夏の終わりと魔法使い
紫野晴音
夏の終わりと魔法使い
蝉も声を潜める猛暑の中、翔太は顔を真っ赤にしながら、公園の真ん中の時計を睨みつけていた。
時計は、ちょうど十二時を示している。太陽は頭の上でさんさんと光っているせいか、公園には誰一人も居ない。きっと、あんまりにも暑いから、家の中で遊んでいるのだろう。
ふらふらと木陰に行く最中、翔太は転がっていた石につんのめった。そのまま、ばたりとこける。なんとか地面に手をついたものの、ごん、と重いリュックサックが頭に当たった。
「いたっ!」
リュックサックに当たった頭が、がん、と痛む。翔太は涙目になりながら、地面にべったりついた顔を起こした。砂が口に入って、変な味がする。気持ち悪い。ぺ、と砂を吐く翔太の鼓膜を、突然、涼やかな声が震わせた。
「大丈夫?」
いきなり人の気配がしたことに驚いて、翔太は勢いよく顔を上げた。
麦わら帽子を被った少女が、翔太を見下ろしていた。歳は、高校生くらいだろうか。胸には、鍵のネックレスを掛けている。片手に下げているレジ袋だけが、彼女に生活感を与えていた。
太陽なんて一度も当たったことのなさそうな、真っ白な手が、翔太に向かって差し出されている。翔太が思わずその手を取ると、彼女はぐっと翔太を引っ張った。翔太が立ち上がると、彼女はほっと溜息を吐いて、微かに笑った。
「足は、くじいてなさそうかな。頭は?変な感じは、しない?」
「ううん、大丈夫。ちょっと痛いけどね」
「それならよかった。勢いよく頭を打っていたから、少し心配だったの」
そこまで言って、少女はふっと表情を消すと、腰を僅かにかがめた。彼女は翔太に目線を合わせると、やけに真剣な口調で、不思議なことを問いかけてきた。
「ねえ、今日は何月何日?君は、何歳?」
「8月31日だよ。僕は、11歳。でも、どうして知りたいの?」
「………随分しっかりしてそうだったから、中学生かと思ったの。でも、11歳なら、まだ小学生ね。少し、驚いたわ」
そう言いながらも、柔らかなヘーゼルの瞳が、困ったように伏せられる。そのしぐさに、彼女が嘘を言っていると直感した。どうやら本当の理由を答える気は、ないらしい。
そういえば、彼女は、翔太の手を引っ張るまで、どこに隠れていたのだろう。
そんな疑問も、同時に湧き出す。
だって、翔太がこけるまで、公園には誰もいなかった。
いきなり目の前の少女が不思議に思えて、その顔をじっと見つめていると、彼女はさあっと頬を赤らめた。その表情があまりに可愛らしくて、翔太の心からうっかり毒気が抜ける。小学生相手に、こんなにころころ表情を変える少女が、嘘を吐けるわけがない。
「ごめんなさい、私の顔、何かついているかしら。そんなに見つめられると、照れてしまうわ」
「ううん、お姉さんの顔は、少しも汚れてないよ。ただ、お姉さんがいつここに来たのか、少し不思議なんだ。さっきまで、ここには誰もいなかったのに」
翔太の問いに、少女はああ、と一つ頷くと、胸に掛けられた鍵を手に取った。巻き付くような蛇が掘られた、鈍い色をした真鍮の鍵。
「魔法を使ったのよ、翔太くん」
名前を言われて、翔太はえ、と息を呑んだ。翔太はまだ、彼女に名前を名乗っていない。だから、彼女が翔太の名前を、知っているわけがないのだ。
「お姉さん、どうして僕の名前を知ってるの」
翔太の、微かに震える声に、少女は口角を釣り上げた。まるで、悪戯に成功した、小さな子どもみたいに。
「私が君の名前を知ってるのも、いきなりここに現れたのも、魔法のおかげ。この鍵は、魔法を使うための道具なの」
そう言って、少女は持っていたレジ袋を、翔太に差し出した。恐る恐る中身を覗くと、入っていたのは、見たこともないアイス。
顔をぱっと上げて、少女の顔を見る。
彼女は、雲みたいにふわふわした笑みを浮かべていた。
「お姉さん、魔法使いなの。このアイスをあげるから、私の魔法を手伝ってくれない?翔太くん」
・・・
時刻は午後六時半。翔太が彼女に公園から連れ出されて、約五時間が経った。
太陽は徐々に傾きつつあり、じりじりと肌が焦げていく感触も収まりつつある。
黒いレースの日傘を差して、下の景色を見つめている彼女は、まるでどこかの令嬢めいた雰囲気を漂わせている。小学生と小高い展望台にいるよりも、喫茶店で紅茶でも飲んでいる方が、よほど似合いそうだ。頭の隅で、そんなことを思う。
この山の上の展望台にやってくるまでにしたことは、二つだけ。
まず、コンビニに行って、おにぎりを食べた。そして、ある程度まで日が落ちるまで、そこで涼んだ。その間にさせられたことと言えば、少女と話をしていただけだ。魔法の手伝いだというから、何をさせられるかと少しわくわくしていたのに、拍子抜けしてしまった。
翔太の学校の話。友達の話。
どれも、とても愛おしそうに目を細めて聞くので、ついつい話過ぎてしまったくらいだが。
逆に少女が自分のことを語ることはなく、ただ翔太が話をするだけ。名前すらも、未だに教えてくれない。
それでいて、ご飯も全て「手伝わせているのは私だから」と言って全て自分で買うのだから、どうも目的がつかめない。これではまるで、ただ、翔太の話を聞きたいだけみたいだ。
彼女が一つだけ頼んだこと。
それは、日暮れに、町全体を見晴らせる、山の上の展望台に行くことだった。
「お姉さんはさ、どんな魔法が使えるの?」
その問いに、遠く広がる町を見つめていた少女は、顔をこちらに向けた。
ヘーゼルの瞳は、残照を映して、橙色に染まっている。
「それは、翔太くんが家に帰ることを約束してくれたら、見せてあげるわ」
その言葉に、やっぱりばれてたか、と翔太は頭を掻いた。
翔太は家出中だった。
今日は、8月31日。夏休みの最終日だ。
翔太は全く宿題に手をつけていなかった。それで朝に母親と大喧嘩した挙句、家出を決行したのだ。
翔太が背負っている、ぱんぱんに膨れ上がったリュックサックには、満杯の水筒を何本も詰めている。家にあったお菓子も、ありったけ入れた。家に帰らなくたって、すむように。
でも、と翔太は心の中で呟いた。
「うん、約束する。ちゃんと家に帰るよ。だから魔法を教えて、お姉さん」
どういう訳か、今の翔太にとっては、少女と約束を結ぶ方が大事に思えるのだ。
それは、翔太を見つめていた、柔らかな瞳のせいかもしれない。どこまでも愛おしそうな、___まるで恋人を見るかのような、暖かな眼差しが、心地よかったかもしれない。
「わかったわ。準備も整ったし、魔法を見せてあげましょう」
少女は鍵を握りしめると、静かに目を瞑った。風もないのに、長い黒髪が、風邪を孕んだように膨れ上がる。
黒髪が夕焼けに照らされて、きらきら光る。りんとした横顔のその美しさに、翔太はひゅっと息を呑んだ。
ころりと、何かが落ちる音がした。
多分それは、翔太の心が、恋に落ちた音だった。
「無事目的も果たせたし、本当に良かった。それじゃあ、またね。___翔太」
そんな、名残惜しそうな呟きが、聞こえた気がした。
次の瞬間、ごう、と風が吹いて、翔太は目を瞑る。もう一度目を開けたとき、その場には誰も居なくなっていた。
麦わら帽子が似合う、魔法使いの少女は、どうやら夕焼けに融けてしまったらしい。こんなに跡形もなく消えられてしまうと、本当に魔法使いだということを、信じるしかないだろう。
「お姉さんも、またね」
最後の少女の呟きに、翔太は小さく応えた。
名も知らぬ彼女は、またね、と言った。
だから、いつか、もう一度会えるのだ。訳もなく翔太は、そんなことを確信した。
・・・
「___っていうのが、俺の初恋の顛末だ」
みんみんと蝉が鳴き喚く中、公園のベンチに座って、翔太は友人にあらましを語り終えた。同時に、齧っていたアイスを食べきって、レジ袋の中にごみを放り込む。
「今から思うと、彼女は多分、俺を助けてくれたんだと思う。あのまま公園を彷徨ってたら、倒れてもおかしくなかった。周りに人は居なかったし、下手したら死んでたかもしれない。まあ、あの後、死ぬほど母親に怒られたけど」
「へえ?そうなんだ。とりあえず俺がわかったのは、お前が意外とロマンチストだったことだ。あと、お前が彼女を作ったことのない理由」
今も好きなんだろ?と言われて、翔太は軽く肩を竦めた。それを口に出すほど、野暮なことはない。
はっきりしていることは、一つだけ。翔太が今まで見た一番美しいものは、あの時夕焼けに照らされた彼女の顔であることは、今も変わっていないことだけだ。
「一つ付け加えておくと、俺がその時貰ったアイスは、今食べてたやつだ」
「ああ、お前、最近あればっか食べてるもんな……。って、待て。あれ、去年発売開始のやつだろ?」
友人の顔が驚愕に染まっていくのを見て、翔太はくすくすと笑った。
そう。あの時翔太が貰ったアイスは、去年売り出し始めた物だ。当時の時代のコンビニに、売っている訳がない。それが意味することは、つまり。
「わあっ!」
どこかで聞いた覚えのある声が、翔太の鼓膜を震わせた。
次の瞬間、目の前で、麦わら帽の少女が見事にこけた。鞄の中身が、ばらばらと零れていく。
ころんころんと、鞄から落ちた何かが、翔太の足元に転げてくる。
翔太は何気なしにそれを拾うと、大きく目を見開いた。
それは、鍵だった。蛇の飾りがついた、真鍮の鍵だった。
震える指でそれを握りしめると、翔太は、今も必死に物を拾い集める少女に、声を掛けた。
「___お姉さん」
鍵を目の前に差し出すと、少女は物を拾う手を止めて、翔太を見上げる。
その面差しは、焦がれ続けた少女のものより、ほんの僅かだけ幼かった。
「あなたが好きです。どうか、名前を教えてくれませんか」
夏の終わりに、翔太はようやく、時駆ける魔法使いに追い付いた。
夏の終わりと魔法使い 紫野晴音 @nathume-crowley
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