4—2
この患者は劇的変異後の患者だった。
全身の細胞に悪魔の爪跡が残っている。
ふたたび変異するなんて、通常では、ありえない。
ありえないことが起こったということは、原因は真也の新薬だ。
すぐさま、プリンスが呼びだされた。
「何が起こった?」
「はい。患者のDNAを投薬前、投薬後で比較しました。すると、投薬後、患者の塩基配列に大きな変化がありました。投薬後の患者の塩基配列は、生まれたときの、本来の配列に近くなっています。発病中の劇的変異前の配列です」
「Mの起こしたミューテーションを治癒したのか?」
「治癒と言えるかどうか……つまり、こういうことです。
僕の開発した新薬は、ディーモンズ・スクラッチに付着するナノ粒子の人工色素です。この色素は体温に反応して、数時間で溶解。汗や尿とともに排出されます。ですから、これじたいは無害なんです。
ただ、突起に付着しているあいだ、どうやら、M酵素は、自分のつけた爪跡を感知できなくなる。一種の目隠しですね。
なので、体内にMを持たないノンキャリアが飲んでも反応はありません。が、劇的変異後の患者の体内には、うようよMがいます。
目隠しされて、突起を認識できなくなったMが、再度、全身のDNAにとりつく。そして、二度めのミューテーションを起こさせる。
この二度めのミューテーションでは、どういうわけか、一度めの変異をもとの配列に戻す形で表れます。一度めの変異は、言わば、DNAの歪みです。歪みを正そうとする働きが起きるのかもしれません。
ですが、体の形を変形させるほどの変化に、二度も耐えられるように、人体はできていません。大部分の体細胞が壊死し、患者は死亡しました」
「つまり、ノンキャリアにはまったく無害。キャリアには毒になる」
「そうです。そして、この薬の反応を利用すれば、発病を抑えることができます。
従来の検査紙で陽性が出る患者は、劇的変異直前です。体内のほとんどの遺伝情報が書き換えられている。
この状態で新薬を投与すれば、再度、書き換えが起こる。劇的変異を起こす前に、変形を止めることができる。変形を止めても、人工色素が溶ければ爪跡は残る。その後はMの変異を受けつけません」
「ヘルを制御できる新薬。ワクチンだな。いいだろう。たったいまから、この新薬の研究を最優先し、全スタッフで取り組む。これが実用化されれば、ヘルは恐ろしい病ではなくなる」
待望のヘル・ワクチン。
全人類が待ち望んでいた。
なのに、そういうプリンスのおもてには、まだ、かげりがある。
この人の心は、大切な人を亡くしたときに、どこか欠け落ちてしまった。二度と完全な形には戻らない。心の底から、うちふるえるような歓喜を感じることはできない。
真也が、そうであるように。
「だが、その前に、やっておかなければな」と、プリンスは暗い目をして言う。
「何をです?」
「疫神を一掃する」
「どうやって?」
「おまえのワクチンを使う」
言われて、やっと、真也は気づいた。
「そうか。やつらは、ヘルのキャリアだ。ワクチンを使えば、さっきの患者のように……」
「そう。二度めの劇的変異を起こして死亡する」
真也は全身の血が沸騰するような感覚をおぼえた。
ついに、復讐のときが来た——
「その作戦に僕も参加させてください」
「おまえは、このワクチンの研究の中心人物だぞ。万一のことがあるといけない」
「いいえ。あとは症例を集めて、ワクチンの投与時期を算出するだけです。僕がいなくても完成できる。僕は、この手で氷河を倒したいんだ」
プリンスは戸惑っていた。
しかし、不承不承、了承した。
真也が一歩もひかないことを、プリンスは知っていたのだ。
「わかった。ただし、作戦には私も同行する。おまえがムチャしないよう、見張ってるからな」
それから、作戦は急ピッチで進められた。
三月。
その日、教団がイケニエの儀式をすることをつかんだ。奇襲をかけるために、軍用ヘリで、御神楽山をめざす。
そのヘリのなかで、真也はプリンスと話した。
「祭の日なら、疫神が一同に集まる。だからだったんですね。僕が御神楽山の祭壇で救出されたときも。襲撃のために、コマンダーを送ったんだ」
「そう。ただし、あの祭は毎年、違う日にやるだろ? だから、正確な日取りが、なかなか、わからなくてな」
「その年、イケニエになる子どもの誕生日前後に祭をおこなうことになってるから」
「おまえを見つけた年は、祭の日が急に早まったみたいだった。だから、出遅れてしまった。しかし、そのおかげで、おまえをひろうことができたことは幸いだった」
プリンスは、まっすぐに真也を見つめる。
「おまえの望みは氷河を倒すことだったな。おそらく、その願いは今日、かなう。今日が、やつらにとって最後の祭の日だ。復讐が果たされたら、おまえは、どうする? そのことを、ずっと心の支えにしてきたんだろう?」
氷河が死んだら?
そんなこと、わからない。
でも、心がカラッポになりそうな気がする。
生きる目的をなくして、そのさき、どうしたらいいんだろう?
すると、プリンスが真也の手をにぎってきた。
少なからず、真也はおどろいた。
プリンスが、そんな甘いことをする人だとは思ってなかった。ベッドのなか以外で、こんなふうにされるのは初めてだ。
自分でも意外だったが、真也は彼に手をにぎられているのが、イヤじゃなかった。
そのまま、目的地まで、無言で手をにぎりあっていた。
祭壇の見える、やや高い位置にヘリは降りた。
コマンダーは作戦どおりに散開していく。
手にしているのは、真也の新薬をしこんだ特殊な銃弾をこめた銃だ。標的に命中すると、弾が体内にとどまり、薬剤を放出する仕組みになっている。
「僕たちは降りないんですか?」
「ここからでも、じゅうぶん、見える」
「僕は自分の手で氷河を倒したい」
「おまえの作った薬が、やつを殺すんだ。おまえが手をくだすのと同じだよ」
「それは、そうだけど……」
真也は、あせっていた。でも、それをつとめて、プリンスには悟られないようにした。
いずれ、チャンスはやってくるに違いない。
疫神が現れれば、ヘリを守るコマンダーは手薄になる。そのすきに、ヘリをぬけだすのだ。
武器は、ひそかに手に入れている。
武器開発部門の研究員に、小型のけん銃を改造してもらった。もちろん、弾丸は新薬入り特殊弾だ。
(破壊力はコマンダーのマシンガンより劣る。でも、至近距離で撃てば、殺傷力に問題はない)
ポケットのなかで、銃をにぎりしめていた。
時間は、ゆっくりとすぎていく。
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