「父さん! 給料でたから何かウマいの食べに行こう!」


 喜び勇んで、金城一真は帰宅した。

 

 自宅アパートの部屋はいつものように薄暗い。

 けれど、返事がなかった。

 いつもなら、元気がなさそうな低い声で「ああ」なり「おう」なり一言帰ってくるのに。


 一真は何か背筋に冷たいものを感じた。

 

「し、初任給だよ。今まで世話んなったから……」


 努めて明るく言い出して、不安から言うのを止める。


 都心から離れた古い2DK、父がいつもいる居間は、ふすまで見えない。

 そういえば、いつもならこの時間にやってるニュースの音が聞こえない。

 父は働けなくなってからもニュースだけは見ていた。だというのに、聞こえない。

 

「父さん?」


 返事はない。

 

 靴を脱いで、部屋に上がる。

 2、3歩で居間の前、ふすまに手を掛けた。なにか、微かな音が聞こえる。

 

 耳に届く何かがきしむ音を無視して、一真はふすまを滑らせた。

 

「とう、さ」


 声が漏れる。

 一真は目に入る光景を、認識したくなかった。


 薄暗い部屋の中、部屋の中央、電灯に絡まるようにつり下げられた人。

 壮年の男性、一真の父。

 

 軽く揺れて、ぎぃ、ぎぃ、とロープが軋み、静かな室内に染む。

 父の体内から重力によって垂れた酷い匂い。

 見慣れた背中は、最近小さく感じていた。

 背を向けるように吊られ、顔は見えない。

 

 一真は一歩踏み出して、何かに足をぶつけた。

 出て行った母親が置いていったドレッサー用の、丸くて背の低い椅子だ。

 座面がこちらを向いていて、足を向こうに向けていた。

 

 一真は見上げ、椅子にぶつけた足を引いて後ずさり、手に持った封筒が落ちる。

 

「あ、あぁ、とうさ」


 声を絞り出して、喉が掠れた。風か何かで揺れる規則的な動き。

 呼吸音も、自分のものだけだ。

 

「あ、あ、ぅあ、父さん」


 足を動かさなかった。

 逃げ出そうとする心も、逃げ出そうとする心も、両方あったからだ。

 だが、時間が経つにつれ、父の姿が胸に落ちるにつれ、釣り合いは傾いて。


「うわあああああああああああ!」


 一真は父に背を向け、逃げ出した。

 ふすまやドアに体をぶつけ、靴を履かずに部屋を飛び出しす。

 アパートの階段を転げ落ちてもすぐに起き上がって、遠くに、遠くに逃げたかった。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

 一真の脳裏に思い出が駆け巡り続ける。

 肉体仕事で体を壊してからずっと、酒に逃げずに笑顔でいてくれた。

 母が出ていってから、ずっと育ててくれたのは父だった。

 戦えなくなってからも、頭を下げて稼いできてくれた。

 怪我をする前までは、テレビの中で格好良く戦っていた。

 少しだけれど、格闘技の手ほどきをしてくれたのは父だ。

 この名前だって、父さんが付けてくれた。


 ぐるぐると、同じ事を思い返す。

 あてもなく、ただ一真は走り続けた。

 薄暗い街は人通りはなく、車もなかった。

 だから、走り続けられた。走り続けてしまった。


 辻も車道も真っ直ぐ進んで、真っ直ぐ進んで、息が続かなくなって、一真は膝から倒れ込んだ。

 大通りの、太い2車線の道路だった。


 そして、クラクションの音に顔を向けると、やたら眩しい二つの光が一真の目を眩ませる。



 それが、最後の光景だった。

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