第3話 かなりの重症でしょうか

「あ、楠木君。おはよう!」


 っ!?

 やっぱ幻覚じゃなかった! 現実に羽深さんが僕の名前を口にしている!!

 僕は歓喜のあまり動作が何秒間か停止した。

 再起動後、どうにか人として最低限示すべき礼儀を絞り出すことができた。


 昨日の朝のことは現実だったのか夢だったのかと一晩中悶々と過ごした僕は、寝不足で目の下に隈を作って、それでもやはり早朝に登校してきた。その甲斐あってのこれである。


「ぉ……はよぅ」


 羽深さん……と僕も続けてその名を口にしてみたかったが、こちらからその名を発するのは烏滸がましいのじゃないかという気持ちの方が勝り、またしてもおかしなテンションの挨拶になってしまった。


「ふふ」


 う、笑われてしまった……。

 いや、こんな自分でもクイーンの感情をいくらか動かすことができたと誇るべきか。ってその発想がすでに卑屈だけど。


 挨拶を終えるとまた羽深さんはスマホを取り出して何かを聴く準備を始める。

 と、羽深さんが取り出したイヤホン。

 心なしか自慢げに見せつけるように取り上げたように見えなくもなかったイヤホン。

 いつもと違うやつだ。おニューなのかな。

 というよりか問題はそこじゃない。

 あのイヤホン、なんと僕が使ってるのと同じやつ!?


 うぉ〜。おそろだ! 学校のクイーンとおそろのイヤホンだ! どうだ、すごいだろ! おいらのイヤホンはなんとクイーンとお揃いだぜ!!


 などと自慢する気はさらさらない。

 当然だ。

 これは僕だけが知る甘やかなる二人だけの秘密なのだ。人に知らせるなんてもったいないことできるものか。


 それにしてもこのイヤホン。SHURE製のカナル型イヤホンで、実はリスニング用途というよりはライブなんかで演奏時にプレイヤーがモニターする用途でよく使われるタイプのものだ。

 音質の特色としては極めてフラット。低域から高域まで色付けのないフラットな特性なのだ。

 だからリスニング用途で音楽的に美味しい帯域を強調したものとはちょっと違って、もしかすると一般用途には若干の物足りなさを感じる人もいるかもしれない。いわゆるドンシャリと言われるようなサウンドからは一番遠い。演奏する側としてはあまり音をチューニングしないでそのまんまの素の音をモニターできる方がありがたい。


 それにステージ上って演者用のモニタースピーカーやギターアンプから結構な爆音が鳴っていたりするので、実はミュージシャンには難聴問題が付き纏う。ミュージシャンの耳を保護するという観点からこのインイヤーモニター(通称イヤモニ)というものが使われるようになったという背景がある。


 とまあ、そんな用途のイヤホンをチョイスするとは、羽深さんもなかなかマニアックだな。

 このイヤモニだが、世間ではSHURE掛けなどと呼ばれる独特の装着方法があって、慣れるまではちょっと手間取りがちだ。


 具体的には、スポンジ状のイヤープラグを一旦指で揉むような感じで縮めて耳の穴に突っ込む。そして、ケーブルは耳の上から耳の後ろを通して後頭部、そして背中という具合の配線になる。

 イヤープラグは耳の中で元の形状に戻ろうとするので、耳の形状にバッチリフィットすることになる。


 こっそり見守っていると、羽深さんもちょっと手間取りながらどうにか装着に成功したようで、またいつものように笑いを噛みしめるような、あるいははにかんでいるような、なんとも言えないかわいらしい表情で何かを聴き始めた。

 今日はいつにも増してニヤニヤが止まらないという様子だ。一体何を聴いているんだ。激しく気になるんだが。そうして見守っていたつもりが結局僕はいつのまにか見惚れてしまっていた。


 僕ら演奏する人間は、このイヤモニのケーブルがそのままだと演奏時に邪魔になったり、ケーブルの重みでイヤープラグが抜けかけたりするので、それを防ぐための小さな洗濯バサミ上のクリップをケーブルに付けて、それを後ろ襟なんかに挟んでケーブルを固定する。さすがに羽深さんのにはそんなオプション品は付いていないようだが。


 そんな羽深さんの様子を見て、僕も自分のイヤホンを装着して妄想の産物である「羽深さんが聴いてる音楽」のプレイリストを聴き始める。


 しばらくして、どうも視線を感じるので目を上げると、なんと羽深さんが目の前にいて僕を見下ろしている。僕は驚いて椅子から転げ落ちそうになるのをギリギリで踏み止まった。

 羽深さんがゼスチャーで何かを伝えようとしているので、僕は慌ててイヤホンを外した。


「それ……」


「……?」


 唐突に発せられた指示代名詞に、何のことを指しているのか把握できず疑問符しか浮かばない。


「その後ろに付いてるクリップみたいなの、わたしのには付いてなかったんだけど、種類が違ったのかな?」


 これはまた僕の拗らせすぎた妄想が見せている幻覚なのでしょうか? この学校に燦然と君臨するまごうことなき学校のクイーン、羽深さんから質問をされている気がするんですが……?


「これ」


 と今度は僕の後ろ襟を摘まんで、ケーブルを固定してるクリップのことを言ってるのだと具体的に教えてくれた。

 それはいいのだけど、羽深さんの腕が僕の肩から首の後ろに回されているこの状態に心臓が爆音でビートを刻んでいるんですけど!?

 クッ、BPMは200越えかな!?

 多分僕は今耳たぶを真っ赤にして固まっているはず。


「あ、あぁ、こ、こここれね」


 どうにか声を発するが、言葉としては成立していない状態だった。でも羽深さんには伝わったようで、近すぎた距離から少し下がってくれた。

 僕があまりにも真っ赤になっているせいか、羽深さんも少し顔が紅くなっている気がする。

 とりあえず僕は深呼吸を何度もして呼吸を落ち付けようと頑張る。


「これはイヤホンとセット販売されるわけじゃなくて、別途購入したものです。この機種の専用品ってわけでもないですし」


 どうにか平静を装って真っ当に答えることに成功した。


「そうなんだ。……てか、なんで敬語? わたしたちクラスメイトなのに……」


 と羽深さんは少し悲しげに目を伏せて言う。

 あぁ……お労しや……。と、使ったこともない言葉が脳裏に浮かぶ。

 殿上人であるあなた様にはお分かりにならないのですね……世の中には身分の違いというものが……というかあなたと違って身分の低い者が存在しているのですよ、クイーン……。


 いつにも増して卑屈な妄想に捕らわれ、言葉を発することができずにいる僕に痺れを切らしたのか、羽深さんが次句を継ぐ。


「それ、なんて検索したら見つかるのかな?」


「……あ、もしよろしければうちに予備で余らせてるのがあるので、差し上げましょうか、明日にでも?」


「え、楠木君のを? ほんとにいいの!?」


「え、は、はい。僕なんかと同じものでよろしければですけど……」


「やった! じゃあぜひ! ていうかまた敬語」


 満面の笑みを湛えて無邪気に喜んだかと思えば、直後には少しほっぺを膨らましてみせるこの天使は現実の存在なのだろうか……? あるいはこの世に顕現した本物の天使ですか?

 これがもし、拗らせすぎた僕の妄想が見せる幻なのだとしたら、相当症状が重いところまで進行しているようだ。


 自分の健康状態にちょっと不安を覚える僕だった。

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