宵闇の練習曲
由希
サーク編「受け継がれていくもの」 第1話
三十八の時、住み慣れたラヌーンの森を捨て人間の世界に移り住んだ。
後悔はなかった。ラヌーンの閉鎖的で排他的な空気には嫌気が差していたし、人間の社会というものにも昔から興味はあった。
けれど、この身一つで飛び込んだ新しい世界は決して住み良いものではなく。男でもエルフなら売れると言って、人さらいの被害に遭いかけた事も少なくなかった。
そうして人間の世界で暮らし、一年が過ぎた頃――俺は立派なチンピラに成り下がっていた。
「二度とこの店に来るんじゃねえ! このコソドロエルフが!」
派手にやられてボロボロの体を更に店主に蹴りつけられ、大した抵抗も出来ずに店の外に叩き出される。体中がズキズキと痛み、すぐに立ち上がる事も出来なかった。
運がなかった。いつものように盛り場で客の財布を失敬しようと思ったところ、たまたま通りがたった従業員に見つかってしまったのだ。
そこから先は大騒ぎ。従業員は大声で俺のスリ行為をばらし、それを聞いた客共や店主に袋叩きに遭い……。
で、この有り様だ。さてどうするか。何とかして金を稼がねえと、今夜の宿代どころか飯代すらどうにもならねえ……。
「見て……エルフよ……」
「あんなにボロボロになって、何やったんだか……」
ふと聞こえた囁き合うような声に辺りを見回すと、いつの間にか野次馬がやって来て俺を遠巻きに見つめていた。……ちっ、苛々する。この世界じゃ、俺はどこに行っても珍獣扱いだ。
「見世モンじゃねえぞ! 散れ!!」
痛む体を起こし、苛立ちをぶつけるように周囲に怒鳴り散らす。野次馬共は俺の一声にびくりと体を震わせると、まるで蜘蛛の子を散らすようにぱらぱらとその場を立ち去っていった。
「っつ……あいつら、派手にやりやがって……」
よろよろと立ち上がりながら、体に付いた砂埃を何とか払う。奇異の視線はまだ微かに残っていたが、それ以上は気にしない事にした。
「おい――お前」
その時、背後から声がかかる。聞きなれない、若い男の声。
「あン?」
面倒臭く思いながらも振り返ると、そこには旅装束の若い二人組の男女が立っていた。黒髪黒目の、俺と並ぶくらいの身長の美丈夫と対照的に金目に長く美しい金髪を垂らした、どこか浮世離れした雰囲気の美女だ。
一体何の用だろうかと訝しむ視線を向ける俺に、男は臆する事なく突然俺の手を掴んだ。――不味い。顔は覚えてないが、まさか前に財布をスリ取った旅人か!?
「か……金を返せっつわれても何も出ねえぞ! 俺は今文無しで……」
「何を言っている。……酷くやられているな。早く手当てをしよう」
「……え?」
ところが返って来た言葉に、一瞬俺は訳が解らず呆けてしまう。……今、何て言った? 俺を、手当て?
俺が呆けている間にも、二人は俺の手を引きどんどんどこかに連れていこうとする。強引ではあるが力の籠りすぎない、労られていると解る誘導の仕方だった。
「わ……解った! お前らについてくよ! だから手を離してくれ!」
それに気付くと急に手を引かれている現状が恥ずかしくなり、俺は慌ててそう懇願する。すると二人は意外にも、あっさりと手を離してくれた。
(何なんだ……一体)
どうやら、人さらいの類とは違うらしい。そう判断した俺は、ひとまず言葉通りに大人しく二人についていく事にした。
――それがこの俺、サークと、生涯初の親友と呼ぶ事になる存在、ガライド・アウスバッハとエレノアとの初めての出会いだった。
連れていかれた場所は、町にある宿屋の一室だった。部屋に入ると俺は男の手で上半身を脱がされ、それによって露になった袋叩きで付いた青痣に女が手をかざした。
女の手から、柔らかで温かい光が溢れる。その光に触れると、青痣はみるみるうちに小さくなっていきやがてその姿を消した。
「――はい、終わりましたよ」
女が微笑み手をどけると、体中にあった痣は総て綺麗さっぱりなくなっていた。不思議な光景に俺がまじまじと自分の体を眺めていると、男が俺の様子に目を瞬かせ言った。
「聖魔法の治療を受けるのは初めてなのか?」
「セイマホウ? ああ、人間の世界の聖職者とか言うのが使う魔法か? 生憎そんな金の余裕、あった事がないんでね」
人間の社会に出てきたばかりの時、教会という所を訪ねたら金がないからと追い返された事を思い出しながら言うと女の顔が少し曇った。そして俺の手をそっと取り、悲しげに口を開いた。
「――ごめんなさい。聖職者とは、貧しい者の味方でこそあるべきなのに。その方達に代わって、心よりお詫びします」
「各地の教会が拝金主義に傾いてきている事は、今世界中で問題になっているからな。昔ながらの非営利主義を掲げているのは、今やアンジェラ教ぐらいのものだ」
男も苦い顔をして、女の言葉に注釈を与える。……よく解らないが、どうやらこの女もその聖職者という奴の一人らしい。
「そういえば、お前さっきも文無しとか言っていたな。金がないのか?」
「……悪ぃかよ」
「なら、今夜はこのままこの部屋に泊まっていかないか? 部屋代は俺が出す。心配するな」
「え?」
その言葉に、思わず男の顔を見返す。見れば女も、俺の手を取ったまま微笑みを浮かべていた。
こいつら、正気か? 店から叩き出されて転がされていた通りすがりに会っただけの奴を、自分と同じ部屋に泊めようなんて。
「治療は終わったとは言え、傷の痛みは今夜一晩は残るだろう。こうして会ったのも何かの縁だ。旅は一期一会と言うしな」
「そうですよ。是非一緒に泊まっていって下さい」
人の良さそうな笑みを浮かべ、なおもそう勧める二人。そんな二人に、俺は。
「……んじゃあ、お言葉に甘えて今夜一晩世話になるわ」
と、そう言って頭を下げたのだった。
こんな時、物語だったらこれで俺は改心し、真面目に生きるようになるんだろう。
けれどあの頃の俺は、控えめに言ってみてもクズだった。おまけにどうしようもない馬鹿だった。
その晩、俺は――そんな二人の優しさを、裏切る行為に出たんだ。
夜も更け、皆が寝静まった頃。それまでずっと寝たふりをしていた俺は、音を立てないようにそっと起き上がった。
体の痛みはまだ残っていたが、それでも大分マシになっていた。聖魔法とやらの凄さを、改めて実感する。
隣のベッドに横になっている、ガライドと名乗った男が確かに眠っているのを確認する。エレノアと名乗った女は、俺達とは別の部屋で休んでいる為ここにはいない。
今なら、誰にも気付かれない。――こいつの財布を頂く、またとない機会だ。
罪悪感なんてものは、とっくの昔に捨てた。得体の知れない奴をまんまと同じ部屋に上げた、こいつらが馬鹿なのさ。
そうほくそ笑み、足音を立てないよう気を付けながらガライドのベッドの足元側に置かれた荷物袋に近付く。そして袋の口の紐を緩め、中を拝見しようとした時だ。
「――何をしている?」
……冷や水を浴びせかけられた気分というのは、きっとこういう事を言うのだろう。その場に体を凍り付かせながら、俺は、何とか頭だけをベッドの上に向けた。
そこでは、体を半分だけ起こしたガライドが、静かな目で俺を見下ろしていた。
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