第5話 積み木並べ
ここは築50年の古い市営住宅、父親が朝方仕事から帰るとポストに一通の手紙が入っていた。
三歳半検診のお知らせ。父親は手紙をギュッと握り潰す。
脳裏に2年前の記憶が蘇る。
「さあ、にゃんにゃんはどれかな?」
保健師が可愛いイラストが描かれたパネルを娘に見せる。娘は無表情でぴくりとも反応しない。
「ほら、にゃんこの事だよ!あーちゃん、にゃんこ!!」
父親は娘の手をパネルの前に突き出し指差しを促す。
「お父さん、自然体でお願いします」
保健師は苦笑いで父親を宥めながら、この親子の問診票を確認する。
「えっと・・・お嬢さんは積み木も発語も・・・」
保健師が言いかけると父親はハッとした顔で保健師の顔を見る。一瞬体から力が抜ける。すると、娘は反り返って父親の腕の中から逃げ出してしまった。父親は急いで娘を追いかける。
「今日は発達心理の先生もいらっしゃっているんですが良かったら別室で少しお話をしませんか?」
保健師は小声でそう言うと父親の肩に手を置く。娘は父親の腕の中で泣き叫ぶ。皆の視線が痛い。
「いっ・・・いえ結構です!家ではちゃんと出来ますから!!」
父親はそう吐き捨てると逃げるように会場を後にした。
あの日の痛い視線をまた浴びなくてはならないと思うと憂鬱になる。娘は未だ積み木も積めないし、言葉も発しない。
玄関を開けると娘がテーブルの上に積み木を並べている。傍らでは疲れきった娘の祖母がイビキをかいて寝ている。
「あーちゃん、少しパパとお散歩しようか?あーちゃんの大好きな電車を見に行こうよ」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
パステルカラーのジョイントマットの上で保育士が絵本を読み聞かせている。ここは、昼下がりのいしづみの園。
お腹を満たした子供達は保育士の周りに集まり物語の世界に浸る。
私は、あの日から毎晩悪夢を見るようになった。眠りが浅いせいかこの時間帯は船をこぐ。足元で積み木をひたすら並べている女の子を見ていると眠気に負けてしまいそうだ。少し気分も悪い。
気分転換をかねて中庭に出ると博が読書をしていた。博が私に気付く。
「穴熊が迷い混んだかと思った。ヒドイ顔だな」
私は博に背中を向ける。
「待てよ!」
博は本を閉じて私を引き留めた。
「お前日記を書いているか?」
「いっ、いきなりなんなの!?書いてないわよそんなの」
そう私が答えると博はため息をついて自分のポケットから小さなノートとペンを取り出した。
「これやるよ」
だいぶ年期の入ったノートだ。博の時代の物だろうか?
「お前、いつもつまらなそうにしてるからさ。日記でも書いたらどうだ?」
「嫌よ記憶に残すなんて」
自分の事を記録するなんて嫌だ。そもそもここに存在している事さえ本意ではない。ましてや、誰かの目に触れる可能性があるものを作り出してしまうと考えると恐ろしい。
「まだ消えたいと思ってるんだ?」
博が笑顔で言う。
「どうしたら消えるんだろう?」
私は質問に質問で返す。
「さあ、それは自分で考えるもんなんじゃないの」
博は私に背を向けた。並ぶと身長の差があまり無い事に気付いた。私よりも2コ下の博の背中がずっと大人に見える。自分が恥ずかしく思う。
「消えるって事は、忘れるって事だよ」
私はそれを望んでいるはず。なのに博に対して何も言えない・・・。沈黙の後に博が続ける。
「だからさ、日記書けよ。お前が消える時にお前の日記を俺に託せ」
博が振り向く。うっすらと笑顔を浮かべている。
子供達の元気な声が廊下を駆け巡る。朗読の時間が終わった合図だ。
「俺が先の時は、俺の日記をお前にやるから」
博はそう言い残すと、いつもと違う彼の雰囲気に戸惑う私を残し行ってしまった。
部屋へ戻るとあの女の子がまだ積み木を並べている。私は自分が消える条件は何なのか考える。
「あなたは、積み木を並べきったら満足?」
女の子に聞いてみても返事は返って来ない。消えるとは忘れる事・・・忘れられる事・・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冬の朝は空気が澄んでいる。一番好きな時間帯。
父親は女の子と手を繋ぎ電車を待っている。沢山の乗客を乗せた電車は女の子が好きなものの一つだ。
線路を見ている女の子はとても大人しい。
静かな時間を過ごしていると沢山の事を思い出し、沢山の事を考えてしまう。
この間、仕事先で元妻に会った。トラックで資材を運ぶと元妻と新しい旦那さんが大工さん達に暖かいお茶と菓子を振る舞っている。元妻はお腹が大きい。
自分は暫くトラックから出れずに冷たい缶コーヒーをちびちびと飲んでいた。
父親は先の事を考える。
元妻は、春先には新築の大きな注文住宅で可愛い赤ん坊と優しい旦那さんと食卓を囲んでいるだろうか・・・
自分達は・・・・・・。
父親は目を閉じる。娘と己の先が見えない。
冷たい外気が現実に連れ戻す。
カンカンカンカン
娘が遮断機をくぐる。
今なら・・・今ならまだ間に合う。
カンカンカンカン
それなのに、足が動かない。
「パァ・・・パ」
娘が手のひらをしっかりと私に向けて振っている。
今、パパと言った?
カンカンカンカン
今なら、きっとまだ間に合う・・・・・・まだ・・・
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